表紙>入試問題を読書する 2011年度版



作者作品一覧


エッセンス紹介

竹内整一「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか
 
「やまとことばの人類学」には次のようにある。
「さらば」=「そうであるならば」という意味の言い方を使ってきたのは、日本人が古い「こと」から新しい「こと」に移って行く場合に、必ず一旦立ち止まり、古い「こと」と訣別しながら、新しい「こと」に立ち向かう強い傾向を保持してきたから。
 
しかし、別の理解もある。
「さようなら」=「そうならなければならないならば」という意味あいでとらえれば、その別れの状況をそうたらしめた、何かしら不可避の定め、巡り合わせのようなものを想定している。それは、再会の希望によって別れを紛らわそうとしていないし、「farewell」のように、別離の苦い味わいを避けてもいない。事実をありのままに受け入れている。
 
farewell=うまくやってください。
goog-by=神様が必ず見守っているでしょう。
 
 
中村光夫「青春と知性」
「独り灯の下に書を広げて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなれ。・・」ここには書物が読者に与えてくれる楽しみの極致が、はっきりと語られている。ラスキンの「胡麻と百合」も同じ事を述べている。
 彼らが一致していうのは、書物は生き物だということである。読書とは、現実の人間の生きる社会よりずっと人間的な精神の社会に身を以て生きることなのである。
 そこにはあらゆる者がいる。しかしそのなかで彼らの地位を厳しく決定するのは、常に純粋な人間的価値である。より良くより美しいもには必ず高い席が設けられる。そこで最も尊敬を払われるのは、いつも人間に最高の生きる道を教えた賢者であり、一番同情を得るのは、誰よりも無垢な心を傷つけ破った者である。いわばこの世界は人間が獣の領域を離れて神に近づこうとする積年の願いの結晶であるといってよりのである。
 だからこの世界の存在を知ることは、それによって初めて人間として完全に近づくのである。

 
河野哲也「善悪は存在するか」

動物裁判とは、人間に害を与えた動物や昆虫などをその地方の慣習法によって裁判にかけることである。十二世紀から十八世紀まで、ヨーロッパで行われた。
 十三世紀の法学者ボーマノワールは、動物裁判を「無意味なこと」と断じ、動物の犯罪の責任を負うべきは所有者であると主張する。トマス・アクィナスも、理性分別のない動物は罪を犯すことも罰せられることもできないと論じた。
 動物を裁判にかけることがナンセンスなら、なぜ人間を裁判にかけることはナンセンスではないのだろうか。
 現代社会では、「刑罰の目的は、罪を犯した人の処罰によって、世人一般に、また受刑者本人に、犯罪が引き合わないことを知らせて、犯罪を未然に予防するという点に求められるのが普通である。」と言われる。
 古代ギリシャでは、人に倒れかかってその人を殺した側柱や、殺人の道具になった刀までも裁判にかけ、国外に追放した。
 裁判はもともと犯罪の抑止や予防を目的としたものではないことになる。
 法の下で人間も動物も事物も等しく裁かれる、ということの意味は、処罰だけでは説明がつかない。
 進化心理学者のハンフリーは無法状態、無秩序への恐れだ、と指摘する。裁判所の仕事は、犯罪の予防や抑止ではなく、また単なる処罰でもなく、「混沌を飼い慣らし、偶然の世界に秩序を導入すること」にあった、ということになる。

