表紙文学と昆虫>餘五大夫蜂を救い蜂報恩の事


餘五大夫蜂を救い蜂報恩の事


 「十訓抄 第一可施人恵事」より

むかし、中納言和田丸と聞る人おはしけり。其末に余五大夫といふ兵「者」有けり。年比三輪の市の側に城を作りて、粧ひいかめしうして住ける程に、妻のかたきにせめられて、城も破れ、兵もことごとく打失にけり。からうじて命ばかりいきて、初瀬山のおくに籠てけり。敵あさり求めけれども、深く用意して、笠置といふ山寺の岩屋の有ける中にかくれて、二三日住けるほどに岩のもとにて●蛛といふもののいをかけたりけるに、大なる蜂のかかりたりけるに、蛛のいをくりかけてまきころさんとしける時に、愍をおこしてとりてはじなちて、蜂にいひけるやう、いけるものは命に過たるものなし。前世の戒力すくなくて、畜生と生まれたれども、心あるは命を惜む事人にかはらず。恩を重くする事同じかるべし。我敵にせめられてからきめをみる。身をつみて汝が命をたすけむ。必ずおもひしれとて放ちやりつ。其夜の夢に、かきの水干袴きたる男のきていふやう、晝の仰悉く耳にとまりて侍る。御志実に忝し。我つたなき身を受けたりといへども、いかでかその恩を報じ奉らざらん。願は我申さむままに構へ給へ。君の敵亡さんといふ。誰人のかくはのたまふぞといへば、晝の蛛の網にからまれつる蜂はをのれに侍ると云。あやしながら、いかにしてか敵をばうつべき。我にしたがひたりしもの、十が九は亡び失ぬ。城もなし、かかりもなし、惣じて立あふべき方もなしといへば、などかくはのたまふ。残りたるものも侍るらん。二三十人ばかり、かまへてかたらひ集めたまへ。此うしろの山に、蜂の巣四五十ばかりあり。是もみな我に同心なる物なり。語ひ集て力をくはへ奉らんに。などか打得給はざらん。但其軍したまはん日は、なよせたまひそ。本の城のほどに假屋をつくりて、なりひさご、壺、瓶子、かやうの物多く置たまへ。やうやうまかりつどはんずれば、そこにかくれいらんためなり。しかじか其日吉らん、とちぎりていぬと思ふ程に、夢さめぬ。うける事なれど、いみじく哀に覚えて、夜にかくれ故郷へ出て、彼是かくれをる者共を語て云、我生りとてかひなし。○後に一矢射てしなばやと思ふ。弓箭の道はさこそあれ、各共なへと云ひければ、誠に可然事とて、五十人ばかり出にけり。假屋造て、ありし夢のままにしつらひければ、是は何のためぞとあやしみければ、さるべきゆへありとて、めだたくしつらひをきつ。其朝にほのぼのと明はなるるほどに、山のおくのかたより、大なる蜂一二百、二三百うちむれて、いくら共なく入集るさま、いと気むづかしく見へけり。日さし出るほどに、敵の許へ、是に侍り、申べきことありといへりければ、敵悦びて、尋失ひて安からずおぼえつるに、いみじき幸なりとて、三百騎ばかり打出たり。いきほひをくらぶるに物の数にもあらねば、侮りて、いつしかかけむほどに、蜂ども假屋より雲霞のごとくわき出、敵の人ごとに二三十、四五十取つかぬはなし。目鼻ともなくはたらく所ごとにさし損じけるほどに、物も覚えず打ころせども五六こそしぬれ、いかにもいかにもする力なくて、弓箭の行衛もしらず、まず顔をふさぎさはぎけるほどに、思ふさまに馳まはりて、敵三百餘騎、時の程にたやすくうち殺してければ、思なく本のあとに還居にけり。死たる蜂少々ありければ、笠置のうしろの山に埋て、堂をたてなどして年ごとに蜂の忌日とて恩を報じけり。末にははかばかしき子孫もなかりければ、此寺をば敵の孫にあたりける法師の祖父の、敵に成にける蜂の行衛なりとて焼失ひければ、いみじき鳴呼者也とて、奈良よりはなたれにけり。すべて蜂は短少の虫なれども、仁智の心有といへり。

蜂一匹助けたら、蜂二三百匹で恩返しをしてくれたという。そのうちの五六匹はその時の闘いで殺されている。これをどう考えるか。助けたその一匹は特別なえらい蜂だったのか。それとも、助けるときによくよくその蜂に言い聞かせたのがよかったのか。「いいか、蜂よ、生き物というものは命がなにより大事だ。前世の運がなくて蜂になんぞ生まれたが、命あるものはどんな生き物でも命が惜しいものだ。恩を返すのも生き物として同じだぞ」と言い聞かせている。
その言葉に感じたのか。
全くもってあり得ない話であるが、後日譚が意外にリアルなのだ。
蜂に助けられた男は笠置の後ろの山に堂を建てて毎年蜂にお参りしていたのだ、子孫もなく滅びてしまう。其の後、敵の孫にあたる法師の祖父が、そのお堂を焼いて先祖の仇打ちをする。その男は気ちがい呼ばわりされて奈良から追放になるという話。なぜこれほど詳しいのだろうか。
蜂というのは何かの象徴なのだろうか。
蜂須賀小六とかそういう一族の象徴とか。