やけどした弟の主要なレッスンは、欲求を満足させることができない人生にも、押しつぶされることがない謙虚さを身に着けることです。
同時にいくつもの人生を生きたら、それだけ長い間転生しないで反省の期間を楽しむことができます。
私たちがこの世の一つかそれ以上の肉体にいる間、スピリット世界に残った部分は、ほとんど眠っていて、残りのエネルギーが再び戻ってくるのを待っている。
スピリット世界の活動領域は4つ知られている。
1 自我のない世界
2 全知の世界
3 創造と非創造の世界(物を作る訓練をする)
4 時間が変容された世界(地球、物質界のシュミレーション)
私たちは「全知の世界」の一瞥を与えられます。
そのおかげで、自分の仕事の最後の仕上げをし、マスターたちに合流しようという意欲がわいてきます。
スピリット世界はピラミッド構造ではなく、巨大な織物の糸の一本。みな、それに織り込まれています。
水平に延びる線路の上を走る宇宙的な列車の一部と感がる。みな同じ列車に乗っている。車両が違うだけ。
それは目というより、過去の肉体への窓、以前の自己への唯一の肉体的な延長といったほうがいいですね。この黒さは、私たちの存在が集中している点なのです。魂はお互いの存在のエネルギーを吸収することで、コミュニケートするのです。
彼らは決して世捨て人ではありませんよ。彼らは権力者たちの意のままに操られている、ありふれた人たちと一緒にいることを好むのです。
性格や向上心が異なっているからです。
それぞれの魂を動かしているのは、その向上心なのです。
意欲の強さも性格の一部なのです。
向上心は自己に対して正直にあろうとする欲求であり、源泉へのルートを解明しようとする動機ともなります。
内なる声に耳を傾ける。内面を広げる。
自分を苦しめているものの外側に出なければならない。
方向をもった思考が、人間的な感情を乗り越えなければいけない。
あまりに深い悲しみに沈んでいたら、彼らに近づくことはできません。
私が彼らに安らぎをもたらす考えを吹き込むと、それを彼らはインスピレーションだと感じるのです。
コミュニケートするとき、最大の障害は恐れです。
自由意思の行使こそ、輪廻転生の目的なのです。
魂の自己表現のために肉体の選択が大きな焦点となる。
魂は自分の性格のさまざまな側面を発達させて、さらなる自己表現を求めるのです。そこには常にカルマの法則が働いています。
魂自身は、本当の自分が分かっているのに、私たち人間は意識的な心を通じてそれに到達することが難しいのです。
理想的な肉体と魂の融合なんてめったにおこりませんよ。
人間は私たちが宿っていなかったら、全く空っぽですよ。
それでも、私たちはこの世の肉体を敬意をもって扱いますけどね。
ある種の肉体的な感情は圧倒的で、私にできることは少ないんです。
(魂はときに殻に閉じこもる。回避していたら、この世で学ぶべき主要なレッスンのことも忘れていられるから)
里親が厳しかったのは、他人に一から十まで指図される気持ちを経験させるためなんです。
霊的な自己を知ることは、私たちが両親、きょうだい、配偶者、親友などとともに生きている、その理由を理解することなのです。
身近な人から、痛みや喜びを与えられるとき、そこには何らかのカルマ的な目的があります。ここで覚えておくべきことは、私たちは自分自身のレッスンを学ぶためだけでなく、他人の学びのドラマの中でも役を演じるために、この世にやって来ているということです。
魂が宿らない人間の性格には、五感と生存のための基本的な衝動以上のものがないとしたら、魂こそ私たちの人格のすべてではないでしょうか。
アジアの仏教徒たちは、「光明とは絶対的な魂の自我が、相対的な人間の自我に反映されて、それが人生に実現されるのを知ることだ」と言っています。
魂が全面的には人間の心を統御し統一することはできない。
肉体的な衝動にとりつかれたり、人生の感情の浮き沈みに流されていると、この表面的な自己によって魂が堕落してしまうかもしれません。
次の人生で、記憶が呼び覚まされるように、今「しるし」が私たちの心に刻み込まれました。
自分自身がその「しるし」を発見することで、魂のパワーが増すのです。
セックスは大きな罠、いずれはお互いに飽きてしまいますからね。
誕生前、赤ん坊とずっと一緒にいるということはありません。退屈してしまいますからね。遊ぶんです。地球を飛び回って・・・
いったん子どもと結びつくと、自分の心をその脳と同期シンクロさせることが必要になります。
そしてだんだん私が主導権をにぎります。
それは融合なんです。もともとあった空白を、やってきた私が埋めることで初めて赤ん坊は完全になるのです。