表紙特集記事一覧親父の戦争体験


65年目にして初めて親父の戦争体験を聞く 2010.8.15


 父は65年前の今日、上信電鉄の車掌として下仁田にいた。
何か重要な放送があるというので、社長の家に集められた。ラジオが社長の家にしかなかったからだ。
そこで例の、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・」という放送を聞いたのだ。
しかし、そのあとの放送はよく聞き取れず、何を言っているのかわからない。
無条件降伏だということを誰からともなく聞かされ、解放感を味わったようだ。

その前日には、高崎に空襲があるというので、列車を破壊されないために、高崎駅から山名の方まで列車を移動させていたそうだ。
ところが、移動中にB29が照明弾を落とし、あたり一面昼間のような明るさになる。そこで、移動をやめ、山の陰になったところで待機していたそうだ。幸い、爆撃はなく列車は無事だった。
それが父18歳の時だった。

広島長崎に原爆が落とされたとき、原爆という名前は知らされなかったが、とにかくとんでもない爆弾が落とされ、もうそこには草も木も生えず、人間は住めなくなると言われた。放射能の怖さを言っているのだろうが、実際は見事に復興している。

鉄道に勤めていたため、ある時期には毎日のように出征兵士を送る儀式が駅で行われたという。愛国婦人会とか護国婦人会とかいうのが駅のホームだけでなく、線路の両側まで埋め尽くしていたという。
終戦近くなると、白い箱に収まった遺骨が列車に乗せられて帰ってくることも多くなる。

父は軍に志願したが、結局、兵にとられることはなかった。父の数年先輩までが出征している。本当にぎりぎりの世代だったようだ。

山名に弾薬庫があったわけだが、そこに爆弾を落とされなかったのはなぜか。
父の考えでは、戦後、アメリカ軍がその弾薬をそのまま使用していたところを見ると、あえて避けたのだろうということだ。
つまり、アメリカは勝つことを前提にして、使える物は爆撃しなかったというのだ。
果たしてどうだろうか。
アメリカはその弾薬庫の存在を知らなかったということも考えられる。

いずれにせよ、その弾薬庫は今、自衛隊の弾薬庫として使われている。
先日、暴発した事件があった。
山の中に穴を掘って弾薬を格納してあり、一年に一度新しい弾薬と交換するのだという。
そうしないと、火薬が湿気て使えなくなるのだという。火薬の交換をするのは中国化薬という会社で、かつてはその名のとおり、中国地方にあってたいへん不便だったが、いまはすぐ近くに工場がある。
そんなことまで親父はよく知っていた。