 
水村美苗「世界中から『国語』がなくなる日」
 
 英語が世界の共通言語(普遍語)として、史上例を見ないほどの力を持ってきた。そして、そのことによって「国語」としての日本語は危機に晒されている。
 私は「国語」というものを、国民国家の成立時に、翻訳という行為を通じて生まれたものだと考えています。日常生活で使う「現地語」が、古くはラテン語や漢語、そして今は英語が代表する「普遍語」からの翻訳を通じて磨かれてゆき、やがて「普遍語」と同じように、人類の叡智を刻む機能を負うようになる。それが「国語」です。
 「現地語」としての日本語は日本がある限り消えないと思います。
 私が危惧しているのは、人がその言葉を真剣に読もうという、「国語」としての日本語が生き残れるかどうかです。
 今書かれているものの中に優れたものがあるかどうかは、この際、本質的な問題ではないのです。非西洋語を母語とする人たちは、バイリンガルになるのが困難なので、いったん英語にいってしまうと帰ってこない。
 古典とは、定義上、時を越えて残ったものであり、再読するに堪えるものだということです。実際、漱石ほど何度も読みたいと思う作家はいません。
 今こそ、日本語で読み書きするとはどういうことか、日本の頭脳が英語に流出するのを食い止めるためにはどうすべきかを真剣に考えなくてはならないと思います。
 短期的な国益を考えたら日本語など捨ててしまった方が良いのではないかという内なる思いと戦いながら書きました。
 最終的には、日本語を守るのは、フランス語を守る以上に意味があるという結論に達しています。英語の世紀に入ったとは、これから世界中の読書人が、英語という「書き言葉」を介して世界を理解していくということです。
 言葉は過去の言葉の宝庫を喚起できればできるほど、たんにそこに並んでいる文字を越えた豊かさを得ることができるのです。たくさんの文章を読んできた読者だけが、その豊かさを分かってくれます。
 最終的に問題にしているのは、広義の「文学」です。「聖書」も含んだ、すべての優れた書物を論じているつもりです。ダーウィンの「種の起源」や、フロイトの「モーセと一神教」などもすばらしい文学だと思います。福沢諭吉の「文明論之概略」も文学だと思っています。
 最近出版される本は、完全に「現地語」で書かれたものが増えているように思います。 文章は読むべきものであり、自己表現の道具ではないという認識が失われてしまった。その結果、密度の高い文章を読まなくなってしまいました。
 私は学校で「近代文学」を読むのを勧めています。
 現代文学しか読んでいないと、近代文学が読めないんです。国民文学の古典としての近代文学を読み継ぐことで、読む訓練をする。日本語が「亡び」ないですむ道を辿るのに、正統的でも効果的でもある方法だと考えています。 
 
池内了「疑似科学入門」
 多くの人々が現代科学の粋を満喫し、科学のおかげで安楽な生活を送っているにもかかわらず、反科学の気分が強くなっている。
 自分を安全な立場において一方的に科学批判だけする態度は、社会と科学の関係を危ういものにする懸念がある。
 科学主義への失望を放置しておくと重大な過誤を招きかねない。口当たりの良い疑似科学が科学の代用になってしまう恐れがあるからだ。
 私たちは「お任せ」の体質がしみこんでしまった。
 情報を得るにしても「お任せ」の態度ではないだろうか。
 複数のメディアを比較したり、メディアで報じられない事実を探ったりする努力が必要なのである。
 人々も観客民主主義に陥り、自分は参加せず、他人のパフォーマンスを観覧して無責任な批判をすることのみに終始する。つまり「お任せ」し続けていると、自分で考えることを忘れ、見かけの姿だけで判断するようになってしまうのだ。
 家庭ですべき躾や日常生活で獲得すべき知恵も、全て学校で教えることを要求する親が増えているようなのだ。教育の「お任せ」化である。
 「自己責任」の時代と言われながら、実際は逆の事態が進行しているのである。
 
清水良典「文学の未来」
 「文章読本」の中で、谷崎は口語文を改良しようと試みた。
 近代の口語文の欠点として、谷崎が指摘しているのは、「表現法の自由に釣られて長たらしくなり、放漫に陥りやすいこと」である。
 故有島武郎は最初英文で書いて、それを日本文に直したという。それと同じ方法で文体改革をおこなった現代作家が、村上春樹である。それは、旧態依然とした日本語(文)以上に異物であるような人工物の文章を自分の手で生み出すことであった。
 日本の近代文学者はみんな多かれ少なかれ、それぞれのフィールドで新文章の創出に血道を上げたのであり、彼らの日本文の異化の競争によって近代文学は形成されてきたのである。
 谷崎は、ほとんど終生にわたって、文章が「自然」化する誘惑と闘い続けた。文章という「不自然」で「有害」な異物を、あくまで異物として創出しつづけた。一種の永久変革宣言ともいうべき意志を、この書で明らかにしているのである。
 二十世紀の日本語文章を追い抜いて、谷崎文学は行く手に新たな発見を待ち受けて聳えている。
 
