表紙オカルト研究


 

31藍の書(あおのしょ)

辻麻里子

 

ユングの「赤の書」

辻麻里子の「青の書」へ

そして次には、一人ひとりが「紫の書」を完成させるのだ。

 

共通点は「夢の領域」

 

「それでも人は生きてゆく」

 

その夜、私は鮮明な夢を観た。あまりに鮮明すぎて、決して忘れることが出来ない。夢の題名は「人類はなぜ22を超えられないのか」というものだった。

 

夢の中に下りていくと、大きな湖が見えてきた。

私は湖に浮かぶボートに乗っている。

少し離れたところに一隻のボートがあり、そこには8組の親子、合計16人が乗っていた。

「あのボートは、これから沈みますよ」

と、誰かが言う。

早く知らせなければと思ったが、あっという間にボートは沈んでしまう。

 

そこで視点が切り替わり、私はボートの上空からその状況を見ている。それは、湖の上空うと水の中という多次元的な視点を同時に持っていた。ふと気が付くと、隣には臨死体験の際に出会った人がいて、同じ位置から今起きていることを説明するのだった。

「水中で起きていることに注目しなさい」とその人は言った。

目を転じると湖の中はまるで地獄絵図のようだった。

8組の親子が網のようなものにからまっている。

まるでクモの糸のようなものにからみとられ、

もがけばもがくほどからまっていく。もう時間がない。

早くほどいて脱出しなければ溺れ死んでしまう。

8人の父親たちが自力でクモの糸を脱出することができた。

そして我さきに自分の子どもを助けようとしている。

しかし、上空から全体を俯瞰してみると、8組の親子は輪を描き、実の子どもは父親から見て一番遠くにいる。互いに対角にある一番遠い位置にいるのだった。目を転じると、自分の一番近くには、よそのうちの子どもが苦しそうに助けを求めている。すべての父親が、一番近くにいる子供を助けたら、全員が助かるだろう。

しかし、自分の子どもを助けるために、一番近くにいる子供を踏みつけにして湖底へと沈めている父親がいた。それを観たその子の父親が自分の子どもを助けようとする。それにつられて、他の父親たちも自分の子どもを助けようとしている。よその子どもを踏みつけにして・・。その様は、まさに地獄絵図のようだった。

子どもが一人、また一人と犠牲になり、湖底へと沈んでいく。その中でたった一人だけ、自分の子どもを助けずに、一番近くにいるよその子を助けようとしている父親がいる。自分の子どもは、よその父親に踏みつけにされて湖底へと沈んでいく。子どもの目は、真っすぐに父親に向けられている。父親に見捨てられた子どもの悲しみと、自分の子どもを助けることのできなかった父親の悲しみが波のように押し寄せてきた。

なぜこんな悲惨な夢を見せるのか。私は夢の中で怒っている。

しかし冷静に考えてみれば、なぜこの夢に登場するのは母親ではなく父親なのかという疑問が生まれた。この夢は母性ではなく、父性というものについて語ったものなのか。

次の瞬間、よその子を助けた父親と、湖底に沈んだ子どもが、一緒に高いところへと引き上げられていくのが見えた。ふたりは手をつなぎ、空高く昇っていく。

 

「見よ、これが、人類が22を超えられない理由である。

ここにいたすべての父親が、一番近くいる子どもを助けたならば、すべての子どもたちは助かっただろう。16人のうち誰一人、死ぬことはなかった。簡単なことだ。しかし、一人の父親が、自分の子どもを助けることを優先するために、よその子どもを蹴落とした。それを見たその子の父親が、自分の子どもを助けようとした。それを見ていたほとんどの者が、ある意味で平常心を失い、我先に同じ行動をとったのだ。ここで注目するべくは、他者を蹴落としてでも自分の子どもを助けようとした者は、全体のうち1人しかいなかったということ。他人の子どもを助けたのも全体のうちの1人。残りの6人がどう行動するかで人類の未来は大きく変わるのだよ」

「なぜ、こんな惨たらしい夢を見せるのですか」

私は怒ったようにその人に言った。

「これは、本来の父性にありかた、宇宙的な父性について説明をした夢である。人間は女性であろうと男性であろうと、自らの内に父性と母性を宿している。そして、家族が一番大事だとか、自分の身内だけ良ければいい、自分だけ助かればいいと思っていたら、人類はいつまでたっても22を超えられないだろう。

