表紙文学と昆虫>松虫鈴虫物語

住蓮山
安楽寺 鹿ケ谷縁談図絵(一名松虫鈴虫物語)
法然上人
親鸞上人 一致の御教化法話
野田憲雄

第一回
諺にも、月に村雲花に嵐と云って、障害多きが娑婆のならい、実に法然上人親鸞上人、心を併せて末世相応の、要法を弘通(ぐづう)あそばし、易行念仏の浄土門を、開闢なさるるに付、図らずも南都北嶺の嫉みをうけさせられ、聖道諸宗の学匠方もったいなくも忍辱の法衣(ころも)着ながら、浄土門を滅亡せんと、朝廷へ奏聞したるばかりにて、頃は人皇(にんおう)八十三代、土御門天皇の御宇、承元元年、三月法然聖人は、土佐の国へ御流罪、親鸞聖人は、越後の国へ流しもの、御いたはしや、西海の波に漂わせられ、越路の雪に迷い玉ひ、その外数多の御弟子方、死罪流罪数知れず、洛中洛外の大騒動と相成る、しかるに此の騒動の起因(おこり)は、御弟子住蓮坊安楽坊の、両人に甚だ関係あることゆえ、今日より鹿ケ谷因縁を御話に及ぶ、称名諸共聴聞せられよ。
そもそも京都東山鹿ケ谷、住蓮坊安楽寺は、おお昔の宿縁あさからざる因縁なる哉住蓮安楽の両人、東山へ参られたが、一匹の白鹿出来たり、両人を導き、此の処は念仏有縁の道場なれば、住居し給えと、云うかと思えば今の白鹿は、消えてしまい、両人不思議に思い、ついに此の道場に住し、念仏修行怠りなく、廃れた童女をひきおこしたが、今の安楽寺じゃ、時のこの住蓮坊安楽坊の、素姓を尋ねるに、もとは歴々の武士にして、安楽坊は俗名、阿部の判官盛久というて、五百石の士(さむらい)、住蓮坊は北面の武士清原次郎左衛門信国という、伊勢の人じゃ、かねて親類同士のことといい、無二の朋友なれば、一日(あるひ)両人相携えて、吉水参詣せられたるが、おりしも法然聖人御説法の真最中、迦陵頻伽の御声にて、第十八願他力の法門、底を叩いての御教化、聞いた二人は有難いやら尊いやら、涙にむせんで喜ばれたが、中にも清原の信国じゃ、なんと盛久どの尊い御本願ではないか、造悪不善の泥凡夫が、無願無行のこのままで、報土往生遂げらるると、唯今の御教化じゃが、有難いではござらぬか、我ら不定の身を持ちながら、妻や子供に愛着し、未来程の一大事を知らなんだことの浅ましさよ、この世は僅か仮の宿、永の後生が大切なれば、これより出家得度して、法然様の御弟子となり仏道修行いたしては、いかがと言えば盛久も、よくよく宿善到来したが、泪ながらに誤り果て、それより両人法然聖人の御前へ出て、出家の儀を願われたら、聖人も深くも喜ばせられ、すぐに御許しに相成り、流転三界中乃至真実報恩者と、度人経の文を唱え給い、式のごとくモトドリをそらせられた、その時盛久は大声挙げて泣きだされたゆえ、信国はコレコレ貴殿は何が悲しくて泣かるるぞ、剃り落した髪が惜しいのか、妻や子供に愛着が残りて、そのように泣かれるかと、尋ねられて盛久は、落ち来る涙押し拭い、髪が惜しくて泣くでもなく、恩愛のために泣く涙でもござらぬ、我等武門の家に生まれ、寝てもさめても修羅の悪業、未来は苦患を受ける身が、今日よりは仏弟子となり、弓矢持つ手に数珠つまぐり、人を殺すが役目のこの身が、仏に仕える身となったは、ひとえに如来の御手回し、宿善厚き身の仕合せと、思えば泣かずにや居られぬと、喜ばれたとある。法然様もともに涙に咽ばせられ、これ盛久よ、その方武士であるときは、我が武運盛んにして、しかも久しくという意(こころ)で、盛久という名前なりしが、今日よりは安楽坊と、法号を遣わすぞや、二十五有のその間、迷い迷うた身の上なれど、もはやこの度が迷いの打ち止め、未来は安楽の悟りを開くその方ゆえに、安楽坊と名づけたぞや、それにつけても大悲の御恩を忘るなよ、こっちで楽なら楽な程、弥陀の御手元の御苦労は、いかほどとも知れぬぞや。
 苦を捨てて身を安楽と思いなば、苦にかわりける御恩をわするな御詠歌あらせられたとあるが、何と同行衆喜ばれよ、今法然様の御示しのごとく、我らが方で心易けりゃ、弥陀の手元に苦労がしてある当今の汽車や汽船は、乗り込むばかり機械の力で、数百里の遠方へ、手足ぬらさず旅行ができる、実に便利な楽なものじゃが、その代りワットが発明してより、七代考えた暁、完全な汽船が出来たので骨の折れたは大抵ではない、今弥陀の本願に乗じ浄土往生出来るのは、阿弥陀如来の親様が、五劫という長い間、思案の御胸を焦がさせられ、水火の中に身を沈めたまい、忍終不悔の根機づくにて、出来上がりた頓極易往の六字名号の汽船なり、故に生死の苦海ほとりなくひさしくしづめる我らをば弥陀弘誓(ぐぜい)の船のみぞのせてかならず渡しけると大師の御しめし故に六字一つで満足すれば智者聖人を始め善悪の凡夫共に手足かなわぬ盲人まで平等に御浄土の港へ安着するは、元祖大師臨終間近くの時一枚起請文として末代の我一人の為御残し下されたと信ずる時、行住坐臥に御恩の称名相続専一なり。
 曠劫の永の迷いの根切れして丸で助かる事の嬉しさ
と、口ずさみて喜ばれたとある、これより松虫鈴虫の両局の発心。

第二会
