表紙オカルト研究


 13 光と影のやさしいお話 山田征(やまだ せい)

1988.4.9

この世のすべての悪を担った大天使ルシエル

それはいまひとつの神の姿であった

人々の一度つくり出したイメージと言いますものは、なかなか消えるものではありません。

このような私たちの存在もまた、神の大いなる計画のひとつでもあります。そしてベルゼブルこそ、そのもっとも大きく大事な役割を担った者であることを、あなたはすでに正しく受け止めてくださっています。

人々の忌み嫌うサタン、ベルゼブルこそは、最も偉大な天使であった。

あなた方の中から天使や悪魔のイメージが消えるときがいつかはまいります。

しかしこれらのことは、すべて神の計らいの中で生まれ、人々によってイメージされ続けてまいりました。そのことを通じて、実に多くの人々がさまざまな出来事を学んでもまいりました。

いずれ私たちが、みな同じひとつのもの、ひとつのエネルギーに同化してしまったとき、すべてが消えうせます。私もあなたもなくなり、ただひとつのものとして「在る」、だけのものとなるでしょう。

あらゆる悪のすべてのことは、彼の仕業であるということで、人々は救われてきたのです。

いま急速にあなた方は、善も悪もない、神はあなた方自身ですよ、あなた方が気付きさえすれば、すべての答えはあなた方自身の中にすでにインプットされているのです、という考え方を受け入れつつあります。

天国の扉の鍵はルシエル天使が持っている。彼はその鍵を持ったままさまよい歩き、彼が救われる日が訪れないかぎり、ほんとうの天の国の扉は人々の前に開かれることはない。

まことにシンプルなやり方があります。それは、あなたがすべてのもの、すべての目に見える現象をただ納得し、それは必要のためにのみ存在するものである、と認めればそれで良いという方法です。

世界の平和を願うなら、まずお隣の人と仲良くすることだよ、と。それ以外の方法は、何一つございません。お隣りとは、いえすの申しております隣人愛ということとまったく同じ意味であることは言うまでもございません。

あなた方と関わるすべての人々は、つまりはお隣りの人々でございます。

どうぞ時々目をつむり、言葉を収め、ほんとうに大切なことが何であるのかを心にイメージしてみて下さいませ。それがすべて、あなた方の世界となって現れてまいります。

善きことは神のもの、悪しきことは悪魔のもの、といった二元的な考え方は、もうそろそろ人々の中から拭い去るべきときに至りました。

人が一回だけの生ではなく、何回もこの世に生を受けてさまざまな人生を体験し、その因をつくり、結果を刈り取っているのだということを自覚したとき、もっともっと広い視野で自分自身に起きるさまざまな出来事を見ていくことが出来るようになるのです。

自分ではもうとっくの昔に忘れてしまったような、何気なく交わしたお友達とのやりとりの中に、とても大事なことの鍵が隠されていた、ということはよくあることなのです。

ひとつひとつの出来事に対して自分がどのような反応を示していくかを観察することによって、自分を知ることが出来るようになります。

天使たちとは、あなた方すべてのもうひとつの姿だと思ってください。誰でも天使になれない者はいません。しかし、それぞれの霊魂の持つ波動があります。非常に粗く粗雑なものから、非常にきめ細かく、その振動のさまはどのような者の目にも捉えることのできないほど細かな止速度まであることを、まず知ってください。(実際には細かく動いているのに、まるで止まっているかのようなものは止速度と表現します)

この宇宙の中には、人間がまことに勝手気ままに創り出した、多くの想念の世界が存在致します。それは、創り出しているものの波動の振動数によって決まります。粗く大きな振動は、それに見合った世界を構成していますし(重く暗い世界です)、きめ細かく速くなるほど軽やかで明るい世界を創り出していきます。

どのような人であれ、肉体を離れますとその霊魂の持つ波動の世界へと間違いなく引き寄せられてまいります。いったんその世界に入り込んでしまいますと、その世界ですっかり安定してしまいますから、なかなかそこから上昇していくことが出来ません。

その波動(振動数)を変える最大のチャンスは、この肉体世界に生れ出た時のみといって良いでしょう。

肉体を離れますと、いままで閉じ込められていた霊魂は自由になります。自由にはなりますが、その肉体として生きた間に自分のものとして作り上げてまいりました霊魂の波動のまま自由になります。ですから、類は類を呼ぶのたとえのように、自分と同じ波動の世界へ迷うことなく引き寄せられていき、その世界で次の出生のチャンスを待つ、ということになります。

いつかは神本来の持つ、肉の目には決してとらえることのできない高性能のエネルギーの世界へ、と回帰してまいります。そのためにも、人々はたとえ天使の軽やかさを持った者であれなんであれ、幾度となく肉体となって人の世界で生きるのです。