あの父親を見よ。彼は我が子を助けられなかったことを悔やみ、悲しみにくれていたが、彼と彼の子どもの魂は高次の世界へと引き上げられたのだ。それが清き魂の行き先である」

 

「よく聞きなさい。お前は誰かを批判したり裁いたりするのではなく、それぞれの立場をより深く理解するよう努めることだ。たとえば湖に落ちた8組の親子、16人の立場をそれぞれ理解すること。

常に全体を俯瞰することが大切である。しかし全体を俯瞰するだけにとどまるのではなく、16人の一人ひとりのところに降りて行きなさい。そして一人ひとりの心の奥を理解するように努めることだ。

皮肉なことに人が本当に守りたいものは、自分から一番遠くに離れているものだ。しかし目の前にいる、見知らぬ誰かのために、惜しげもなく手を差し伸べる時、結果的には遠くにいる大切なものも一緒に救うことができるのだよ。

さあ、現実の世界に戻り、目の前にいる他人の子どもを救うために、自分の子どもを助けられなかった無念の父親に伝えてあげなさい。魂の世界ではこのようなことが起きているということを」

 

石の旅 ストーンヘンジ  スイスの旅 グラストンベリー篇

気が付くと、ストーンヘンジのサークル内のエネルギーフィールドが、笑いと共にゼロポイントに変わっている。

最後の最後、大いなる扉を開ける鍵は「笑い」にあったのだ。

 

私は夢の中で時空を超えて、ストーンヘンジの本来の目的について教えられたのだった。

ストーンヘンジは日時計でもなければ、夏至や冬至を知らせるものでもない。ストーンヘンジは月を観察するものであって、特に月蝕や日蝕を知るための装置だった。なぜ月を観察して月蝕や日蝕を知る必要があったかといえば、本来はストーンヘンジがヒーリングセンターのような役割を果たし、地球や地球上に住むすべての生命の音を調整していたからにほかならない。音を正確にチューニングするには、地球と月と太陽が一直線に並んだ時、その効果が最大になるからだった。治療や治癒の目的でこのストーンヘンジが作られた。

それは地球と地球上に住むすべての生命の音をチューニングするために。当初は地球をチューニングするために作られたが、地球と地球上に住む全ての生命に恩恵がもたらされ、そして時が下るにつれて、その対象が個人的なものとなっていったのだろう。

 

唐突に、昨晩見た夢の中でガイドが言った言葉が心の深いところから鮮明に蘇ってきた。

「この領域では奥ゆかしさは美徳にはならない。いかなる時も魂の目を開き目覚めた意識状態にありなさい。恐れることは何もない。それには自分自身の力を100パーセント認めることだ」と。

 

確かに、次元を超える際に通り抜ける光のトンネル内には光の図形が描かれている。図形はゲートになり、出入り口になり、魂にとっては自分がどこの何者に生まれ変わっても魂の言語としての図形、光の言語としての図形を思い出すからだろうか。

 

自分自身が特異点であることを自覚せよ。

49番地のアインシュタインが住んでいた家の前で聞こえた声

その真偽のほどはわからないが、その声の内容をわたしに分かる範囲内で要約すると、「相対性理論は片道の数式」「もう一つ帰りの数式がある」ということ。「すべての物理法則には作用反作用という双方向の作用があり、目に見える物質の次元と、目に見えない世界の双方の式を書かなければ不十分」であること。「核分裂もあれば、核融合もある」そして「太陽は核分裂ではなく核融合をしている」と。

 

ところで、私の個人的な統計によると、夢見が得意な人のなかには石好きが多く、意志が好きな人のなかには夢見が得意な人もいる。夢と石には「結晶体」という共通点があり、両社は相性がいいからだろう。

 

観察者の視点に立って冷静に見てみると、数字がハーモニーを奏でながら、多面体を形成していくのだった。

 

私たちが現時点でたどり着いた結論は、どんなに防御しようとしても、防ぎようがないことがあるということ。放射性物質は空気にも水にも、風の中に、海水の中に溶け込み、地球全体にいきわたることだろう。もちろん強弱はあるとは思うが、究極的には地球にいる以上もうどこにも逃げられない。もし逃げることも、防御することもできないのであれば、あとは「自分の振動数をあげる」しか方法はないのではないかと。実のところ、それが一番大切なことであり、もっとも簡単なことのように思えた。私たち一人一人が、「自分の中心軸の振動数をあげる」しかないのだ。と。

 