引き続いて聴聞に及ぶは、鹿ケ谷の因縁、清原の信国、判官盛久の両人は、出家して住蓮坊、安楽坊と名のり、東山鹿ケ谷に引籠り、日々鉦鈷なし、南無阿弥陀仏と勇ましく念仏修行して御座る、しかるに時は建永元年、七月十五日は、吉水法然聖人を請待(しょうだい)して、鹿ケ谷にて別時念仏の法要が勤まる、老若男女我も我もと参詣致して、京洛中は往来の人、皆手に数珠つまぐり、念仏唱えて、皆東山参詣じゃ、しかるところ、ここに後鳥羽院様御寵愛の、松虫鈴虫という二人の局、清水に参詣せられたが、その帰り道にて、大勢の人々が、アチラからも南無阿弥陀仏、コチラからも南無阿弥陀仏と、称名しながら、ドヤドヤと参らるる、その相(すがた)の殊勝さ勇ましさ、両人の局何事やらんと、御供の者に尋ねさせると、一人の女が申すには、唯今鹿ケ谷に於いて、法然聖人の御弟子、住蓮安楽と申す御僧達、別時念仏の法要を、勤めて居られます、別けて今日は御師匠を請待致し、女人成仏の本願を御教化下さるるとのこと、それゆえ老若男女のもの、唯今参詣でござりまするという、聞いた二人の御局は、宿善到来と申すものか、さようならば妾(わらわ)共も、一度参詣致しましょうと、それより鹿ケ谷へ御出なされたが、折しも住蓮安楽は、六時礼讃を勤めてござる、参詣人は野山にあふれ、御庵室は、ヲシアイヘシ合い、仏在世にも劣らぬ繁昌、松虫鈴虫も有難涙にムセビ、心いそいそ身もぞくぞく、しばらく礼拝、遂げて居る、その中勤行も終わるなり、御師匠法然聖人、布の法衣に麻の袈裟召されて、しづしづと高座の上に御登りあそばす、幾百の参詣は水を打ちたる如く、静まりきって音もせず、頭をたれて聴聞して居ると、その時法然様の御法話には、出家功徳経の御サトシじゃ、天竺に吼蘭女という婦人があり、甚だ仏法に志深く、一日カルダイ尊者の説法を聞かれたか、有難さの余り、夫の留守をもかまわず、剃髪して尼になられた、然るところ吼蘭女の夫、帰宅して大きに怒り、おれの留守中に尼になる様なことは何でも不義に相違はない、横着者め直ぐに還俗せよと、首つかんで打擲いたし、そのまま座敷牢へ押し込んで仕舞ったが、一年半程過ぎたれば、髪は元の如く伸びた故、夫の命令止む方なく、遂に還俗致したが、この婦人命終わりて、焦熱地獄へ堕在した。しかるに一人の獄卒ありて、この者は娑婆に於いて、一度出家したるにより、その功徳にて地獄へは落とされぬという、すると地蔵菩薩が顕れたまい、そのもの還俗の咎ある故に、地獄へつれて往けと申される、いえいえ地獄に落とされぬという。地蔵は落とせとのたまう、互いに争いの末遂に地蔵菩薩が御勝ちなされて、吼蘭女を地獄へ遣わされた、然るに一度出家の功徳によりて、吼蘭女は申すに及ばず、前から地獄に居たる罪人一同残らず罪人一同残らず助かり地獄を逃れて、天上界へ生まれたとある、因縁を御法話あらせられ、なお又三十五願のこころを以て、女人成仏のいわれを御説きなされ一切凡夫のその中にも分けて諸仏の本願に漏れ、仏法非器とはねのけられたは、今在座の女人じゃぞ、色は白くても焦熱の黒くすべ、声はやさしくても叫喚地獄で泣き叫ぶその時は、十方法界にひびき渡るとある、この世に於いては三従の障りあり、未来にとりては永不成仏と頭の上がる時節のない、五障垢穢の女身をば、阿弥陀如来の大悲の親様が、哀れ不便と思し召し、我助けずばいづれの仏の助けたまわんぞと、難作能作(なんさのうさ)の修行の暁、成就したる名号にて、サア助かるぞサア救うぞと、呼んで下さる本願なりと、御説法あそばしたら、参詣のもの一同は泪をこぼさぬものはさてはなく、とりわけ松虫鈴虫は、人目も恥もあらばこそ、思わず知らず大声挙げて泣きだしさてさて有難きは弥陀の本願、かかるシブトイあさましい、鬼にツリとる大蛇に勝る女人の身を、易く仏になし下さるとは、やれやれ嬉しや南無阿弥陀仏と、随喜感嘆の涙に咽び、称名諸共一先ず御殿へ帰られたとあるが、何と同行衆、宿善到来とは言いながら若い盛りの女中でさえ、法然様の一座の御諭で、すぐに本願の御謂れを聞き開いて、喜ばれたではないか、然るに今日の御互い、六十五十の老いの身をもち、千座万座の御法を、耳の痛くなる程聞きながら、疑いの晴れ兼ねるは何故じゃ、露の命に長綱ひき、重い後生をかるはづみ、今日や明日には死なぬつもり、いつでも法話は聞けるつもりでいる故じゃ、あさましと気が付いたなら、大事をかけて聴聞する時は元祖大師の御遺言の如く南無阿弥陀仏にて往生するぞと信じて称うるばかりこの外奥深き事存ぜば二尊のあわれみにはづれ本願にもれ候べしと故に自力をはなれて他力に帰し衣食住の三つは念仏の助業なれば各々念仏三昧にて識業専一也 。

第三会
さて後鳥羽天皇の御寵愛浅からぬ松虫鈴虫の両局は法然聖人の御教化を鹿ケ谷にて聴聞致し歓喜の涙に咽びながら仙洞御所へ帰られたが何となく有難いやら尊いやら御説法の音が耳に留まり御慈悲の程が心肝に徹し寝ても寝られぬ有様なりしが或夜二人がうち寄りてナント鈴虫様、いつぞや法然様の御教化は、有難いでは御座らぬか、思うてみれば我々は、浅ましいことではある、これまで後生ということを、知らなんだとはいいながら、紅白粉で形を飾り、寝ては愛欲起きては邪見、悪業ばかり積み重ね、善根の蓄えとてもなんく、二十五有界生死に迷い、やうやうこの世へ生まれた身の上、今ここでお互いに、仏道修行いたさずば、元の三途へ堕在して、又と浮かぶ時節はなし、この世は夢なり幻なり、捨てて置かれる後生ではあるまい、ついては私剃髪して、住蓮様や安楽様の御弟子となり、念仏修行の身の上と、成りたいと存じまするが、あなたはいかがで申されたれば、鈴虫も膝を打ち、ようこそいいだして下された、わらわもとよりその覚悟、しかし我らが身の上は、三従とやらの障りあり、特に帝の御寵愛深く、我身ながらも我が身にあらず、いかがして忍び出ようやらと、二人の局発心の萌しはあれど、八重九重の禁裏の内、逃ぐるに逃げられず、意ばかりにうち暮らし、過ぐる月日を送られたが、時節到来と申すものか、その年は十二月十九日後鳥羽の院様は、紀州熊野への御参詣じゃ、百官百僚御供にて、證誠殿に年籠り頃しも師走十九日のことなれば、御留守中は京洛中も、いとしづまりて物淋しく、松虫鈴虫の御二人は、これ究竟の折柄なり、今宵の暗がり幸いに此の館をば忍び出て、鹿ケ谷へ尋ね往き、無理に出家を御願い申し、永き未来の安堵をして、念仏修行の身とならん、いざ忍び出でばやと、側女中をだまし寝させ、御寝間の戸をそっと明け、人目を忍びやうやうと、御屋形を出たまえば、あら悲しやな四方には、高塀ありて出られず、こは何とせんドウしやうとちぢにこころを砕けども、よき思案もつかぬうち、見つけられては一大事と、松虫はあたりを見回し、これ鈴虫どのあれ見給え、あの松の木の大枝が、高塀の外へ垂れている、垂れたる枝に帯を掛け、一人が帯に取り付いて、一人は下より抱き上げ、上へあがれば帯を引き揚げ、かようかように致したら、難なく塀は越されましょうと、いうより早々帯をかけ、右の如くに打ち越えて、一つの難は遁れたれど、又一つの悲しさは、塀の周囲の御堀の水じゃ、頃しも師走のことなれば、水凍りて深さは深し、寒風はげしく、真の闇、手足は凍えて身も動けず、まだ十七歳の鈴虫の前、此のつらさに堪えかねて、松虫に向かい振い声、何と松虫様、このありさまでは今宵はさても、向こうの岸へは越されませぬ、無理に越そうとしたならば、凍えて死ぬるは目前のことマアマア一先ず還りましょうと言えば松虫声ひそめ、愚かなことを言わるるぞ、此の塀越すが難義につきても、思い出すのは未来の苦患、今にも踏み出す死出の山、三途の河は惟一人、供も無ければ連れもなく、それを思えば愚かなこと、いつぞや法然様の御教化にも、仰せ下された八寒の氷に身を閉じられて、五尺の体は切らるるごとくと仰せられたでは御座らぬか、此の堀を恐れて地獄へ沈むか、此の堀越えて仏弟子となり、紫金の蓮華に端坐して、楽しみ受ける身となるか、沈むも浮かぶも此の堀一つ、よしや凍えて死ぬとも、よも如来の御見捨てはあるまい、イザ鈴虫殿越したまえと、勧められて鈴虫も、涙ながらに誤り果て、去らばこれより飛び込まんと、見ても恐ろしき堀の中、氷水のその中へ、互いに手に手を取り替せ、ざんぶとばかり飛び込みたまえば、御いたわしや花の女中、髪も乱れて着物は濡れ、ほんに身節も砕くる寒さ、それもいとわずやうやうと、向こうの岸へ渡り付き、あら嬉しや有難や、これが即ち三途の大河、これから先が浄土の道中、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、小声で念仏称えながら、人目を包む頬かむり、隠せど色香梅桜、器量は乱れ糸柳(いとやぎ)の、風に吹かるる有様にて、ヨロホイヨロホイ女足、歩みもなれぬ夜の道、探り探りて参られるとき、不思議なるかな鹿ケ谷の方より、一筋の光明白布を引きたるごとく、輝きて二人の足元を照らしたまう。訳は知らねど松虫鈴虫、こは不思議のことなるかな、これこそ大悲の念力ならんと、喜び喜び光明を便り、遂に鹿ケ谷まで参られたとあるが、サア同行衆実に二人の局達は、月よ花よの栄華を捨て、後生菩提を求めらるるは、自らの発起ではない、偏に如来の御手回しと相見える、それ故光明で導きて下されたのじゃ、末代の各々方も永々浮世の執着にかかり果て、後生程の一大事を、忘れて暮らして居たれども、今は宿善開発して、色光の光明の御手回しにて疑いの闇晴れ往生の足元明るうなり、摂取心光の御護りにて、行住坐臥に御念仏もろとも極楽浄土の道中するのじゃ不可思議の事なり

第四会
頃は建久元年十二月二十六日、森々と更け渡る丑満つ時、密かに御殿を忍び出たる、松虫鈴虫二人の官女は、東山の山坂を、忍びの身なれば提灯もなく、夜半の嵐に身はヒエわたり、寒さは寒し真の闇、こけつまろびつ往く中に、鹿ケ谷より一筋の、光明布を引きたる如く、照らしたもう、それを便りにようようと、御庵室の門前まで、参られたが、二人の女中、ヤレヤレ嬉しや今までの、暗い山坂は生死の旅路、此の門入るが極楽の、東門開く思いなり、二人は立ち寄り門の戸を、ホトホト叩き、頼みましょうとおとずれたまえば、まだ夜明けには間もある故、番人共も不肖ぶしょう、何人かは知らねども、此の庵室は夜る夜中(やちゅう)、入れることはならぬ故、用事あらば明朝来られよと、明ける気色のあらざれば糸より細き声をして、深い様子のありまして、夜中これまで参りしもの、委細は中で御話し申せば、何とぞ御明け下されよと、たっての願い番人も、いかさまそういうことなれば、一応願ってやりましょうと、云う中に早や奥の方にて、住蓮安楽の声として、夜中にても苦しうない早々是へ御通し申せと、いう声聞いて二人の局は、やれ嬉しや有難やと地獄で仏に遭たる心地、喜びながらしとやかに、御這入りなさるその姿、雪をあざむく貌(かんばせ)に、丹花の唇柳(くれないやなぎ)の眉、雲の鬢ずらたおやかに、腰は束ねたる糸の如く、紅の赤きをからず、白粉の白きをやとはず、天然備わる容色は、月も光を覆われ、花も色を奪わるる、天人もかくやと思うほどの女中じゃ、住蓮安楽の前に両手をつき、谷の戸出る鶯の、いとやさしき声にて、さて私共は因縁ありて、仙洞御所に仕える者、松虫鈴虫と申す賤しい女、恐れ多くも帝の御寵をうけ、この世においては何一つ、不足なき身でありまするが、過ぎし七月十五日、此の御庵室で彼方様の、礼讃とやらの御勤めを聞き、尚御師匠法然様の、御親切なる御教化を蒙り、生死無常の理が知られ、本願の尊さが身に染みて、じっとして居られねば何とぞ女姓(にょしょう)を改めて、憂世を離れ仏弟子となり、念仏修行が致したいと、今宵帝が御留守を幸いに、ひそかに御殿を忍び出て、夜中これまで参りしもの、哀れ願わくは御両僧様、出家の義御願申すで御座りますると、聞いて両人驚きいり、コレコレ女中何を言わるるぞ、深く思案をしてみられよ、浄土門の御教えは、出家になるにも及ばねば、尼になるにも及ばぬぞえ、出家は出家在家は在家、男女貴賤のへだてなく、生まれつきの木地なりで、六字名号の御謂れを聞いて信ずる本願なり、ここの道理が知られたら、それこそ天晴念仏行者、花