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「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」--「論語」--

     道とは何か

 この文は論語の中でもかなり魅力ある文である。「永遠の未完成これ完成である」とか「死ぬときは常に前のめりで死にたい」とか、読んだ瞬間そのとおりだと叫びたくなるような、勇気を与えてくれることばである。

 「朝、人間として本当に正しい道を知ることができたならば、たとえ夕方死んでも悔いはない」という意味でだいたい理解してきた。私たちはそれぞれが自分なりの道を歩いているが、どの道が正しい道なのか、それがわからないので恐る恐る毎日歩いているのである。もしも、自分の選んだ道が間違っていれば自分の一生が取り返しのつかないものになってしまうという不安がいつもある。だからもし、これが本当に正しい道なのだとわかったならば、たとえその道の途中で死のうとも悔いはない。人生とはどこかに行き着くことが大事なのではなく、正しい道を歩み続けることが大事なのだ、とこんな風に理解してきたのである。

 しかし、いったんはそのように理解しても、やはり素朴な疑問が生じてくる。「道」というものは「聞」いただけで、それで満足して死ねるようなものなのかということ。道というのは本来どこかに通じているもので、道という言葉はしかし、かなり目的意識を含んだ言葉に思える。そうであるならば道を聞いただけで死ねるという言葉の真意がよくわからないくなる。道という言葉をもっと哲学的な問としてとらえるならば、しっくりとくる。例えば、「人は何のために生きるのか」とか「人生とは何ぞや」「人間とは何だ」という哲学的な問に対する答えが「道」であるなら、確かにもうそれがわかったら死んでもいいと思う。私がかろうじて生きているのはとにかく知りたいからである。自分が何故ここにいるのか、何をすればいいのか。いや、何かをしたいわけではないのだ。ただ知りたいのだ。知りたい、知りたい。私はいったい何物なのか。私は何もしたくない。存在はしたいけれども、何物かであろうとは思わない。出家はしたくない。できれば穀潰しで一生を終えたい。それが可能なのは一部の金持ちと病人であろう。だから罰当たりにも病人に憧れたりするのだ。

 さて、話はさらにそれてしまうようだが、古代マヤ文明やアステカ文明などでは生け贄というのがあって、生きたまま神に捧げられた人間がいたという。神に捧げられるために労働を免除され、清潔な部屋で食べ物を不自由なく与えられる生活。そんなものに私は憧れてしまう。ブロイラーのように不健康な狭い空間に押し込められて無理矢理餌を与えられるのとは全く違う。神への生け贄は特別待遇でなければならない。それがたとえ20歳までであっても、すばらしい一生のような気がする。現代の人間はとかく長生きしたがり過ぎる。

 美しい盛りの肉体を神に捧げる。すばらしい人生ではないだろうか。

 「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」とはこのことをいっているのではないだろうか。「道」とは神に自らの肉体を捧げること。自分の命は神の糧となる。それがわかれば20歳で死んでもいい。そのように読みとってもいいだろう。人生の終わりはいつだって途中なのだ。百歳生きようが二百歳生きようが、死ぬのはいつだって途中だ。だから自分の道の正しさを確信して死にたいのだ。