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教養とは何か 2009.8.22


 「そんなことをすると人に笑われるよ」という呪いの言葉について
 村上陽一郎の「あらためて教養とは」という書を読んだ。そこで筆者は、教養を身につけるとは自分の中に「ものさし=ある種の枠組み」を確立していくことであり、「みっともない」「恥ずかしい」という感覚をもう一度見直すべきだと述べている。
 大変わかりやすく、全面的に賛成するのだが、筆者と微妙に違うのは、小さい頃親から言われ続けてきた言葉だ。筆者は「そんなことはみっともないからやめなさい」と言われてきたのであり、私の場合は「そんなことをすると人に笑われるからやめなさい」という言葉だ。似ているが全く違う。「みっともないからやめる」というのはあくまで主体は自分の方にあるが、「人に笑われるからやめる」というのは他人に主体を委ねてしまっている。自分は受身でしかない。これではいつまでたっても「自分のものさし」がもてないのだ。いや、「ものさし」はもてるのだが、つねに引っ込み思案なものさしである。前者では、「みっともなくない」ことは正々堂々とやれるが、後者では、人前に出ること自体に消極的になってしまう。「みっともなくない」ことであっても笑われる可能性があるからだ。だからお祭りで踊ることがどうしてもできないのだ。 これはもちろん私自身の資質もあるのだろう。同じ言葉を言われてもお祭りで踊れる人はきっといるはずだ。しかし、私の場合はそのようになった。だから、この言葉は絶対に子どもには言わないようにしてきた。その成果が出たのか、子どもたちはお祭りの太鼓を叩いた。しかし、やはりお祭りで踊ろうとはしない。
 閑話休題。村上氏は「みっともないというものさし」の復権を唱えているのだが、どういうときがみっともないのかという基準はそれほど明確ではない。その都度親が教えていくものであろう。従って、それぞれの親によってかなり幅があるだろう。ただ、とにかく、何かを行うときに、ただやりたいからやるというのではなく、それをやったらみっともなくないかどうか、恥ずかしくないかどうか、と自分自身に問うてからやるという習慣が確立するということだ。つまり、欲望と行為との間に関所というか、関門をつくるということだ。動物行動学者の日高敏隆氏はこれを水道の蛇口に譬えている。人間には本能というものはなく、衝動だけがある。衝動とは水槽にたまる水のようなものである。その衝動(たまった水)を行為として実現するかどうか(蛇口をひねって水を出すかどうか)は蛇口によって決まるという。動物はこの蛇口が遺伝的に決まっているので決まった行動をとるが、人間はこの蛇口を個々の文化によって決めているというのだ。つまりこれが「社会のものさし=みっともないというものさし」である。そうして今、この「社会のものさし=教養」が失われているというのが村上氏の考えである。
 さて、この「社会のものさし」がなくなったということは自由になったということなのか。というと、どうも現実はそうではない。「みっともない」などというあいまいな基準ではなく、もっと明確な基準がこの世を支配している。それは「お金」である。「お金」になるかならないかという「ものさし」である。