表紙オカルト研究


釈迦が語る宇宙の始まり 小宮光二

 

自分が進化の頂点に達してしまったにもかかわらず、その仕組みを無知な人間たちに教えようとしてくれる善意を「神の心」といいます。仏法的には「慈悲」という言葉であらわします。

「神の心」とは言葉や公式ではあらわせるものではなく、心の状態、境地によってのみ示されるものなのです。

「すべて生きとし生けるものたちを自分と同じ全能の神へと育ててあげよう、この宇宙の永遠の生命の真実を教えてあげようという意志が一つの精神の中に無限の世界を抱える神の姿そのものなのです」

そしてこれを理解し実践し、再びこの世界を無に帰することがすべての終わりでもなり、同時に始まりでもあるのです。これが「悟りの境地」であり、「この宇宙の真実を人々に教えてあげよう、そして自分と同じ神に育ててあげよう」これが紛れもない「神の心」なのです。そしてそれは地上に肉体をもって生まれ如来となり、その教えを広める実践でしかありません。

お釈迦様が弟子を取り教化する生き方とは、まさに「神の心の実践」以外の何物でもないのです。そしてこれが、宇宙が存在する原因であり目的と意味、そしてその姿そのものなのです。

宇宙を貫く唯一の法則、統一場理論とは自らが神の境地へと上り、そこから見た世界像を生きとし生けるすべてのものへと教え、悟りを開かせ如来へと育てる。そして再び、その如来たちが各世界において弟子を育て、空を悟らせ如来とする、その無限の連鎖をつくり、再び全宇宙を平安へと戻す。如来の内面とは、一切を含む眞空そのものなのです。

こうしてこの宇宙を完成させることが同時に始まりでもあり、終わりでもあり、この状態そのものがすべてを語っている神の姿、宇宙そのものなのです。

 

真空に重なり合う向こうの世界に住む如来は、その世界において優れた弟子たちを集め、まずその教育機関としてこの「真空の構造」を教えるためのサンガやアシュラムをつくり始めます。

私たちのこの世界では、お釈迦様がつくったお寺のシステムがそれに当たります。如来の教え方はみな同じで、はじめは簡単なものから始まり徐々に難しくなります。

まず瞑想を指導し、真空と各自の意識を同化させるトレーニング方法を指導します。

そして、弟子たちがグナナ(解脱)を果たし、存在の本質にある真空と、みなの意識が同化したのを確認し、さらに如来に対し帰依する心が確立したとき、この宇宙に自らを通してできうる最大多数のCP対称性の保たれた状態が出来上がります。そこにこの全創造世界の構造を巧みな喩えを使ってまとめた一つの経典の未来永劫の伝道を誓わせるのです。

すると、それを誓った弟子たちの内面の中から真空を通して、その「如来の教えを生まれ変わった世界において未来永劫伝える」という意志がトンネル効果により「ポッ」とこちらの宇宙を生み出すというわけです。そして、その意志が膨張し、宇宙を形成したのが、この私たちの世界というわけです。

 

「法華経」が、アインシュタインやホーキングが求めた万物の一切が解き明かされた統一場理論の書にあたります。いわば、人間が神になり、新しい宇宙を生み出すための指南書といえるものなのです。

そして、一つの世界において、この教えの未来世における伝道を弟子たちに誓わせたのち、如来はこの世を去ることになるのです。この伝道の誓いこそがビッグバンを起こした原因であり、その瞬間、CP対称性が破れ、その弟子たちは自ら新しい宇宙をその世界からトンネル効果によってこちらの世界に生み出し、そこへと生まれ変わっていくのです。

 

アインシュタインは五歳のとき、父親から磁石を見せられ、この宇宙を成り立たせている目に見えない法則の存在に気が付きました。これが菩薩としての人生の始まりです。

この人たちが求めたものとは、宇宙の一切を語りきる統一場理論、すなわち「神の心」です。しかし、神の心とは言葉や方程式として存在するものではなく、その人たちの生き方そのもの、つまり中の真実に気づき、それを求め、自ら悟った宇宙の真実を、自分が生まれたその世界の人々に教えてあげたいという境地、その人生そのものが「神の心」のあらわれなのです。如来によって過去世にこの人たちの心に植え付けられた、この真理探究の意志、伝道の決意とその実践こそが、神の心そのものなのです。

つまり「神の心」とは、自分の外にあるものではなく、その人の心の様態、境地そのもののことなのです。そしてそれこそが、この真空と多次元世界の構造そのもの「神の姿」なのです。ですから公式や哲学を駆使しても神の心を見つけることはできません。それは一つの境地として会得して、無意識のうちに始める菩薩としての人生のことです。

全人類がアインシュタインやホーキングたちのように「ただひたすら神の心を求めるという神の心の持ち主」となった時、この世界は物質次元を超えてしまうのです。

お金が物欲や性欲といったものにまったく無頓着になり、この人たちのようにすべての人がアラカンの状態になってしまったとき、この世界は次元上昇します。物質次元から精神次元へと進化するのです。一つの文明とは、如来による全人類を普通の人からアラカンへ、アラカンから菩薩へ、菩薩から如来へと育てるためのサンガ、つまり学校なのです。

 

エヴェレットの多世界解釈は、相補性の進化したものであり、お釈迦様の使った一念三千と同じ意味をあらわします。また、お釈迦様のつくったこの宇宙の基本的性質をあらわす最も有名な言葉である空即是色はあえて当てはめるならば、アインシュタインのE=mc2、つまり物質とはエネルギーである、さらに踏み込んでいえば物質とは精神である、という意味をあらわします。もちろん人間も物質の一部であり、精神の一部です。

 

 

本来の私はこの宇宙の始まりも終わりも超えたところに存在する時間と空間といった制約すらない永遠の精神であるのだ。それは形や色、変化、言葉、概念といった思考作用では捉えることも創造することもできない存在なのである。