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親子の断絶 2009.12.22


  親父が仏像を彫っている。もう半年くらいかかりきりである。
手先が器用で何でも作る。隣保班の所有する『山車』のミニチュアを写真だけ見て作ったのには驚いた。
七福神も既に三種類くらい作ったろうか。
それはいい。
しかし、今日、知り合いの人に電話で話していたことに感じた違和感は決定的であった。
「今ね、仏像を彫ってるんですよ。自分は長生きしようと思っているからね、一年に一体彫っていって、88歳で個展を開く計画をもっているんですよ」
こんなことを話していた。

私の感じた違和感はどこに起因するか。
まず一つは、私にとって仏像は信仰の対象である。個展をひらくために作るものではないということだ。
もちろん、親父だって、仏像は人形とは異なるだろう。台座の蓮の花の意味だって考えながら彫っているのだろう。
しかし、個展を開くために彫っているという言葉にどうしても違和感を感じる。
結果的に個展をひらくのはいい。
しかし、これでは、まるで人に見てもらうために作っているようなものではないか。
仏教には他力本願という考え方もあるから、とにかく念仏を唱えさえすれば極楽往生できるように、仏像を作りさえすれば往生できるという考えもあろう。
しかし、やはり本末転倒であることに変わりない。

もう一つの違和感は、長生きしようと思っているというところだ。
私は長生きしようと思ったことはない。
長く生きることに何か意味があるとは思えない。
生きているうちは無理に死のうとは考えなくなったが、それでも、生きるということにどうしようもない虚無感を抱いていることは昔も今も変わらない。
だから、たとえば、土浦連続殺傷事件の金川被告が「この世界に興味ない」「死にたいから早く死刑にしてくれ」「単につまらない。ゲーム以外にやりたいことはない」
というような言葉にひっかかってしまうのだ。
もちろん共感はしない。
私はこの世界に興味はあるし、やりたいこともある。
だが、こういう思いを抱きながら生きている人間がいることを考えずに、自分とは異質な人間だと切り捨てて、自分の世界に戻ることができないのだ。
生きるということは自分の世界だけで生きることではない。
この金川被告とともに生きることなのだ。
年越し派遣村の人々とともに生きることなのだ。
「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と言った賢治。
そこまで行けるとは思わないが、金川被告は何かの犠牲者であるとしか思えない。
私たちの罪をひとり引き受けているような気がしてならない。
残虐非道な人でなしとして切り捨てる気持ちにはどうしてもなれない。

だから、
「長生きしようと思っている」
こんな言葉が素直にストレートに何の衒いもなく出てくることにとにかく驚くほかはない。
自分だけで思っているのならまだいい。
他人に向かって平気で言える神経がわからない。
たぶん本当に生きていることが楽しいのだろう。
楽しいからできるだけ長く生きたいのだろう。
なぜここまで徹底的に親と子に断絶があるのだろう。
このようなことはもちろん話したことはないし、話そうとも思わない。
話したとしても絶対に理解できないだろう。
同じ家に住んでいて、同じ釜の飯を食っていて、こうまで根本的に違うということになんともいえない眩暈を覚える。