の盛りの御女中を、どうして尼に致そうぞ、特に御寵愛の御二人を尼や法師にしたならば、帝の逆鱗はいかばかり、ユメユメ思いとどまられよと、いえど中々聞き入れず、二人の局は泪ながら、衣の袖に縋り付き、もし安楽様住蓮様、彼方(あなた)仰せは御尤もなれど、思い込んだる願心なれば、何卒許して下さりませ、もし此の儘帰りますれば、二度聞法(もんほう)は出来ぬ身の上、錦の褥に座りても、山海珍味を口にしても未来の程が恐ろしく、地獄の苦患(くげん)が思われて、楽しみじゃとは思われぬ、今帰れと仰せあるは、火の坑(あな)さして落ち込むより、悲しう思いますると、泣きつくどきつ頼まれたれば、住蓮安楽も涙にくれ、それほどまでの願心を、叶えぬというは気の毒なれど、何分仙洞様は御留守のことなり、我らばかりのはからいにもならず、法然様にも此の由を、伺うたその上にて、兎にも角にも致すべし、一先ず内裏へ立ち帰り、帝の許しを得られた上にて天下晴れての出家をせられよ、特に当時この頃は、浄土門の繁昌につき奈良叡山の嫉みを受け、種々の悪言を申し立て、禁裏へ讒奏致すをりから、御身方を法師にしたならば、いかなる大事になるかもしれず、我ら二人は厭わねど、浄土参りの先達の、法然様にもしやもし、難義難題がかかるとも知れず、そればかりが心配なれば、一先ず出家は思いとどまり、後日の事にせられよと、事を分けての挨拶なれば、二人の局は理に伏し、しばしは差うつむいて居られしたが、何思いけん松虫の前、手早く懐中より短刀取り出し、自害せんと覚悟の體、両人周章(あわて)立ち寄りて、こは何故のこの分野(ありさま)と、無理に刀をもぎはなせば松虫の前両眼より、ホロホロと涙を溢し
 哀れ憂き此の世の中にすたす身と知りつつ捨つる人ぞつれなき
もし両僧様何故とは御情けない、願叶わぬそれゆえに、早く浄土へ往生遂げ阿弥陀如来の親様に、直々剃髪願います、どうぞ殺して下されと、聞いて両僧は呆れ果て、それほどまでの決心なら、いかにも出家を叶えましょう、そんなら真実に、いかにも嘘は申すまい、たとい内裏の怒りに触れ、我々の身は死罪になるとも、八つ裂きになるとても儘よ、それほど思い込まれたものを、空しく御帰し申すなら、阿弥陀如来は浄土より、徹鑒(てんかん)の眼で御覧なされ、やれ住蓮安楽何をする、我がこころに思うあの女人、タマタマ宿善開発して、出家の願いをするものを、我が身の命が惜しいばかりに、追い返すとは情けないと、定めて嘆かせられもやせん又今出家を許したなら七寶の蓮台で、住蓮安楽は出来したりと、御喜びは必定なりと、自分に難義のかかると知りつつ、二人の局の願いを叶えイヨイヨ出家を許されたが、何と各々方、二人の局の決心と言い住蓮安楽の精神は、恐れ入るより外はあるまい、仏法を聞くについてはみなこの通り、命を捨て法を求めらるる、天竺の雪山童子は、二句の法門を聞くために、八面の羅刹に命を与え、唐土の恵可禅師は、我が腕を切り落として、達磨大師に法を求め、我が日本松虫鈴虫、命差し出して出家の願い斯様に聴聞してみれば、せめて命は捨てずとも、今日より後は後生の一大事に心がけ阿弥陀を深くたのまいらせ行住坐臥に御念仏とともに各々業務をはげまし日送り専一に候。
第五会
さて出家の願い叶いたれば、松虫鈴虫は大喜び、こころいそいそ身もぞくぞく住蓮坊安楽坊は、さらば剃髪にかかろうと、御仏前に燈明を捧げ、常の法衣を脱ぎ捨てて、白い衣に白い袈裟、手盥に水を備え、二人の後ろに立ち回り、剃刀執れば二人の局、西に向かいて手を合わせ、口に称名余念なし、その殊勝さしおらしさ、此の姿を眺めたる、住蓮坊は両眼より、ハラハラハラと涙を流し、アア、帝の御寵も無理ならず、花の盛りの女中方、いかに未来が大事じゃとて、尼の姿になろうとは、哀れというもおろかなりと、泣き出せば松虫の前、頭をあげ住蓮に向かい、
思いきや 仮の姿を 惜しむとて すへの薪を いかでたもたん
こほ仰せども存ぜず、今の姿は美しうても、捨て往く穢身(えしん)で御座ります、尼の姿は醜うても、やがて浄土へ参りなば、三十二相の身となれば、それが嬉しう御座ります、早く剃髪なし下されと、住蓮も感じ入り、こは誤りたり誤りたり、
惜しみつつ 野辺の薪と なさん身を 惜しまで宿る 花の台(うてな)ぞ
一首の歌を口づさみ、流転三界中等と、度人経の文を唱えつつ、ついに二人の黒髪を、剃り落してしまわれたが、それより松虫の前は、法名を妙亭と改め、鈴虫の前は釈尼妙智と頂戴した、二人の喜びはいかばかり、実に住蓮様安楽様、御礼は申し尽くされませぬ、それについても官女の身として、尼になり仙洞様の御留主中に、忍び出したることなれば、今にも帝が御帰りの上は、いかなる御咎めあるやも知れず、彼方様に難義かからば、折角剃髪致しても、その甲斐もないことなれば、一先ず二人姿を隠し、何れへか落ちのびんと、思いまするがいかがぞと、いえば安楽住蓮、それはお尤もなれどしかし、いづくへ行くつもりぞ、ハイ紀の国小川の山奥は、人も通らぬところと聞けば、その山奥に引籠り、念仏修行致します、さらば住蓮様安楽様、最早夜半のことなれば、これよりすぐに参りますると、暇乞いして立ち上がれば、安楽坊二人の姿を眺め、しばらく待たれよこれ女中、月は入りても光は残る、花は散っても匂いは去らぬ、尼法師にはなられたものの、美麗(きれい)な姿は昔に変わらぬ、そのままでは危うからん、見咎められては一大事、何ぞ思案はあるまいかと、聞くより二人気が付いたか、御尤もと云うより早く、青き松葉を拾い来て、焼きくべて煙に燻(くす)べ、御いたわしや今迄の、雪の肌へを黒々と、塩焼く海士が憂き姿、もし住蓮様安楽様、これでいかがでござりましょう、ヲヲ出来されたりそれでこそ、以前の姿