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悟りとは何か
2001年 10月26日 午前2時35分 私は悟りを開きました。  

 悟りとは何か、私は知りません。

 しかし、何かが完璧に変わったというこの感覚は悟りとしか呼びようがありません。昨日まで見ていた景色と今日見ている景色とは全く何の変化もありません。相変わらず生徒はスキあらば自分勝手に傍若無人に無秩序にエントロピーを増大させていく。体罰ができないことを見越してやりたい放題。 

 毎日それと格闘しながら胃を痛くして頭に血をのぼせて下痢に悩んでいたのが昨日までのことだ。今日は同じものをみても身体の変化は何もない。これは一体何なのだ。私はしばらくそれが信じられなかった。何なのかわからなかった。三日ほど過ぎたとき、ふと思った。これはもしかして悟りというものではないかと。もちろん悟りであろうとなかろうとそんな名前はどうでもいいのだ。自分の中に起こったこの劇的な変化をしっかりと書き記しておきたい。    

 それは彼への私なりの答えだった。  

 彼は私のために苦しんでいる。私のために自らの人生を犠牲にして苦しんでいると感じたのだ。そしてまた、彼は私自身なのだ。 なぜ彼は苦しまなければならないのか。それはあまりに不当なこの世界の掟だ。私はその理不尽な掟に反旗をひるがえさなければならないと感じた。そうしなければ彼を救うことはできない。彼はそれを自分で選んだのだから。 私が生まれ変わることで彼の人生をたたえることができる。彼の人生は彼だけの閉じられた世界ではない。彼の人生は私の人生でもある。私の人生は彼の人生でもある。なぜか私はそれが確信できた。だから私が生まれ変わることで彼の人生が変わるはずだ。 

  もともと人生には意味がない。価値の高低もない。自ら選んだという決断があるだけだ。決断の集積がその人の人生だ。どんな人生も自分が選んでいることに変わりはない。必ず選んでいる。彼の選択は社会的には評価されない。仕事をもっていないからだ。しかし、仕事をもっていない者などいくらでもいる。  漱石の「こころ」に出てくる「先生」のように一度も仕事に就かず、毎月の友の墓参りだけで過ぎた一生というものもある。 「わたしはこのようにして生きてきた」それを記憶してくれと「先生」は言う。 それが人生の意味か。 「このようにして生きてきた」の「このように」とは、形としては何も残らない、ただ何十年間ものこころの葛藤だけなのだ。

 「プロジェクトX」に出てくる男たちは、確かに形に残る仕事をこの世に刻み込んでいる。しかし、どんな仕事も百年、千年の後には跡形もない。ホテルニュージャパンの火災で命をかけて救った客がすでに死亡していたように、仕事にはむなしさが伴う。 人生とはそういうものだ。 それならば、彼の戦いも同じではないか。彼は今も戦っている。終わることのない葛藤の中でもがいている。 

 彼はやさしい。彼にとって、他人の悲しみは自分の悲しみであり、他人の怒りは自分のせいである。他人は謎である。他人は得体の知れない謎であり、その謎の前になすすべがない。相手をどかすことなど思いもよらず、自分が遠回りして相手を避けるしかない。そうやって全ての他人を避けているうちに自分の行き先を見失い、立ち止まる。だれもがみな勝手な方向を向いて歩いている。歩いている。歩いていれば安心だ。 

  彼は歩くことをやめた。 自分の歩みが他人の邪魔をしているとさえ感じてしまうから。始めはいちいちよけていたが、よけることは疲れるし、いっそのことじっとしていた方が世の中のためになるとさえ思えてくるのだ。そうやって立ち止まってしまった人がいかにたくさんいることか。 その一方でよけることを知らない者たちも確実にふえている。立ち止まった人達のおかげでスムーズに歩けていることを誰も知ろうとしない。もちろん感謝もしない。 

  私はそれがわかったから、彼に感謝したい。感謝しながら歩いていきたい。感謝を表すためには、私が歩くことだと思った。止まってくれる人は私たちが歩きやすいようにと止まってくれているのだから、一緒にこちらが止まっては何にもならない。道を譲ってもらったら気持ちよく先に通らせてもらわなければならない。 

それが私の答えだ。 

だから私は歩くことにした。 それが私の悟ったことだ。 

私は立ち止まらない。 

ここにあるのはただ立ち止まらないという意志だけだ。 

たとえば、いじめられている人間が、「明日からはもういじめられるのは嫌だ」と決意する。たったそれだけのことだ。どうやったらいじめられないようになるか、そんなことは問題ではなかったのだ。ただ「もういじめられない」と決意しさえすればいいのだ。 その決意を妨げるものがあれば、ただ排除する。そこには何のかけひきもない。最も単純な方法が最も正しい方法なのだ。 みんな生きているようでいて、実は生きていない。ただ虫やカエルのように息をして食べて寝ているだけだ。悟った人間だけが意志をもち、自覚して確かに生きている。 

人は変われる。 そんな言葉にどれだけ傷つきどれだけ劣等感を感じ続けてきたことか。 変われるなんてうそだ。ダンゴムシは一生ダンゴムシで終わるんだ。そう思いこんできた。しかし、「人は変われる」。それは本当だった。表面的には全く変わってはいないが、こころの働きが劇的に変わった。その変化をもう一度くり返せばこういうことだ。 

「できるできない」ではなく、 「するしない」という発想。 「僕は勉強ができない」という言い方は全く意味のない言葉だ。勉強は「する」ものであり、それ以外のことではない。生きるとは普通の動詞であり、可能動詞ではない。生きるか死ぬかしかないのであり、「生きることができ」るという言い方はない。  たとえば仕事のアイデアが生まれたとき、それを「実行できるかできないか」という言い方はない。そういう選択は存在しない。「実行するかしないか」という選択しか存在しない。できないことを選択することはそもそもできないのだから、選択とはすべてできることなのである。   医者になりたいと思ったとき、そこには「なれるかなれないか」という選択はない。「なるかならないか」という選択しかない。選択とは意志の問題だからだ。生きるとは意志の行使であるからだ。 

「色即是空」この世のすべては空であり、私の意志を妨げるものは何も存在しない。空を見て恐れるものは何か。それは私ではない。私には意志しかない。   意志というのは孤独な神の名前だ。