一人の魂が軽くなるだけではだめなのです。私たちは全体としてひとつなのですから、全体として軽くなる必要があるのです。そのためにこそ、先に軽くなったものが、後になってしまった者へのお手伝いをしていくのです。

いま必要なのは、この地球というかけがえのない星のもつバイブレーションを、これ以上貶めてはいけないということです。

聖地のものエネルギー波動は、非常にきめ細やかに発散されていますから、私たちのようなバイブレーションそのもののような者が、安心して降り立つことが出来る場所なのです。

いえすが、公生活を始める前に地上においてなすべきことを学んだのも、エジプトにおけるピラミッドの中でありました。

すべての出来事は、何事によらず、あなた方の魂の成長のためにあるといいますことをぜひ知ってください。このことをわきまえたとき、あなた方の考え方は非常に安定するでしょうし、どのような出来事にも、きっと積極的に取り組んでいけるようになることでしょう。

このように変動の激しい時こそ、人々は大きく覚醒できることを知っています。ですから多くの魂は、なんとかしてこの時代に肉の身を持って生まれて来たいのです。そのことが異常な数の人口増加につながっていると言えましょう。

これから短期間の間に、実にさまざまなおそろしい出来事がまき起こるでしょう。しかし、その時こそ、人々の魂は己れのカルマの清算ができることを知っているのです。

ただいたずらに怒ったり悲しんだりするのではなく、その人その人のよき判断がなされていくことで、社会全体の空気も和らいでいくことと思います。

そのことは、また次なるよきことを招き寄せます。これまでのいきさつ上、当然起きるはずであったさまざまな事件や事故、災害といったことがらも、人々の感情が鎮まってまいりますと、またそれらの出来事に伴う力も弱まってまいります。このようにして大きな災害を食い止めていくこともできるのです

自分の身に起きるすべてのことがらは、すべて自分自身の責任であり、また必要なことであるということを知る。それはとりもなおさず、あなた自身の中にある神に委ねた結果であるということなのです。

すべてを神の司る一瞬一瞬の時の流れにまかせきる心が、すべての空間をなんの障害もなく流れてまいります。

守護霊とは、保護者としての立場にある者です。

指導霊とは、いわば学校の先生のような役割で、精神面をつかさどる存在です。

いったん肉体を持ちますと、どのようなバイブレーションの違いの者でありましても、人として全く同じ次元で生活し生きることが出来ます。霊体のときには決して触れ合うことのできなかった者同士が、どのようにでも接触できる世界がこの現実世界であります。

本当の神の民の意味は、人々の前に指し示された犠牲の民であったのです。

神の心を心として生きようとしますとき、どんなに厳しい試練が待ち受けていたかは、あの旧約の書の中に見る以上のものでありました。

あの書物(聖書)はいわゆる道徳の書ではありません。神によって神の道を生きることを命ぜられた、ひとつの民族の生きた証の書物であるということです。

玄米ははっきり陽性な食べ物、ということが出来ましょう。非常に活動的なものであり、いわば熱を生み出すもの、カロリー的に言って非常に高度なものであると言えるのです。ですから、玄米食をいたしますと、それほど多くの量はいりませんし、また食べることはできないのです。

あまりこだわりの心を持たないで、いろいろなことがらを出来るだけ素直に受け止めてくださいと申し上げることにいたしましょう。

直観の働きと感じたものに、自分をゆだねてみることをおすすめしたいと思います。そのことの積み重ねがひとつの訓練となり、私たちの回路をつなぐ道筋を作ってまいります。

しかし、その回路は必ずしも私たちの魂のグループへつながるとは限りません。やはり、その人その人の持つ波動と同じ世界の者へとつながってまいります。しかし、心から自分を信じ、神を信ずる想いの中でつながるものは、それなりの良き魂と出逢っていくことをお約束いたします。

心はいつも私達、そして神へと向けておいてくださいますように、そのことが第一の条件となります。そう致しますと、そこに他に師を求める必要のない自我の確立が生まれてまいります。自分一人で立つ、ということです。ものごとの判断を決して他に委ねない、ということです。このことをまず自分のものにできるかどうかがひとつの鍵ともなりましょう。

決して悪いこともしないし、人の悪口も言わない、決して怒ることもないといった、そのようなことは、みなさんどうぞおやりなさいと申しましょう。

そのような末梢的なことがらではなく、すべての根本において全き者に信を置くということです。

そのような姿が保てるようになると、もう何も怖いものがなくなります。さまざまな組織に決して束縛されることがありません。

この世とはいったいなんであるのか。まさしくこの波動の変化をきたすために用意された学びの場であり、変電所であるといっても過言ではありません。

人の歴史とは何であるのか。たとえそれがイエスキリストにまつわるものであれ何であれ、神との合一へと向かうための目的を持った一大ドラマであり、大いなる旅路であると言えます。