は消え失せた、然ればとくとく落ち往かれよ、ハイ有難う存じますと、哀れなるかな昨日までは、綾や錦を纏うた御身か、今日はつづれの麻衣、玉の簪に引き替えて、菅の小笠に竹の杖、草鞋はいての旅姿、もう御暇乞いと立ち上がれば住蓮安楽も涙にくれ、されば随分御達者で、念仏相続してくだされ、今宵の別れは五十年、これ今生の暇乞い、再会は蓮華の台、因縁ありて御互いに、浄土参りの友同行と、なりましたることなれば、一処に御慈悲が喜びたいが、儘にならぬが憂世の常さらばさらばとのたまえば、二人の女中倒れ伏し、涙に胸も掻き曇り、御名残惜しいお二人様と、わっとばかりに泣き出だす、アア声高し女中方、永き別れと思いやるな、五十年は夢の内、それも老少不定の身の上、今日ありて明日なき命、やがて浄土へ参りなば、無量永劫移らず変わらず、共に楽しむ御互いなり、御さらばさらばと二人の僧、名残は同じ松虫鈴虫、涙ながらに南無阿弥陀仏と、称名諸共紀州をさして、落ち往かれた。
さて仙洞御所においては、二人の局の行方しれずとなり、御殿の内は大騒動、聖上御留主のことなれば、女中取締役の侍藤原の秀治も、ことのほかの心配、御大切なる御姫様の、御行方知れぬは何事ぞと、堂上堂下大騒ぎじゃ、其の中に後鳥羽天皇様、熊野権現御参籠も相済み、いよいよ建永二年正月は、十六日に御帰りと相成る、右の趣き御聞き遊ばされ、以ての外の御立腹じゃ、且つ御寵愛のことなれば、御歎きは限りなし、此の日本国中において、草一本でも砂一粒でも、天子のものならざるはなし、その日本に住みながら、我が寵愛する二人の局を、連れ出して逃げたる奴は、何者であるか憎さも憎し、此の日本に隠れたる限りは、大海の底までも、尋ね出せとの御逆鱗にて、洛中洛外は申すに及ばず、西は九州薩摩潟、東は奥州蝦夷松前、五畿七道に手分けなし、幾百万の役人が、夜を日についで詮議あれども、更に行方相知れぬ、然るに誰云うともなく、法然聖人の仕業ではあるまいかと云う、世間の人の取沙汰、ちらと聞くより吉水の遍を、木の葉返して尋ねると、御門前に洗濯する女あり、女と云うものは口やかましきもの、何か手掛かりでも有らんかと、役人金を与えて女を騙し、委細の様子を聞いて見ると、過る十二月二十六日の夜、美しい御姫様が、二人連れにて東山、鹿ケ谷の庵室へ忍んで御越しなされたを、ちらと見受けた人があるとの、世間の評定でござりますと云う、役人還りて、右の趣きを奏聞致せば、帝猶々逆鱗ありて、去らば法然のしわざに違いなし、何の弁えもなき女どもを、だまして連れ出したに相違なし、憎むべきは法然なり、いで此の上は兼ねてより、南都北嶺の奏達もあることなれば、専修念仏を停止なし、法然坊は云うに及ばず、上足の弟子共も、重き罪科に行いくれんとの御勅諚。さあ各々方よ、此の時の法然聖人の御心配はいかばかり、是も偏に悪人女人の、往生の要法たる、浄土門が開きたいと思召す、御心切から起こった騒動なり。
第六会
さて後鳥羽院様の御寵深き、二人の局行方知れずと相成ったは、全く法然がしわざならんと、御疑いがかかり、禁裏御立腹の折柄に、ここを付け込む奈良叡山の悪僧達、兼ねて浄土門の繁昌を憎み、妬んで、居ることなれば、時こそ来れ、今讒奏申し上げ、浄土門をつぶさねば、又と再び念仏門を、滅亡させる時節はないと、先づ南都に於いては七大寺、回状を出して興福寺に集まり、昼夜を弁ぜず奏聞の協議、叡山にありては三千坊、大講堂に集会して、法然坊を死罪に行い、他力念仏をぶちつぶす様と、毎日々々の相談、頃は建永二年正月いよいよ南都北嶺の大衆一同、打ち揃ふて大裡へ詰めかけ、奏聞に及ぶ、なにが御逆鱗の矢崎なれば、早速御聞き届けと相成る、大衆一同は喜び勇んで帰りしが、遂に法然聖人は、六条河原にて打ち首と相成り、その外善信坊善綽坊等も、同罪との評定、さあこそ三百余人の御弟子の心配、日頃御化導蒙った御門徒の心痛、いかがはせんと思案に暮れ、あちらへ寄りては相談、こちらへ集まりては協議、その内に立ち易いは月日六条河原は時々刻々、近くなるばかり、然るところ、ここにかの住蓮坊は、その後江州馬淵へ下り、他力念仏の法門を、今を盛りに弘めて居られたがふと聞き出した御師匠の御身の難義、松虫鈴虫を尼にした、御疑いを懸けられたまい、南北の奏聞により、絶体絶命の御歎きの由、聞くと等しく驚き呆れ、さては先日のこと露顕して、それ程の御心配なるか、全体この度の騒動は、もと御師匠は御存じなきこと、我々のしわざより起こったり、その罪を御師匠へ振りかけてはすまされぬ、ことに御師匠の御身の上は、六十余州に替えられぬ、御大切な御命、もし死罪にても遭わせられたら、それこそ日本は真の闇、凡夫往生の道が失せ、幾百の門末が、又ぞろ地獄へ落ちねばならぬ、こりゃ何でも此の方より、朝廷へ願い出で、御身代わりに立たねばならぬ、昔し三井の證空は、御師匠の命に替り唐の雪山童子は命を捨て法を求めた例もある、それ程には参らずとも、師匠の恩は同じこと、しかし今生の暇乞いに、それとはなしに一度、御目に掛り御礼が申し上げたいと、馬淵より十五里の道のりを、飛鳥の如く駈け付けて、吉水の庵室へ参られたが、庵室には大勢の弟子衆、集まりて歎きの最中じゃ、住蓮は御師匠の御前へ出て、この程よりの御心配、御挨拶に及びければ、法然様笑みを含ませられ、これ住蓮、此の法然も最早七十有余、惜しからぬ命、本願を勧る咎で、打ち首に値(あふ)て命終わろうとも、三世の諸仏照覧あれば、更に悔みとは思わぬぞや、末代の悪人末の女人が、浄土参りが出来るなら、身は八つ裂きになるとても、更に苦しうないはやと、仰せられたら、住蓮坊、御師匠の言葉を聞き、さてさて勿体ないその御言葉、御身の難儀を厭わせられず、悪人凡夫の往生を、それ程心に掛けたまうかと、歓喜の涙にむせばれて、口に出さねど心の内では何の彼方(あなた)を殺させましょう、私是より名乗り出て、死罪の刑に行われ、浄土の蓮台へ往生遂げ還相回向の大悲を以て、貴方の御身を護るべし心のままに御化導下されてやがて浄土へ御還りには、半座を分けて待ち申さん、さらば最早御暇乞い、随分彼方も御達者にてと、立たんとはしたれども今生の御顔の見納めと、思えば涙も胸に迫り、思わずわっと泣き出せば、法然聖人は流石仏の御化身、住蓮の心の内を見抜かせられ、これこれ住蓮嘆くまい、此の法然は七十五歳、今日ありて明日なき命今にも死ぬる老いの身の上、ことに世上の噂には、我は近日死罪とのこと、浄土の蓮台で相待つぞよ、併し老少不定の境ゆえ、誰先達も知れがたい、もし御身が先駆けしたら、半座を分けて待ちくれよ、かならず未来は一蓮托生、永き別れじゃないぞよと、住蓮は倒れ伏し、よよと悲しんで居られたが、ようやく心取り直し、涙拭いて御遑を告げ、名残惜しげに出でられたり、○さて西八条の評定所さして、あわただしく駈け付けた、玄関の前にて大音揚げ、鹿ケ谷住蓮、申し上げたき子細ありと、案内を乞えば佐々木吉實、二位の尊長、何事やらんと立ち出れば、住蓮申し上るに、拙者は住蓮坊と申す法然聖人の弟子に候が、この頃来御詮議中の二人の女中、出家の儀は、全く御師匠のしわざのように、世間の噂取り取りなれど、実はこの住蓮が仕業にて、法然様には少しも御存じのなきこと、その仔細は去る十二月二十六日、夜も深更に二人の官女、東山鹿ケ谷、我々の庵室へ参られて、出家の御望み頻りなれば、止むことを得ず住蓮が、手に掛けて尼となし、法衣を与えて紀州をさして、落とし参らせたる次第、今まで隠し御師匠に、罪を振り掛け置たること冥加の程も恐ろしく、此の段白状の及び候間、いざ縄打たれよ
役人衆と、一々言上に及びければ、皆々意外に驚きながら、大切なる囚人(めしうど)なれば、それ捕えよ縄掛けよと、ばらばらっと駈け寄りて哀れなるかな解脱道相の衣の上に、三寸縄をぐるぐる捲き、遂に近衛の西牢へ、打ち込まれた、何と同行衆今住蓮は御師匠の為に名乗り出られた、今日の各々師恩の為に指一本切りた覚えはなし、生爪一枚離したことはなし、慚愧の心より念仏が肝要。
第七会
さて安楽坊は鹿ケ谷庵室にて、日々御師匠の御身を案じながら、念仏修行して居られしが、かの住蓮が捕らわれしと聞き、我とても同罪なれば、速やかに自訴に及ばん、しかし今生の御別れに、大恩受けた御師匠に、一遍の暇乞い、御礼を遂げずにや居られまい、さらばこれより吉水の、御庵室へ馳せ参らんと、称名諸共鹿ケ谷を出で、二條を過ぎ、三條を通り、陽明門の前まで来ると、念仏停止(ちょうじ)の制札が立てて在る、安楽坊は何事やらんと、仰向いて読んで見れば、
 一今度南北之奏擬達叡聞諸宗之依帖依人心謀 茲源空師自文治
  元年之頃始而浄土門奥遣財産老少悉捨家業剰法外科五十余
  條依之浄土念仏被禁止猶一聲停止之依制書如件
   于時建永二年四月五日  秦朝臣
と掲げてある、読み終わるなり安楽は、はらはらはらと涙を流し、怨めしそうに制札を眺め、いかに時節とは申しながら、余りと云えば御情けない法然様の御罪咎は、御痛わしいことながら、因縁ごととも云われうが、念仏には何咎ありて、かように停止せらるるぞ、大悲の親の弥陀如来悪人凡夫を助けんとて、五劫永劫の御苦労で、出来せられた六字の名号、いかに勅命とは云いながら、御禁制とは何事ぞ、身は磔になろうとも、地獄で苦しむ替りと思えば称えずにおられうか。やれやれ勿体ない南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、思わず三遍称えければ、その声聞くなり二位の尊長、やれものども曲者あるぞ、からめとれよと聲あららげ、呼ばわりければ四方より、大勢の番兵追取巻、安楽坊も世にあるときは、侍のことなれば、十人や二十人は、ものの数とも思わねど、今は出家の身の上なり、兼ねて覚悟のことなれば、遂に高手小手に誡められ、近衛の牢へ打ち込まれた、哀れなるかな安楽は、御師匠に御暇乞いもすまぬ先き、獄屋の内につながれて、今は死刑を待つばかり、念仏称えておられたが思わずわっと泣き出し、アア有りがたき本願哉、唯今死罪に行われても、その場が直ぐに浄土の蓮台、死の縁無量とあるからは、どんな死に恥かこうとも、やがて華降る御浄土参り、
 今は唯言う言の葉もなかりけり南無阿弥陀仏の御名の外には
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と喜んで居られたとある。
○さて朝廷に於いては法然聖人ならびに御弟子の罪咎(ざいか)に付いては、重ね重ねの御評定なれど、未だ定まらざりしが、住蓮安楽自訴致したに依って、二月は十六日、またまた会議を開き、百官百僚紫宸殿に参集し、その日の御評決には、遂に住蓮坊は、江州馬淵にて死罪と相定め、安楽坊は京都六条河原にて打ち首と致し、浄円坊善シャク坊は流罪と極まった。さて御師匠法然聖人は、七十有余の老体なれば、格別の御詮議にて死罪一等を許されたまい、土佐国へ御流罪と相定まったが、ここに我が御開山善信御坊は、学問と云い御知恵と云い、絶倫の御方、殊に壮年にましまし、専修念仏をさかんに勧めたまう。依って生かして置いては為にならずと聖道諸宗から格別嫉まれて居たまう折柄なれば、遂に打ち首の刑にならせらるることと極まった。