表紙オカルト研究


 21 冥界からの電話 佐藤愛子

こんなことを一生懸命書いても、人の目には茶番に見えるだけじゃないか。死んだ人間が電話をかけてきて、それも一度こっきりではなく何回もかけてきて、生きていたころと変わりのない声で会話を交わす・・「また前みたいに楽しいお話しましょうね」などという。そんな話を誰が素直に信じるでしょうか。まず高林先生のアタマを(中には人間性を)疑うのが普通かもしれない。それを信じる筆者のアタマも「どうなっているのか」と心配される。こういうことはたぶん黙っている方がいいのでしょう。

 現代では大半の人が死は無であると考えているように思われます。といっても仏教信者やキリスト教信者など、信じる宗教を持っている人は死後の世界を信じているのでしょうし、特に信仰を持っていなくても、死ねば「あの世」へ行き、先に逝った人たちに会えると漠然と考えている人は少なくないかもしれません。しかしそれとても、あくまで現実感のないあの世観であって、「何となくそう思っている」という程度のことではないだろうか。

 昔はこの世で結ばれることが出来ない恋人たちが、死んであの世で一緒になろうと心中する話がよくありました。死後の世界はどんな様相なのか、何も知らないまま、死後の世界で一緒に暮らせるのかどうか、第一、肉体のない者がどんなふうに一緒に暮らすのか、確証は何もないまま、ロマンティックな想いのまま、足と手を縛り合って死出の旅に出る。しかしあの世では、死者はそれぞれの波動の質によって行く先が決まるということですから、波動が低ければ波動の国(というか、集落というか、階級というか、そこのところはよくわからないけれど)へ行く。恋人同士の波動に差があるときは、いくら愛し合ってても別れ別れになってしまうといいます。地獄の果てまで一緒に行く、といくら頑張っても、波動の高い魂は地獄へ行くことはできないのではないか。しかも与えられたこの世での生を全うせずに、情念に任せて自分勝手に命を絶つというような天上界の意志に反した行為は、罰を受けて暗黒界へ行かされる・・。

 今、筆者はつい習慣的というか、「罰を受けて行かされる」と書いてしまいました。幼い頃に聞かされた話、死ぬと閻魔様に生前の所業を裁かれて魂の行き先を決められ、修行しに連れていかれるということでした。それはある年代の大部分の日本人に染み込んだ観念だったと思います。だからわるいことをしてはいけない、嘘をついてはいけない。物を粗末にしてはいけないという戒めになるのでした。

 しかし近年になって、筆者はようやく知ったのです。天上界には裁きなどないこと。強制もない。罰もない。大切なことはただ一つ、死者それぞれの魂が持っている波動の高低であること。波動が高ければ高い所へ上る。低ければ低い所へ行く。「行かされる」のではなく、自己の波動にふさわしい所へ、自ら、自然に赴くらしい。誰かから教えられたということもなく、いつか(いろんな知識が混在して)そう考えるようになっています。

 死後の実相など何もわからない。いろんな意見を聞いて、聞いたその人自身が納得して信じるか信じないか、その一点で決まるわけです。

 筆者は筆者の北の国の別荘の異常現象を鎮めて下さった相曾誠治師、大自然の法則研究会の主宰者中川昌蔵師、心霊科学協会の大西師、この三人のいわれることをすべて信じました。その人となりの無私で高潔なことが信頼のもとです。

 われわれが知っておくべきことは、人間は肉体だけで存在しているのではなく、「肉体と魂」で成り立っているということ。大切なのは肉体ではなく「魂」であること、我々は魂の向上のためにこの世に生かされる。そしてこの世での艱難に耐え、魂を浄化して霊界へ入る。この世での浄化が足りない魂は、死後の浄化の修行をつづけて霊界を目指す。そういうことがわかっていれば、それでいい、ということなのかもしれません。

 

「わたしは菩薩界から転生して来ておりましてね」

中川師は淡々と言われました。まるで、「わたしは大阪から来ましてね」とでもいう時のように。我々は死ぬと、この三次元から四次元へ行きます。まず幽界へ行き、順当にいけばそこから霊界に向かうのですが、霊界に入る前に精霊界というところで波動の調整をする。三次元世界で身に着けた欲望や情念を浄化する修行をするのです。霊界の上には六次元(神界)があり、神界の上、七次元が菩薩界です(菩薩界からこの世に来た方にマザー・テレサがおられます、と中川師はいわれました)。菩薩界の上、八次元世界は如来界です。如来界からさらに上へ、九次元、十次元と連なっているのだが、それ以上は我々にももうわかりません。行きつく所は「天地創造神」になるのだろうけれど、そこまでは私なんぞにはわからんですな、と師はあっけらかんといわれるのでして。

