表紙オカルト研究


 1 命を助けられる体験 

○命を助けられる体験 その1
女優 寿美花代さん
宝塚時代、舞台の奈落に落ちてしまったが、亡くなった母が
抱きかかえてそっと降ろしてくれるような感覚がした。
→7メートルの高さのセリから落ちたが、ケガはしなかった。
江原啓之氏のコメント
→エクトプラズム(人体から発せられる霊的物質)で包んで降ろしてくれたため、ケガをしなかった。
(出典:オーラの泉ブログ)


○命を助けられる体験 その2
 四国の海辺の町、夕食の買い物に行くのに自転車をこいでいた。前からダンプカーが来るのを避けて、海岸に降りるために設置された手製の木の階段に前輪を乗り上げてしまった。そのまま体だけ三メートル下に頭から落ちた。自分はこれで死ぬんだと思った瞬間、右足首をひっぱられて体が宙に止まった。とっさに両手をそろえてコンクリートに着き、その逆立ち状態から回転して両足をついた。無傷だった。トラックの運転手があわてて大丈夫かと言いながら下りてきた。足には髪の毛が紐のようになってついていた。大丈夫だというと運転手はそそくさとトラックを出して行ってしまった。ふと自転車の前カゴに入っているカバンから髪の毛が伸びているのが見えた。髪の毛をたどっていくと、私が小さい頃亡くなった祖母が作ってくれたお守りだった。赤いお守りを握りしめたまま私は暗くなるまで泣き続けた。
出典:「隣之怪第四夜」


○命を助けられる体験 その3
私が高校1年のときのことだ。友達の家からの帰り道、大きな橋の手前が急な坂になっている。私はいい調子でその坂を自転車で下っていった。ところがいよいよ橋が近くなってスピードを落とそうとしたがブレーキがきかない。ブレーキが壊れている。橋の歩道は車道とは別になっている。橋の手前ではガードレールによって車道と歩道が分けられている。私は車道を走っていた。歩道には行けない。車道は橋の手前から渋滞していて動いていない。橋の手前までの道路はそれなりの広さがあったから自動車と自転車が並行しても支障なかったが、橋は自動車と自転車が並行できるようなスペースがない。無理だ。しかも橋の手前から橋に入るところにコンクリートの欄干があり、このまま自転車が止まらないとそのコンクリートに激突する。激突したらたぶん死ぬ。自転車から放り出されて車に轢かれるか、最悪な事態としては下の川に投げ出される恐れもある。もうだめだと思った。目をつむってしまったかもしれない。
 ところが、次の瞬間、私は自動車と橋の手すりとのほんのわずかな空間を走っていた。自転車のサドルが渋滞して止まっていた車のどこかをこすった音がした。弁償させられると思ったが、そんなことはどうでもよかった。命が助かったことへの感謝と喜びでいっぱいだったから。いったいどうやって助かったのか。そのとき、確かに自分のではない力が働いた。自転車のサドルが勝手に動いて直角に右折しまたすぐ直角に左折し激突を免れたのだった。それは本当に0.5秒いや0.1秒くらいの一瞬の出来事だった。目に見えない誰かが助けてくれたと感じた。それは間違いのないことだった。「守護霊」というようなことばで呼ぶものかと思う。
 橋を渡りきって自転車を降りて止まった。車をすってしまったので逃げるのはまずいと思ったからだ。案の定、こすられた車が止まり、運転手が降りてきた。運転手が車を点検したがどこにも傷はついていなかった。運転手は不審な顔をしながらそれほど文句も言わずに行ってしまった。
 私は何か笑いのようなものがこみあげてくるのを感じた。いくらでも弁償してやると思っていたから。命が助かったことに比べたら本当にお金などいくらでも出せると思ったから。


【考察】
 霊の存在を示唆する出来事として、目に見えない何ものかに命を助けられる体験がある。私自身の体験も含めていくつかの霊を、いや例を挙げてみた。
 1の例では、江原さんが亡くなったお母さんの霊が助けてくれたのだということを霊視しているから、たぶんそういうことなのだろう。
 2の例では、おばあさんのお守りという証拠があり、おばあさんの霊であろうと思われるが、おばあさんのお守りを通して別の力が働いた可能性もある。
 3の例は私自身の体験であり、絶対に自分の力ではないと確信しているのだが、では誰が助けてくれたのか、それは全くわからない。助けておいて名乗らないところが何とも奥ゆかしいではないか。私の先祖であるとすればやはり私と同じ謙虚な人柄とお見受けする。あるいは自分が鈍感すぎるのか。いずれにせよ、この体験が私をして何か見えないものが確かにあるということを確信させ、妖怪や霊魂、死後の世界などに興味をもつきっかけになったことは間違いない。
 本来ならば職場が変わり読書時間が増えて自分の専門を極める絶好の機会が巡ってきたというのに、私はオカルト関係の本や怪談本ばかり読んでいる。といって、自分の専門とは何かと改めて自問してみると何もないことに気づくのだった。それならいっそのこと、行くところまで行ってみようという気持ちになった。怪談オカルトを気の済むまで追究してやろうと決意したのである。というわけでこれから折に触れてこのオカルトコーナーに私なりの考えをまとめていこうと思う。これはつまり、死をみつめ、生を充実させるためなのである。