宇宙の中心軸を意識し、地球の中心軸を意識化し、そしてハートの中心を意識して自分の中心軸に意識を向けよう。植物の香りと鉱物と水の力を借りて、中心軸の香りを作ろう。

 

石のテーブルの上には、日本の糸で修復した「太陽系縮小モデル」をおもむろに置いた。太陽の中心軸、太陽系の中心軸に意識をチューニングするかのように。

さらに、スイスアルプス産のスモーキークォーツ、氷河の水、エーデルワイス、そして球体の「ゼロポイント3D」、「ロータス3兄弟」の香り、そしてなぜか使い方はわからないけれど、パープルのプレートを設置する。

私は心をゼロポイントにして、何も意図せず、何も考えず、すべてを明け渡し、足元から地球、頭の上から宇宙を感じながら、ただ光が流れるままにした。誰かを助けたいとか、すべての病を治したいとか、何かの役に立ちたいとか、そういった個人的な感情は一切なくし、ゼロポイントの状態ですべてを手放し、ただ大いなる宇宙に身をゆだねていた。

 

今、この瞬間、ここでできることを最大限やることが、すべての次元にいる自分にも伝わるのではないだろうか。

少なくとも、夢の領域においては、すべての次元はつながっている。

多次元を統合するためには、夢が何かの役に立つかもしれない。

無数の次元に無数の自分がいる。その一つの自分が輝くことで、自分という世界は一瞬にして変わるかもしれないと思うのだった。

自分の中心軸を輝かせることによって。

 

ユングとの共通点は、夢を通して心の深みに降りて行くこと。

 

魂の仕事は、混沌としたこの時代においても、常に冷静に「観察者の視点」に立つことなのだろう。自分の感情や他人の感情に浸ることなく、違和感を感じたら観察者の視点に立ち、足を取られたと思ったら観察者の視点に立つ。また、夢というものが、観察者の視点に立つための一つのアプローチになるのではないかと私は思う。なぜなら、目覚めた夢の中では観察者の視点に立つことはたやすい。

 

夢の中のアクセスコードである数字や図形の存在をハッキリと「認識」するに至ったのは、私が夢を探究しはじめて13年が経過したころだった。

夢の記録をはじめた9歳のころから13年後、1987年2月。22歳の冬のことだった。

「数字と図形によるアクセスコードはすべて渡した。

これでお前も多次元の言語が理解できるようになるだろう。

図形とは、数字が奏でる音である。

すべての根底には数字が流れている。

光の幾何学とは数字から派生していることを覚えておきなさい。

と、夢の中のガイドは言った。

 

数字や図形に意識を向けることによって、夢のアクセス領域を自在に選べるようになったのだ。数字とは多次元的なもので、たとえばどの次元でも数字の「1」は「1」のままだった。他のものは実際には多次元の旅に耐えられないものが多く、プラスチックで作られたものや、大量生産された工業製品などは、多次元では原型をとどめていない。

 

手次元へのアクセスコードとしての数字や図形は手描きがふさわしく、究極的に言えば、ゼロポイントの意識状態になって描いたものであることが望ましい。

 

多次元へのアクセスコードである図形とは、すなわち多次元の周波数領域へとアクセスするための扉を開く。

子の次元にいながら高次元領域と意識を同調できることを意味し、結論を先に言えば、「中心軸の香り」と同じく、自分の中心軸を意識して周波数を高めることしか、現時点では対処法は思いつかない。防御はできないのだ。

混沌とした世界に翻弄されることなく図形が指針となるように、地球の変容にエネルギー的に適応するように願いを込めて。

 

22の図形はまるで人類の集合意識に描かれている図形のようだった。

23のような素数の図形が切り替わるサインとなって、それ以前と、それ以降の世界はがらりと雰囲気が変わるのだった。

「人類の集合意識を超え、宇宙意識の元へと旅立つ時。扉の前に自己顕示欲などの誘惑が存在している。銀河レベルの大人になるためには執着を手放し、軽やかになることだ」

22の図形を超えられない理由はここにある。

 

ついに、24の図形を描いていると、自分が完全に消滅するという瞬間がやってきた。

 

自己というものが完全に消滅し、宇宙に溶け込み一体となるとき、宇宙のパラドックスは、自己が消滅した後、他者とおなじように自分に愛を贈ること。

 

整合性のとれた図形は、ゆがみのない本来の形に整列させるはずだ。

 

私たちに今できることは何かと問いかけたとき、やはり、プラスとマイナスを統合してゼロの状態にいること、自分の中心軸を確立することという結論に達した。

 