笹原宏之氏の文章「訓読みとは何か

 訓読みとは何か。
 漢字の「山」には、mountainの意味が含まれている。この「山」(古代の中国での発音はsanに近かった)が他の漢字とともに日本に伝わったとき、もともと日本語にあったmountainにほぼ相当することば、すなわち日本語にもともと存在した固有語である大和言葉(和語)の「やま」と結びつけられた。
 そうした事物や観念の違いをも超えて、「山」という漢字は、もともとの音の「サン」の他に、さらに「やま」とも読み慣わされるようになった。こうして「訓読み」は発生したのである。
 訓読みは、漢字を本来の漢語ではない語で読むことであり、また漢字に当てられたその個々の読み方のことである。
 文字を持たなかった当時の日本人には、漢字は呪符と見なされ、意味は理解されずにその形だけが写されていたようである。
 古墳時代から推古朝にかけて、漢字を、ことばを表記する文字として充分に認識できる人たちが現れ始めた。「薬師像作」は「やくしぞうをつくる」と訓読されていた。
 「万葉集」に至っては、歌を記すための種々の方法の中で、多数の訓読みが使用されている。「なつかし(懐かし)」という和語を二字で「夏樫」と読む訓読の応用も見られる。
 訓仮名(訓の発音を利用した万葉仮名)も見られる。
 こうした万葉仮名の中から、一字で一音を表すものが、字画が少ないなどの理由で選ばれて種類が次第に固定していき、平仮名と片仮名が生まれた。
 字義を解しつつその語順を日本語に近づけながら漢文を読み下す、訓読みも生まれる。
 中国製漢字の持つ字義を、引き伸ばし、派生させたり転化させて用いた、いわゆる国訓も現れる。これは日本製の字義といえる。
 少し時代が下ると、日本独自の新たな漢字、すなわち「国字」が造り出されるようになる。
 中国では、「形声文字」が九割近くを占めるが、日本では、漢語とは音節の類似性の少ない固有語を、字訓として漢字に積極的に当てていこうとする意識が醸成され、国字として会意文字をみずから造り出していった。
 

幸田文「ちぎれ雲」
 ちいさいものにとって不在は死にひとしいというが、読みふける父は不在とまでは行かずとも幾分それに似たものを感じさせる。
 ごく幼い記憶に、本を読んでいるおとうさんはだめだという、なんとも云えないつまらなさがおぼろに、そのくせ忘れられないで遺っている。
 少し大きくなると、本の部屋へ行くと圧迫を受けて、それが感覚的にいやだった。
 すべての本には著者の幅が畳み込まれている。本一冊はひとりの人である。十冊の本は十人の、百冊の本は百人の優秀な人がらなり知識なりであるはずだ。
 「おまえがばかなのは本を読まないからだ」とも云われたし、「ちっとは私の書いておいたものも読んでくれないか」ともたびたび云われた。
 なかなか本が読めそうには思えないが、縁がないのではなく、ただ縁に遠くいるのだなと自ら劬(いたわ)っているのである。

姜尚中「悩む力」
 自我が肥大していくほど、自分と他者との折り合いがつかなくなるのです。
 自我というのは自尊心でもあり、エゴでもありますから、自分を主張したい、守りたい、あるいは否定されたくないという気持ちが強く起こります。しかし、他者のほうにも同じような自我があって、やはり、主張したい、守りたい、あるいは否定されたくないのです。そう考えると、手も足も出なくなってしまいます。
 こうした自我の問題は、百年前はいわゆる「知識人」特有の病とされていますが、いまは誰にでも起こりうる万人の病と言ってもいいと思います。
 「self-consxiousnessの結果は神経衰弱を生ず」
 では、肥大していく自我を止めたいとき、どうしたらいいのでしょうか。
 「自我の城」を築こうとする者は必ず破滅する(ヤスパース)
 自我というものは他者との関係の中でしか成立しないからです。
 そして、「吃音」という状態に陥ってしまいました。
 自我に目覚めてからは内省的で人見知りをする人間になってしまいました。
 結局、私にとって何が耐え難かったのかというと、自分が家族以外の誰からも承認されていないという事実だったのです。
 私は、自我というものは他者との「相互承認」の産物だと言いたいのです。そして、もっと重要なことは、承認してもらうためには、自分を他者に対して投げ出す必要があるということです。