 我々がこの世に生まれて来る目的は、「魂の向上」であって、楽しむためなんぞではないのでした。

「魂の向上と波動を上げることです」と師は繰り返しいわれました。

「三次元の、見える物質世界も四次元の見えないエネルギーの世界も、すべて波動です。人間は肉体の波動、精神(心)の波動、魂の波動と三つの波動を持っています。心の波動の高い人は心が広いといわれ、魂の波動の高い人は徳のある人と尊敬される」

「怒りや憎しみ、恨み、心配、イライラ、クヨクヨ、不平不満、人の悪口をいうなどの時は心の波動が低下する。悩み事のために心の波動が低い時に神仏に祈ると願いの波動は地獄霊に同調して、悩み苦しみが増大することがありますからね、気を付けてくださいよ」

「波動を高めるにはどうすればいいかって?ちっとも難しいことじゃありませんよ。学問とか知識は必要ありません。ただね、人は一人では生きられない、生かされているということをよく認識してね、そのことに対して有難うという感謝の気持ちを表せばいいんです。感謝することで魂の波動は上がります。実に簡単なんですよ。死後の世界は波動の世界ですからね。波動の上下によって地獄界、幽界、霊界、神界と厳格に分けられています。死ぬとその者の魂は自分の波動と同じ波動の場所へ自動的に移動します。最近はね、人の心が乱れて、死んでから地獄界へ落ちる魂が多くなりましてね・・今は楽しむために生まれてきたと思い込んでる人なんか割合いましてね。政治が悪い。アレが気に入らない。コレが悪い。楽しいことは何もないと思うんですね。怒ったってしょうがない。自分で考え違いをしているだけなんでね」

「死後のことはね、情報として知っていればいいんですよ。そう詳しいことを知る必要はありません」

「魂は人間の胃の後ろにあります。太陽神経叢にあります。感動すると人は胸にこみあげるものを感じるでしょう。それは魂が胸にあるからですよ。魂は脊髄液とリンパ液を通じて肉体と連携し、脾臓をアンテナにして宇宙エネルギーを吸収してるんです」

 

 

死ぬことを学ぶことによって汝は

生きることを学ぶだろう。

死ぬことを学ばなかったものは

生きることを何も学ばずに

死ぬことになるだろう。

「チベット死者の書」

 

高林先生は十七歳のある日、たまたま本屋の立ち読みで、彼は一篇の詩に出逢いました。その詩がぼくの生涯を決定づけたと言えます、と先生は筆者に述懐しました。

 

この夜半おどろきさめ

耳をすまして西の階下を聴けば

ああまたあの児が咳しては泣き

また咳しては泣いて居ります

その母のしづかに教へなだめる声は

合間合間に絶えずきこえます

 

それは宮沢賢治の「十月二十日(この夜半おどろきさめ)」と題された詩です。

 

あの室は寒い室でございます

昼は日が射さず

夜は風が床下から床板のすき間をくぐり

昭和三年の十二月

私があの室で急性肺炎になりましたとき

新婚のあの子の父母は

私にこの日照る広いじぶんらの室を与へ

じぶんらはその暗い

私の四月病んだ室へ入って行ったのです

そしてその二月

あの子はあすこで生まれました

あの子は女の子にしては心強く

凡そ倒れたり落ちたり

そんなことでは泣きませんでした

私が去年から病ようやく癒え

朝顔を作り菊を作れば

あの子もいっしょに水をやり

時には蕾ある枝もきったりいたしました

この九月の末私がふたたび東京で病み

向こうで骨になろうと覚悟していましたが

こたびも父母の情けに帰ってくれば

あの子は門に立って笑って迎え

また階下から

お久しぶりでごあんすと

声をたえだえ叫びました

ああいま熱とあえぎのために

心をととのへるすべをしらず

それでもいつかの晩は

わがないもやと言って

ねむっていましたが

今夜はただただ咳き泣くばかりでございます

 

ああ大梵天王

こよひはしなくもこころみだれて

あなたに訴え奉ります

あの子は三つでございますが

直立し合掌し

法華の首題も唱えました

如何なる前世の非にもあれ

ただかの病かの痛苦をば

私にうつし賜らんこと