奇数の炊事は中心が開いていて、偶数の数字は中心が閉じています。そして、素数は二色ではなく単色で表現されているので、一目見てその数字が奇数か偶数か、さらに素数かわかるんですよ。

 

クリスタルチルドレンとか、スターチルドレンと呼ばれている個性的な子どもたちの教育には、姉のように心が広く、すべてを包み込んでくれるような、根気強い教師が必要だと私は確信している。

 

スピリチュアルなことは一歩間違えば、おせっかいをしでかすもの。自分の信じていることを相手に押し付けてはいけない。

 

光の図形であっても、三次元の領域に入れば平面になってしまうように、人間が何らかの欲望を抱いた瞬間に、これらの図形は光を失い平面になる。欲望をセンサーにした安全弁がついているのだ。

夢の中のアクセスコードをこの三次元に物質化してしまったのだから。これからは、この図形さえあれば、目覚めたまま夢を観ること、目覚めたまま夢を追体験することが容易になるだろう。

 

明晰さとあたたかさが両立する。

 

光が湧き出す泉のように、中心からピンク色の光があふれだし。

明晰さと共に内なるあたたかさが生まれ。

宇宙と一体となって、人々を目覚めさせた意識へと導いていく。

 

図形を接続ゲートとして多次元の周波数とつながらないかぎり、図形は単なる図形のままである。ようするにパターンを真似たところで、図形と共鳴する言葉を降ろしてこなければ、図形は多次元的な意味をなさないということだ。

 

成熟していない人々による、成熟していない文化において、未来時空から図形を降ろして来たらどうなるか。結果的にどれだけの歪みが生じるか、誤差が生じるか、観察者の視点に立って淡々と観察することだ。

欲望を持った時、これらの図形は平面になる。行為の背後にあるその者の欲望を見ることだ。

そして、誰かのためにとか、誰かの役に立ちたいというのも、欲望の一種であることを覚えておきなさい。

 

現時点では、この図形の背後に流れる「祈り」にも似た周波数が、わかる人にはわかる、わからない人にはわからないかもしれないが、子どもたちと未来の子どもたちが純粋に楽しんでくれたらそれでいい。図形に色を塗ったり、線を引いたり、自分で描いてみたり、整合性のある図形を見て、図形に触れて、図形と戯れて、再びもとの形に戻るための指針になればそれでいい。多次元的な図形は、分子の整列、正しい配列に戻すと信じて。

 

誕生日に観る夢1987

新月のころに見る夢は、透明度が高く、明晰でさえわたっている。満月のころに見る夢は雑多のものが多く、ざわざわしている。予言的な夢やメッセージ性の高い夢は新月のころに見る場合が多く、感情的な夢や俗世界の夢は満月のころに見る場合が多い。

これは三次元の現実世界においても、同じようなパターンを見つけた。

 

誕生日に観る夢は特別である。

 

夢の世界は人類の集合意識であるとともに、夢の世界は宇宙の意識でもある。

 

一人ひとり個々の経験をしているが、意識はひとつにつながっていて、たったひとつの意識があるだけなのだ。

 

私は、人間という経験をしている宇宙意識である。

星の扉から見た2013年のテーマは覚醒である。2013年以降の世界はじょじょに覚醒へと向かうのだろう。

もはや、過去世や過去は関係がない。今この瞬間にどれだけ心を込められるか。目の前の人をまるごと愛すること。今のあの人をまるごと愛すること。たとえ過去に裏切られたことがあったとしても、その存在を受け入れて、赦すこと。何度も同じ物語のパターンにはまることなく、今日初めてあった人のように新鮮な気持ちで一瞬一瞬を過ごそう。

 

達観することは誰にでもできそうだが、超然としていることは難しいのだよ。

別の言い方をすれば、大いなる意識の目線に立って、ハイヤーセルフの目線に立って、未来の自分の目線に立って、Gの目線に立って生きていくこと。

 

わたしにできることは、日々地球に感謝することと、このいのちに感謝すること、そして目覚めた意識で生きていくことくらいだろう。

 

もしチャンスがあるのならば、積極的に挑戦してみるというのが、この三次元での有意義な過ごし方。

 

インドには呼ばれないと行かれないという噂も聞いたことがある。

 

私にできることは、場を共有すること。時間を共有する、空間を共有する、そして時空間を共有すること。自分の振動数をあげてただそこに存在することによって、周りの人々の細胞レベルで振動数をあげていくこと。本や作品は二次的なものなのだろう。