 
石母田正「中世的世界の形成」
 法には時代によって異なるところの理念が必要である。この理念的なものが中世において「道理」といわれた。武家法の道理の思想は、その成立をまず農村の歴史に求めなければならない。法は神そのものの意志であり啓示であった。
 国造が神々の祭祀をその重要な機能としていることが、人民に対する裁判権と密接に関連していることはいうまでもない。
 「法治国」としての律令体制はその一面にすぎない。
 裁判は神判に外ならないという思想は伝統と慣習の支配する村落世界の必然的一面であった。
 農村社会における道理の観念はその思想の発生において神判思想に対立して成長してきたものと考えられる。
 このことは普遍的理念的なものが神々の世界から人間の世界のものとして理解されるにいたったことを示している。
 中世武家社会法において法が如何に現実的なものと考えられていたかは、知行の効力としていわゆる時効の制が存在したことからも理解される。
 武士が自己の一族や村落を越えようとする努力、動乱の中から新しい関係を獲得しようとする冒険的精神が中世的なものをつくりだす一つの力であり、かかる政治的態度の進歩こそ神判と神託を中世在地武士の不可分の慣習として強めた原因である。
 それ故中世武士においては神意は道理と離れ得ないものであった。泰時上洛の根拠は「天下の助けとなりて人民を安んぜん」とする道理に置かれていた。
 「貞永式目」は道理が式目の根本理念であることを説いている。
 
 
内山節「挫折と危機のなかで」
 十七世紀の経済学者、ウィリアム・ペティは、当時のアイルランド農民のことを次のように記述している。
「現在の様式にしたがえば、かれらは金・銀貨幣を使用することなしに生活し、また生存してゆくことができ、一日当たり二時間とは労働せずに上述の必需品を自給することができる」
 そして、「彼らにお金を儲ける楽しさをおしえなければいけない」と述べた。
 トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」にも書かれているように、伝統社会で暮らした人々は自分の労働への誇りや、その労働が人々から尊敬を受けることに喜びを感じて日々の営みを続けていた。楽しみは労働や暮らしそれ自体にあったのである。
 だが、近代人たちはペティのめざしたように、次第に金儲けの楽しさを覚えていく。
 労働や生活それ自体が楽しみであった時代が終わり、労働は手段に、生活は疲れをとるための消費の場所に変わっていった。
 一番の問題は金儲けに縁遠い人たちもたま、この構造に巻き込まれたことである。こうして賃金を得るために働き、消費によって生活を成り立たせる多くの人々がつくりだされた。
 現代社会ではすべてのものが市場の手段、道具にされて使い捨てられていく。その教訓は、労働と生産の乖離である。
 何か有用なものをつくり、その有用性を提供していく行為が労働であったが、商品の生産過程にとっては、労働は剰余価値をつくりだす手段であり、人々は自分の労働力を商品として販売し、その代価で、つまり賃金で生活するようになった。
 こうして労働は使い捨ての対象となった。
 資本主義の原理は簡単で、投資によって得られる利益を最大化していくことだけである。だから賃金は安い方がいいし、労働者の使い捨ても容易な方がいい。ところがこの原理で突っ走ってしまうとふたつの問題が顕在化してしまう。ひとつは、労働者の貧困化がすすむと市場が縮小し自らの首を絞めてしまうことであり、もうひとつは、労働者の労働意欲が低下すると、経営基盤が崩れてしまうという問題である。
 おそらく私たちは、資本主義を根本から問い直さなければならない時代にたたされているのである。人間労働の危機と資本主義の危機が同時に進行する時代の中で、この課題が私たちの前に提出されている。

 
広重徹「近代科学再考」
 万有引力とは、ニュートンがそれを唱えた十七世紀にはなにものだったのだろうか。
 彼は万有引力を物体に内在する固有の力と考えるべきではないと注意している。ニュートンはそれを神の働きに帰している。
 空間とは神の感覚中枢にほかならない。神はこの感覚中枢において物体の運動を感知し、それが法則どおりに行われるようにガイドする。この働きが重力なのである。
 宇宙がある理論体系によって支配されているとは、やはり背後に神を想定しなければ了解しえないことであったろう。
 全宇宙を支配する自然学の体系をうちたてるというプログラムを、はじめてえがいてみせたのはデカルトであった。神は物質とともに運動を創造し、その総量を一定に保持するとのべて、運動量の保存を自然学の基本原理においたのである。
 神の創りたもうた自然の秩序は、そのままの形では人間に見えない。しかし、われわれは努力して自然研究にはげむなら、それを知り、神の御業にあずかることができると考えたのである。