然るに六角中納言親経卿と申すが、兼ねて念仏門を信仰の御方、こと更善信御坊とは御親戚の中、至って心配をして居られしが、此の日は、参内が遅くなり、息急き紫宸殿に馳せつけられ、最早罪咎の評定も相済み、百官一同退出のところじゃ、親経卿あわただしく、はしご段登りながら大音に、今日の御評決いかが相成り候や、御退出の義は暫く待ち、御議定の顛末を、一通り仰せ聞け下さるべし、と御尋ねに一同口を揃え、されば住蓮安楽は死罪と定め、師の源空は死一等を許して、流刑に処し、善信は別罪あるもの故、死罪と評定致したり。聞いて親経卿驚きながら先ず着座して威儀を正し、時に公卿の方々、親経遅参ながら一言申したき次第あり、凡そ天下の政道は偏不偏を離れ、正直(せいちょく)にいたすべきは無論のこと、然るに何ぞ今日善信一人を死罪に行い給うや、成程住蓮安楽は、官女を出家させし咎、死罪に処するも無理ならねど、善信坊を死罪にするは、王道に背くにあらずやと、なにが刑名の学に通じ給う親経なれば、智弁をふるって申されける、諸卿又曰く、善信に於いては別罪あり、凡そ仏法は持戒精進を旨とすべし、然るに彼は出家の身として、肉食妻帯仏の制戒を破る、仏法中の外道なり、故に死罪に行うなりと、理を究めぬその仰せ、肉食妻帯するゆえに、死罪に行うと云うならば、南都東大寺の三車法師は、いかがなさるる、即ち法師の身たりながら、常に三つの車をひかせ、一車には妻を乗せ、又一車には我が子を乗せ、又一車には肉を積み、奈良の市中を回られたゆえ、三車法師と名づけたり、これ等の人を磔にしたその上にて、善信坊を死罪にせられよ、肉食妻帯の出家は、和漢その例少なからずと、弁舌滔々のたまえは、百官一同理に伏して、一言も申(のぶ)る人なし、すると玉簾(みすだれ)の中より畏くも、後鳥羽帝、親経の申す條尤もなり、いかにも善信が罪は許すべしと、勅諚に相なる、依って我が祖聖人はいよいよ越後の国へ御流罪と相定まったり、此の時御開山様がもしも死罪にならせられたら、末代今時の各々方は、未来に取っては真の闇、火の穴さして舞い込むより、他に仕方はあるまいに親経様の御情けにて、御命が助かったればこそ、楽々浄土往生の信心を、得る身と成ったぞや、かように聴聞して見れば、実に御恩のかどだらけ思わぬ人の御蔭ぞと、御恩報謝の念仏が何より。
第八会
さて住蓮坊が入牢してより、御師匠様の罪科、いかがあらんと案じて居られたが、遂に死罪を免れたまい、御流罪と定まったと聞き、天地に踊り喜んで、最早我が往生を待つばかり、しかるに三月は十一日、いよいよ住蓮坊は馬淵にて、打ち首と相定まる、さて当日になれば、住蓮、役人に向かい願うよう、私し一人の母親六波羅に住して居まするが、何とぞ今生の暇乞いに、母に対面が致したいと存じますれば、此の義御聞き届け下さらば、忝う存じますと云う、役人聞いて成程尤も、ほかならぬその願い、聞き届けぬではなけれども、縄付き姿を母が見たなら、必ず歎き悲しむであろう、住蓮はいえいえお役人様、災いか幸いとやら、私の母や盲目なれば、余所ながらの暇乞いが、致したいと思いますと、云えば役人も然らばとて、住蓮坊を後ろ手にくくり、猿引きの様に、役人は後ろよりついて往く、やがて我が家の門口から、せき来る涙振り払い、泣き声紛らす大音にてもし母人唯今帰りました、今日は牢舎も御免になり、御安心して下されと、呼ばわる声に母親は、盲目ながら飛び出し、住蓮かよう戻ってくりやったぞ、そなたが牢舎と聞いてから、母は夜昼御身を案じ、三度の食も喉へは通らず、今日は御免に相なるか、明日は戻っておじゃるかと、待ちに待ったる甲斐ありて、ようまあ戻ってたもたと、探りよらんとするゆえに、住蓮坊は飛んでのけ、もし母人私は、牢舎御免になりましたれど、この頃聞けば御師匠は、西国へ御流罪とのこと、これより一刻も早く馳せ参じ、御師匠に御目にかかり、暇乞いが致したければ、しばらく留守して下されよと、云えば母親、これ住蓮、今来て今出かけるとは、余りなこと、一両日は内に居て、母のこころを休めてたも、いえいえ御師匠の御流罪は、最早今日か明日の様子、一時ものばされませぬ、さらば母様、一先ず私は参りますと、口には軽く言いながら、心の中は暇乞い、これが今生の別れかと、思えば涙も胸一杯、虫が知らすか母親も、ほろりほろりと涙を流し、そんならどうでも行きやるのか、随分早う帰りてたも、親一人子一人なれば、そなたの身に万一のことあるならば、定めて私は歎き死にでも致すぞえ、随分機を付け往かっしゃい、住蓮はむせかえり、アア忝いその仰せ、併しこの世は老少不定、明日をも知れぬ露命なれば、別けても御老体の御身の上、随分息災に御本願を、御喜び下さりませ、住蓮可愛と思し召すなら、称名となえてくだされよ、私共や母様を、一子の如く思召す、阿弥陀如来の親様なり、母人さらばと住蓮は、涙ながらに別れを告げ、門へ出づれば役人も、その歎きを思いやり涙に咽て帰られた、それより住蓮は馬にのせられ、目には松虫鈴虫を、出家をさせて罪状と、念仏停止を背きたる、紙幟を立て警固の役人、前後左右を取り囲み、洛中洛外を引き回し、馬淵をさして送らるる、目も当てられぬ哀れな風情、住蓮坊は馬乗りにて、にこにこ笑みを含みながら、
 この頃の隠し念仏顕れて、からめ取られん弥陀の浄土へ
