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今物語

(原文)

一 野辺の松虫
 大納言なりける人、内へまゐりて、女房あまた物がたりしける所にやすらひければ、この人のあふぎを手ごとに取りて見けるに、弁のすがたしける人を書きたりけるをみて、この女房ども、「なくねなそへそ野辺の松むし」と、くちぐちにひとりごちあへるを、この人ききて、をかしとおもひたるに、おくのかたより、ただいま人のきたるなめりとおぼゆるに、「これはいかに。なくねなそへそとおぼゆるは」と、しりたりがほにいふおとのするを、このいまきたる人、しばしためらひて、いと人にくく、いうなるけしきにて、「源氏のしたがさねのしりは、みじかかるべきかは」とばかりしのびやかにこたふるを、このをとこあはれに心にくくおぼえて、「ぬしゆかしき物かな。たれならん」とうちつけにうきたちけり。たふべくもおぼえざりければ、後にはさらぬ人にたづねければ、「近衛院の御はは、ひが事、かうのとのの御つぼね」とささやきければ、いでやことわりなるべし。そののちたぐひなきものおもひになりにけり。
 おほかたの秋の別もかなしきに鳴くねなそへそ野辺の松虫

★★★(解説)
源氏物語をふまえつつ、その場面を知っている者どうしが心を通わせ合う。


ニ 野もせにつだく
 薩摩守忠度といふ人ありき。宮ばらの女房に物申さむとて、つぼねのうへざままで、ためらひけるが、事のほかに夜ふけにければ、あふぎをはらはらとつかひならして、ききしらせければ、このつぼねの心しりの女房、「野もせにすだくむしのねや」とながめけるをききて、あふぎをつかひやみにける。人しづまりて、いであひたりけるに、此女房、「あふぎをばなどやつかひたまはざりけるぞ」といひければ、「いさ、かしかましとかやきこえつれば」といひたりける、やさしかりけり。
 かしかまし野もせにすだく虫のねやわれだに物はいはでこそおもへ

★★★(解説)
これも古歌をふまえつつ、判じ物のようにその場にふさわしい行動をとり、互いにそれと知って盛り上がる。

ある殿上人、ふるき宮ばらへ夜ふくる程に參りて、北のたいのめむだう〔馬道〕にたゝずみけるに、局におるゝ人の氣色あまたしければ、ひきかくれてのぞきけるに、御局のやり水に螢のおほくすだきけるを見て、さきにたちたる女房の、螢火みだれとびてとうちながめたるに、つぎなる人、夕殿に螢とんでとくちずさむ。しりにたちたる人、かくれぬものは夏むしのはなやかにひとりごちたり。とりどりにやさしくおもしろくて、此男何となくふしなからんもほいなくて、ねずなきをしいでたりける。さきなる女房、ものおそろしや。螢にも聲のありけるよ。とて、つやつやさはぎたるけしきなく、うちしづまりたりける。あまりに色ふかくかなしくおぼえけるに、今ひとり、「なく虫よりもとこそ」ととりなしたりけり。是もおもひ入りたるほどおくゆかしくて、すべてとりどりにやさしかりける。

      後拾おもひにもゆる〔首卷〕
音もせでみさをにもゆる螢こそ鳴虫よりも哀れなりけれ
螢火亂飛秋已近。辰星早沒夜初長。夕殿螢飛思悄然。
〔後撰〕つゝめども隱れぬ物は夏虫の身より餘れる思ひ成けり

★★★(解説)
これも蛍を詠んだ古歌をふまえて、風流合戦の趣。