天地創造

まずはじめに、神は実に多くの霊魂、霊なる存在をお創りになりました。神ご自身の分霊、分身としての魂であったのです。みな、いまだ肉体を持たず、ほとんど光そのものの状態のままに、この真空なる宇宙空間に浮遊していたと考えてください。

この多くの魂のほとんどは、その後いったん、ある途方もない秘儀により非常に粗いエネルギー波動を持つ、いわば物、物質といってもよいところまで堕ちてまいります。そのことが、いわば堕天使の物語でいわれるサタンの世界、ネガティブな波動の世界といえます。

さてある時、人としての肉体は完成いたしました。いままでこの真空の大空に浮遊し、待機していました数々の霊魂は、この時すすんでその肉体へと下降してまいりました。中には人でない生き物の中に入ってしまった霊魂もあったのです。

魂の波動の違いを、単純にランクの違い、と見てしまうと問題が生じます。良い悪い、高い低いのランクではなく、その人が、人としてどう生きてきたかの個性であると見るのがよいのです。

本当の自分はもっともっと自由で、広々とした世界に∉者であることにも気づくのです。その時こそ、人々の霊魂はもっと明るく、軽く、自由な波動の世界に移行したいと願わずにはいられなくなるのです。そのことがまた、人が人として何回ともなくこの地上に生れ出る所以であると申せましょう。

いまとなりましては、人は他人によって救われるのではなく、その人その人の内的な何かによって救われていくといいますか、気づかされていくということなのです。

自分の救い主は自分であること、自分が自分を一番よく知り、自分を開いていけるものであることをよく知ること。

人には人それぞれの救われ方があるのですから、あなたができることはただひとつ、互いに優しく声をかけあっていくことだけです。

まずあなたは、あなたご自身の救い主となりなさい。

人々が救われるといいますことは、結局は人々の心根の中から、本来の愛ある心があふれ出すようになることに他ならないのです。

人々の心の中から影の部分、闇の部分が消え去ること、少なくともそれを、だれか他の者、または現象のせいにせず、すべては自分にとって、あるいは社会にとって、本当に大事で必要なことだから存在するのだ、ということを認めることでしかないのです。

すべてを自分の必要性として認めた時、そのときこそ、彼ルシエルの果たしてきた役割が終わるときであり、彼の偉大なる魂の輝きだすときなのです。

他の生きる者たち

ありとあらゆる存在者 あるいは存在物にあっては

すべてその姿を

神の全き心を現すべく創られしが

人だけは そうではなかった

人にありては ある理由により生じた

神の ネガティブなる一部をあがなう者として

創られし者と知るがいい

その理由は 人にはあかされなかった

人々は

一度は 悪なる力に己が身を委ねねばならなかった

そこに 神の大いなる計らいがあった

人々は神の分身であり

神そのものではあったが

神のうちにありて 解決せねばならぬプラスとマイナス

陰と陽の関係を担う者となるべく

神は人々を創りたもうた

私は本来 影を伴い得ぬ光である

それゆえに

私はいまひとつの光をつくろう

その光とは

影と共にあり 影を伴う光である

そなたは 私の光から生まれた影としよう

またその影を伴う光も 私より生ずる

このふたつのものは同じである

決して分かち得ぬ

私の愛の徴であることを 知ってほしい

光なきところに影はなく

私(悪魔ベルゼブル)はたえず 彼と共にあった

彼(イエス)によりて

人々が影を伴わぬ 光となるために

そのことこそ

神の計らい

願いであった

人々よ

知るがよい

そなたたちの前にあるのは

全き神の

愛の きざはしのみ

登り行け

ふりむくではない

登りゆきて

やすらぐがよい

そこにてまた

我も 待つなり

我もまた ともにやすらぐなり

大いなる神の従者 るしえる

大切なことは、これから起きることにあります。

次々と、天の国ではすでに完了されましたことがらが、地上的には、これから現実のものとなってあらわれてまいります。

いまここにきて、人々は少しずつ私から離れ、それぞれ自分の足で立つことを知り始めました。いましばらくの間のことです。

神はちぢみゆく 陰なる力にて

そなたたちの見る

ありとあらゆる世界を 創りたもうた

陽なる力は

すべからく人の心とはなせり

ちぢみたる力にてつくられし その肉の身のうちに

ひろがりとなる力持つ

陽なる心やどせしものを