 
森岡正芳「語りと騙りの間を活かす」
 体験をひとつの事実として述べることと、思い出として語ることとは違いがある。
 体験された対象の秩序と体験の秩序は等値ではない。
 物語は体験の秩序に接近しようとするものである。それによって事実に新たな意味を付与していく。語ればその昔が現在として現れる。
 物語心理学の方法は現実との関係において特徴をもつ。とくに何者かが突発的に現実になるという生起性、創造性に注目し、そこをできるだけ活かそうとする。
 仮構作用(fabulation)を私たちは生得的にもっている。ままならぬ現実からくるとらえがたき不安に抗するためであるし、内的な衝動本能につきあうために必要な仕組みである。
 物語が現実を生む。それは強い現実感、実在感をもつ。そして事実の世界をも人はドラマや物語として、あるいは小説のようにストーリーを読もうとする。
 出来事をつづり、それらをつなげ筋立てる。
 個人の歴史は生まれたときから現在に至る主な出来事を年代順に書き示すことができる。このような外的生活史に対して、対話によってはじめて成立し、聞き手の参加によって共同的につづられていく生活史、聞き手が異なれば異なった生活史が生まれる可能性のあるものを内的生活史という。
 自己語りは想起と歴史化という問題につながる。
 記憶と想起の問題こそ、語りと騙りの間に関わって、本質的な問題を提示する。
 自己語りが自己欺瞞を生むことはよくある。偽りの自己は生きるために必要な場合があって、不安に対して対処する力ともなり得るが、一方でそれを維持するために力を奪われることも出てくる。
 とくにおさえておくべきことは、隠蔽記憶(screen memory)の問題であろう。想起された記憶は真に重要な意味のある記憶を隠すための遮幕(スクリーン)の働きをする。
 想起された記憶断片は、主体の欲望を隠している。抑圧され、主体に隠された記憶内容は、精神分析の自由連想と転移の作業によって真実をあらわにする。

 
橋本治「増補 浮上せよと活字は言う」
 権威が形骸化した権力と成り下がっていることを察知した若者は、そんな権威に随順して、それをさらに不毛な権力として強化するよりも、その権威を見捨てるという道を選んだ。「若者の活字離れ」はそんな動きの後にある。
 「言葉こそが権力の根源であって、言葉を流通させることこそが悪だ」という錯覚に至り、量だけが膨大にあって、通交することを忘れた無意味なモノローグだけが氾濫した。 活字以外にも文化は存在し、それを整理統合発展させるために活字という思考の根源があるというだけなのだ
 「若者の活字離れ」とは「かつて本を読んでいた若者の活字離れ」で、「大学生の活字離れ」というものでしかない。本を読むやつはいつだって読む。本を読まない人間は、いつの時代にもいる。近代は、「本を読むべきだ。本を読むということが自身の思考力を身につけることなのだ。人は言葉で思考し、その思考を言葉によって整理する。人にとって思考と認識とは、人である限り続く義務であり権利であるはずのもので、そのことの結果によって得るものが、”自由”と呼ばれるものだ」と、知性なるものが言い続けてきた。
その強制力によってかろうじて若者達は本を読み続けたのだ。
 すべての文化には、それが文化であるような構造が隠されている−だから、読み取りという作業が必須になる。
 活字離れというのは、活字文化という閉鎖的なムラ社会に起こった過疎化現象だ。退廃の元凶はどこにあるのかと言われたら、私には「ムラにある」としか言えない。

 
竹内好「中国の近代と日本の近代」
 ヨオロッパがヨオロッパであるために、かれは東洋へ侵入しなければならなかった。結果として東洋は資本主義化の現象を起こしたが、ヨオロッパにとっては、世界史の進歩、あるいは理性の勝利と観念された。
 西洋への抵抗を通じて、東洋は自己を近代化した。
 日本では、観念が現実と不調和になると、以前の原理を捨てて別の原理をさがすことからやりなおす。日本のイデオロギーんは失敗がない。
 転向という現象も、特殊な日本的性格の産物だろう。転向は抵抗のないところにおこる。つまり、自己自身であろうとする欲求の欠如からおこる。自己を固執するものは、方向を変えることができない。我が道を歩くしかない。しかし、歩くことは自己が変わることである。自己を固執することで自己は変わる。変わらないものは自己ではない。
 回心は、見かけは転向に似ているが、方向は逆である。
 私は、日本文化は型としては転向文化であり、中国文化は回心文化であるように思う。日本文化は、革命という歴史の断絶を経過しなかった。だから新しい人間がいない。日本文化は構造的に生産的でない。それは生から死へはゆくが、死から再生へはゆかない。

