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しないことによる世界変革  



 ずっと気になっていた表現がある。
 小説の中の人物が口にする「○○するかもしれないし、○○しないかもしれない」あるいは「○○かもしれないし、○○でないかもしれない」という答え方だ。現実の会話ではあまりお目にかかることはない。
 なぜだろう。

J・Dサリンジャー(村上春樹訳)の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」から例をひこう。

例1「お前、今晩どっか出かける?」と彼(ストラドレーター)は尋ねた。
「出かけるかもしれないし、出かけないかもしれない。わからない。なんで?」

例2「お前、何してるんだ?イーライのベッドで寝るつもりじゃないだろうな?」とアックリーは言った。いやはや、たいしたもてなしぶりだよな。
「そうするかもしれないし、しないかもしれない。気にしなくていい」

例3「DBはクリスマスに帰ってくるのかな?」と僕はきいた。
「帰ってくるかもしれないし、こないかもしれないってお母さんは言ってた。成り行き次第なんですって。」

例4「もし今日は学校に行かなくてもいい、一緒にどこかに散歩に行こうよって言ったら、馬鹿な真似はもうよしてくれるのかな?そしてあしたはちゃんと学校に行ってくれるのかな?」
「行くかもしれないし、行かないかもしれない」とフィービーは言った。


 この表現にはどんな意味があるのだろうか。
 最初の例で、もし「出かけるかもしれない」とだけ答えると、出かける可能性の方が出かけない可能性より高くなる。逆に「出かけないかもしれない」とだけ答えると、出かけない可能性の方が高くなる。あくまで可能性は五分五分だということを表現しようとすると、この例のようになるのだろう。 それは単に正確さを期そうとするための表現なのだろうか。どうもそれだけではないような気がする。

 というのは、例1の「外出するかどうか」は一寸先の現実の自分の意志の問題であるのに、何か自分とは関係ない別の出来事として遠くから眺めているような感じがするからだ。どれも、「わからない」とひと言いえばすむことなのに、なぜわざわざ丁寧にこのような表現をとるのか。優柔不断というのとも違う。ここに登場人物の生きる姿勢のようなものが感じられる。

 それは「する」と「しない」との価値観にも関わっているようなのだ。「する」というのはいわばプラスであり、「しない」というのは普通はプラスでもマイナスでもなく、ゼロである。なぜなら「する」ことはこの世界に何らかの変化を加える可能性があるが、「しない」ことでは普通何も変化を生じないからだ。ところが、「するかもしれないし、しないかもしれない」と言われると、「する」ことと「しない」ことが等価となり、いわば「しない」こともプラスの意味を帯びてくるのだ。「しない」ということは表面的にはいままでと変わらないのだからゼロなのだけれど、実は「しない」ことによってその後の世界が大きく変わる可能性があるということだ。

 「する」ことがあたりまえの世界では、「しない」ことの方が大きな意味を持つ。「学校へ行く」というのがその例だ。例4で、主人公の妹は「学校に行かない」といって主人公を困らせる。主人公もテストの答案を白紙で出し、「何も書かない」ことによって退学になる。

 この小説の主人公はいわば「成長しない」ことを選ぶのだ。「大人にならない」「仕事をしない」ことを選ぶ。もしたとえば弁護士になったらどうなるか、

 主人公はこう語る。
 「始終、無実の人の命を救ったり、そんなことをしてるんなら、弁護士でもかまわないよ。ところが弁護士になると、そういうことはやらないんだな。何をやるかというと、お金をもうけたり、ゴルフをしたり、ブリッジをやったり、車を買ったり、マーティニを飲んだり、えらそうなふうをしたり、そんなことをするだけなんだ。それにだよ。かりに人の命を救ったりなんかすることを実際にやったとしてもだ、それが果たして、人の命を本当に救いたくてやったのか、それとも、本当の望みはすばらしい弁護士になることであって、裁判が終わったときに、法廷でみんなから背中をたたかれたり、おめでとうを言われたり、新聞記者やみんなからさ、いやらしい映画にあるだろう、あれが本当は望みだったのか、それがわからないからなあ。自分がインチキでないとどうしてわかる?」

 主人公は大人になることはインチキ野郎になることだと信じている。だから大人になることを拒否しているのだ。大人になると自分がインチキ野郎だという自覚すらなくなってしまうのだ。アルツハイマーの患者が自分がぼけているという自覚がなくなっていくように。

 「しないことによる世界の変革」

 そのような意図がこの「しないかもしれない」という留保表現の中に見えてくる。彼の中では時間が止まっている。だから一寸先も十年先も同じように人間の意志の彼方にある。