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  資格とは何か または 「無能の人」礼賛


 つげ義春の漫画「無能の人」は竹中直人によって映画化されたので御覧になった方も多いのではないでしょうか。なにはさて、ぼくはあの無能の人が好きです。

 最近の大学入試では特別推薦枠を設けて、例えば英語検定試験の2級以上の人を入学させるところが増えている。一方、企業ではソニーのように採用試験の時に、出身学校を考慮しないところも増え、また学生の方も大学に通いながら専門学校へも通い、何等かの資格を取るというケースが増えている。学歴だけでは差がつかないので、できるだけ多くの資格を取得し、自分の値打ちを高めようということだ。いままでは学歴というのが最も大きな資格であったのだが、いまや能力歴ともいうべきものがそれに取って代わったのだ。

 わたしは、このことについていくつかの点で反対する。まず第一に、先ほど述べたとおり、できるだけ多くの資格を取得し、自分の値打ち(売り値)を高くしようという発想は、自分を商品化することである。自分で自分を物として扱うことである。自分にはこれだけの価値があると宣伝することである。それはとてもいやらしいし、マルクスのいう「人間疎外」という問題そのものである。資格をとろうという人はそのことに気づいていない。そもそも資格というのは人間のある一面を取り出してそれを評価したものに過ぎない。例えばそれは右腕だけを特別に鍛えて、どんな仕事もその右腕だけですまそうとするようなものだ。右腕だけでは不安だから左足も鍛えようとするかもしれない。それでも不安だから右足の親指も鍛えておこうとするかもしれない。英検と簿記とワープロ検定と・・・という具合だ。ちょっと自分の体を遠くから鏡に写して見て御覧よ。おかしな格好になっていないか。たしかに「学歴」は人間の知的な面だけを取り出して、感性や意欲といったものを無視し、頭でっかちの人間を作った。しかしこの「資格社会」というのは「学歴社会」よりもっと異常だと思う。とにかく「うさんくさい」のだ。うまく説明できないが、私はこの「資格」というものにとても「うさんくささ」を感じる。私たちはもっとこういう自分の感覚を信じていい。「あいつは何かうさんくさいぞ」という感覚。「根拠もなく人を疑うな」というかもしれないが、根拠は私の感覚だ。「何かうさんくさい」という感覚、それで充分じゃないか。ひょっとしたらこれは、何の資格も持たない私のコンプレックスの裏返しかもしれない。たしかに私はかつてできるだけ多くの資格を取りたいと思ったことがある。何かを批判したいと思ったらそれを手に入れることが必要だと思ったからだ。例えば学歴を批判したいと思ったら、まず自分が学歴を手に入れる必要があると思った。学歴のない人がいくら学歴を批判しても説得力がないと考えたのだ。しかし今は違う。学歴のない人こそが学歴を批判できる。「書道」の上手下手を本当に判断できるのはわれわれ素人だ。

 「資格」のうさんくささの根拠はどこにあるか。「資格試験」で儲けてる奴がいるということがまず一つある。「英検」は英語検定協会というところが勝手に作った試験だ。受験する人がいなければ全く成り立たないし、そこで与えられる何級という資格だって、世の中が認めなければただの紙切れにすぎない。だから今や、「英検」以外にも講談社でやってる「国連英検」というのもあるし、「TOEIC」(国際コミュニケーション英語能力テスト)や「TOEFL」というのもある。勝手にしてくれと私はいいたい。これは「華道」や「茶道」などと同じじゃないか。家元があって、免状をもらうのにものすごく金がかかる。要するに家元に近い人々だけが儲かるのだ。体のいい「ねずみ講」じゃねえか。いったい「千利休」は表裏千家の免状をもっていたのか?一番の元締めがその免状をもっていないというのはどういうことなんだ。要するに、免状とか、資格とかいうのは、誰かが勝手に金儲けのために作った制度に過ぎないのだ。これがつまり私の「うさんくささ」の根拠の一つだ。

 もう一つ逆の側面から考えてみよう。例えば手塚治虫の「ブラックジャック」は世界的に有名な外科医だが、無免許医である。そうして彼は法外な治療費を請求する。ここに、手塚治虫の痛烈な批判精神がある。資格免許があるから安心で、資格がないからだめだというそんなバカな話しはない。英検一級をもってないと英語を話してはいけないのでしょうか。書道の段級をもってないと字を書いてはいけないのでしょうか。だいたいにおいて、英語の能力なんてちょっと英語の文章を読ませたり、外人と話しをさせてみればその場ですぐわかることじゃないですか。どうして認定証とか免状とかそんな紙切れの方を信じるのですか。なんでわざわざそんな試験を受ける必要があるのですか?英語検定協会を儲けさせるだけだというのがどうしてわからないのでしょうか。本当に能力のある人は資格なんか取りません。評論家の加藤周一さんは国際会議に出席すると前の人とは英語で話し、横の人とはフランス語で話し、後ろの人とはドイツ語で話すという人だが、彼が英検の資格を取ったという話は聞かない。簿記の資格はなくても企業の経理を任されている人はいくらでもいる。また逆に、医師の免許をもっていても一か月に五人もの患者を自殺させたという神奈川県の越川記念病院のようなところもある。

 英語の勉強をしたければ英語の勉強をすればいい。医学の勉強をしたければ医学の勉強をすればいい。医学部に入らなければ医学の勉強をしてはいけないという法律はない。だから当然、大学の医学部を出ていない人の中にも普通の医者よりすぐれた医学の知識をもっている人がいるはずだし、いてもいい。いないとしたら、その方がおかしいのではないか。医学の知識を大学の医学部が独占しているとしたらそれは大きな問題だ。解剖実習などももっと一般人に解放すべきだ。病気になった時、免許をもっている医師にしか診てもらえないというのはなんと不幸なことだろう。資格の有無でその人間を判断するのはとても危険だ。むしろやたら資格を強調する人は要注意だ。もう一度いう。本当に能力のある人は資格など取らない。

 私たちは自分以外のものにはなれない。人生とは「何になるか」ではなく、「どう生きるか」だ。今ここで何を見て、どう考え、どうするかだ。私は何の資格も欲しくないし、取るつもりもない。私は私であるだけで充分だ。

 かつて、私はある生徒から「どうしたら詩人になれるか」と聞かれたことがある。私はただ「詩を書けばいい」と言った。「詩を書く人」が詩人だ。それだけだと今でも思っている。