 
溝口雄三「〈中国の近代〉をみる視点」
 竹内氏の「中国の近代と日本の近代」によると、中国近代は、後進性そのものとの自己対決とその対決の内的深化の結果、かえってアジア的に人民的な社会革命・思想革命を徹底拡充させ、その人民的徹底においてヨーロッパのブルジョア的近代の不徹底さを超えようとさえしている。と読み取れる。
 これは、一見中国のいわゆる後進性を否定するかにみえて、実はそれを前提としている。
 そもそも、ヨーロッパを基準にしてアジアがヨーロッパ的であるのかないのかと問うアジア自身の自問自答は、なんとも奇妙で、いらだたしくも不毛なものというべきである。先進−後進の縦列的構図はまして問題にもならぬ。
 
今福龍太「音の襞、ことばの隈」
 音の永遠の広がりの海の中に、聴こえる音とおなじだけの聴こえない音が棲息する。
 聴こえない音、というかわりに、聴こうとしない音、といいかえてみる。インディオの元素的な沈黙は、聴こえない音となってあっさりと沈黙の砂漠へと追いやられてしまった。
 音はみずから求めて聴きとってゆく繊細なリアリティーであることをやめ、一方的に耳に飛び込んでくる騒がしい日常業務(ルーティーン)の一部となった。
 沈黙それじたい、世界のざわめきをすっかり明らかにするものであることをはじめて理論的に示したのは作曲家ジョン・ケージであった。全員が耳を澄ましているという状態があれば、そうしたこと自体が音楽であってくれたらいい・・ケージはよくこう繰り返していた。
 「沈黙などというものはない。無響室に赴き、汝の神経系統が作用し、血液が循環している音を聞かれよ。」(ケージ)
 彼が聴いた高い音とは彼自身の体内の神経系統があげる音であり、低い音とは、鼓動のリズムがささえる血液の音だったのである。
 彼は沈黙という音の持続の創造性を活用しながら、私たちの音をめぐる思想にまったく新しいヴィジョンをもたらしていったのである。

 
坂口安吾の文章
 日本には傑れた道化芝居が殆ど公演されたためしがない。
 笑いは不合理を母胎にする。ところが何事も合理化せずにはいられぬ人々が存在して、笑いも亦合理的でなければならぬと考える。そうして、喜劇には諷刺がなければならないという考えを持つ。
 然し、諷刺は、笑いの豪華さに比べれば、極めて貧困なものである。諷刺は対象への否定から出発する。これは道化の邪道である。
 正しい道化は人間存在自体が孕んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる。笑いの高さ深さとは、笑いの直前まで、合理精神が不合理を合理化しようとしてどこまで努力してきたか、そうして、到頭、どの点で兜を脱いで投げ出してしまったかという程度による。
 道化芝居のあいだだけは、笑いのほかには何物もない。人性の矛盾撞着がそっくりそのまま肯定されているばかり。どこまでいっても、ただ肯定があるばかり。

 
今道友信「美について」
 現代芸術は全般的に難解である。社会の変貌や技術の発達が、主として芸術の享受体験を知的に変貌させたからである。
 たとえば印刷技術の発達、建築工学技術の発達等による。これらの芸術は、その描写能力や表現能力の豊かさゆえに、今までの芸術よりも一層人間の内面性を彫塑することに成功している。芸術は今や感覚の問題ではなく、思想の問題と変わりつつある。ここからしても、芸術体験としての芸術解釈の必然性は出てくるであろう。
 ここで注意しておかなければならないのは、意味論的解析と価値論的解釈の違いである。意味論的解析は作品を要素還元することに過ぎない。それで果たして作品の価値は輝き出てくるであろうか。
 解釈の原義は通訳とか翻訳なのである。作品の真の意味とは、作品が意味論的に何を意味しているかということではなく、その作品のもっている芸術的価値のことではないか。
解釈とは、先ず第一に作品の持っている可能性としての価値を、この世に輝き出す操作でなければならない。したがって、解釈とはそれ自身一つの美的体験であって、限りなく深められてゆく開かれた体験でなければならない。その意味で、解釈とは、同一の作品に対して反復して試みられるものであり、しかも、そのたびに新しい喜びが湧き出てくるような体験なのである。いわば遊びのように、いつも始原に返って繰り返される楽しい運動である。
 解釈は発明の体験、精神が価値に向かって進む道を切り拓いて行く体験である。