これこれ京都の同行よ、念仏停止の時なれば、口に念仏称えずとも、意の中の念仏をわすれぬよう、此の度住蓮は打ち首に遭うは残念なれども、極楽往生が早まったと思えば、これ程嬉しいことはない、馬の一足一足が、近づくところは紫金の蓮台、極楽浄土へ近寄ることの、有りがたや南無阿弥陀仏と聲高々に御称名、洛中洛外の道俗のひと、一同に涙を溢し、泣かぬもの無かったとある、程なく馬淵に着きければ、山の如くの見物じゃ、老若男女押し合い、へしあい、住蓮は青竹の柵(やらい)の中へ引き込まれ、土壇の上に据えられて、役人に向かい私これより、九遍の念仏を称えますれば、それを合図に首打ち給えと、又大勢の見物に向かい、弥陀の本願嘘か真か確かに知れ、我これより打ち首に相なるが、我が往生に奇瑞あれば、これ本願の確かなる証拠なるぞと西に向かって合掌し、さあこれより念仏称えますれば、九聲目には首打ち下されと、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、静かに九聲称えるなり、役人永井佐右門氷の刃振り上げるや、はっしと首は落ちたるが不思議なるかな切れたる首、遥かに虚空へ飛び揚がり、聲高々に南無阿弥陀仏と、一声の念仏を称え、胴の切り口より青蓮華が生じ、光明四方にかがやき異香紛紛と薫じ、天には紫雲棚引き、自然に音楽の声が聞こえるゆえ、見物のものは申すに及ばず、太刀取りの役人も検司の侍も、あら不思議の往生かな、かかる奇瑞を見る上は、弥陀の本願に疑いなしと、念仏停止の中も忘れて、馬淵西の岡の処刑場は、念仏の声止まなんだとある、さあさあ同行衆、念仏停止の折柄でも、弥陀の本願の尊さに、我を忘れて称えなれたか、今日の我人は、称え詰めに居たとても、咎める人もなき世に出で、仏法の華盛りに生まれても、兎角称名の喜ばれぬは、我が身知らずの横着ものじゃ。
第九会
ここに又安楽坊は、近衛の牢より引き出され、六条河原にて打ち首じゃ洛中洛外の念仏者は申しに及ばず、近国の門徒達、暇乞いやら見物やらにて、六条河原へ駈け付けて、雲霞の如く集まりた、その日安楽坊は、忍辱の法衣の上に、邪見の荒縄を懸けられて、土壇の上に座られる、太刀取りの役人は、佐々木の九郎吉實なり、この人同心堅固なれば、気の毒とは思えども、勅命なれば是非もなく、さて安楽に打ち向かい、我勅令によりて、これより御身の首を打たんが、併し今生の暇乞いに言い残すことあれば、遠慮なしに、申されよ、必ず叶え参らせんと、安楽は曇りし聲にて、忝き御言葉よ、我は出家の身の上なれば、妻もなければ子どももなし、他に心残りは無けれども、唯願いたきは御師匠に、文が一通送りたいと、云えば、吉實心得て、そは心易いこと、しかれば認め給えとて紙と硯を取り出だせば、安楽は有りがた涙に墨すり流し、死ぬる最後の一通を、さらさらと認められた、其の文に曰く「希に人界に生を受け、終に遁れぬ死出の道に候えば、今法の為に身を捨てて候こそ、果報目出度く存じ候極悪の身たりとも、他力に乗じて、極楽へ至ると思えば、露ばかりも命は惜しからず候、御師匠様へ、釈安楽、より」とあり尚
 極楽へ参らんことの嬉しさに、身をばほとけに任せぬるかな
と一首の歌を添え、居りもあらば届け給はれと、吉實を頼み置き、両手を合わせて首をのべ、さあ覚悟は宜しうござる、首打たれよ南無阿弥陀仏と、声を上げて喜び給う、佐々木の九郎吉實は、はっと応えて引き抜けば、玉散る剣の恐ろしさ、振り上げたかと思えばはや、首はころりと下へ落ち、柵(やらい)の外の道俗男女、わっと一度に声立てて、涙を流さぬ人はなし、涙を拭うて見かえせば、不思議や切られたその首が、三尺ほど飛びながら、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、七遍称え、切られた体は数珠もちながら、繰り返すこと三遍是を眺めた佐々木吉實、血刀持ちながら、大地に倒れ我はいかなる因縁なれば、かかる貴き名僧を、我が手に掛けて殺すとは、未来の程が恐ろしいとて、大音揚げて嘆かれたが、人の見る目も恥ずかししと、漸くその場を立ち上がり、急ぎ法然聖人の、御庵室へ駈け参り案内を乞うて御居間へ通り、右の段々譯を話し、かの一通を差し上れば急ぎ披いて御覧あり、御涙を溢させられ、やれやれ痛わしの安楽や、今生の別れは名残惜しけれど、やがて浄土へ参ると思えば、露ばかりも苦しからずとは、よくも領解(りょうげ)を極めたものかな、天晴の心中なりと繰り返し巻き返し、御覧なされて墨染の、衣の袖を絞られたとある、しかるに九郎吉實は、これより無常を感じ、浮世を捨て発心せんと、その場において法然様に、御願申し剃髪染衣の身となりて、念仏三昧て一生涯を送られたり、さて又ここにかの松虫鈴虫は、鹿ケ谷にて別れてより、紀州小川寺へ相(すがた)を隠し、柴の庵をしつらいて、念仏相続して居られしが、数年音信もなきことなれば住蓮様や安楽様の、安否の程が知りたいと、二人共乞食の姿につくろいて、密かに京都まで登られたが、折しも住蓮安楽の、死刑になられた翌日じゃ、それとは知らず先ず東山、鹿ケ谷へ参らんと、五條の橋を通らるる、ふっと南を見れば六條河原は、大勢の人寄りゆえ、何事やらんと道行く人に尋ぬれば、昨日鹿ケ谷の安楽様、アノ河原にて打ち首にならせられ、今日はその首晒しあれば、見物の為アノ通り、それのみならず住蓮様は、江州馬淵の西の岡にて、これも死罪に遭わせられ、法然様や善信様は、近日御流罪に相成る由、それも念仏の一門を、御勧めなされた咎とやら、何と情けないではござらぬかと、聞いて二人はびっくり驚天、思わず大地にまろび伏し、よよとばかりに泣き出し、さてさて情けなき分野(ありさま)かな、これと申すも我々共が、無理に出家を願いし故、思わぬ御難儀を掛けました、サア、鈴虫様されば松虫様、生き長らえては居られぬ義理、両僧様の御跡を慕うて、早く浄土へ往生遂げ、一時も早く蓮台にて、御礼御詫びを申そうぞと、それより二人は鹿ケ谷へ参り、庵室の門前にて西に向かうて手を合わせ、許して下され住蓮様安楽様、我ら故に大事の命を捨てさせましたでござりまする、何とぞ堪忍して下され、唯今彼方の御側へ参り、広大つもる御恩の程は、直々御礼を申しましょうと、西に向かうてごうしょ念仏もろとも遂に自害して相果てられた、今の我々は誰はばからず念仏諸共現当二世の仕合せ、けたいしてはなりません、さて法然聖人御流罪の一段は次席に於いて。