表紙特集記事一覧>意味のない偶然の一致


意味のない偶然の一致


 その@2003年1月3日13:15

 朝日新聞35面「大衆化手探りのキャンパス」という記事を読んでいた。その中に、中央学院大学 商学部のプロゼミのことが出ていた。そのゼミでは連立方程式を教えたり、「墓穴を掘る」という語句の読みを教えたりしているということだった。連立方程式というのはたしか中学で習うことではなかったか、とそんなことを思っているとき、テレビでは箱根駅伝を中継していて、ちょうどその中央学院大学商学部の魚崎という選手が走っていた。大学というのはマラソンが走れれば入れるのだと納得したのであった。

そのA 2003年2月16日10:30

 「ザ・ギバー」という作品を読んでいた。そこは、記憶が管理され、感情がコントロールされ、職業も自由に選べない世界だった。9歳になると自転車を買ってもらえることになっていた。そういう決まりであった。p22を読んでいた。主人公の妹が9歳になって自転車を買ってもらったという内容だった。無機質な日常にあって、自転車に乗れるということは幼少時最大の喜びであるように書かれていた。ちょうどその時、ステレオで「クイーン」のアルバムをかけていたのだが、曲名が「BICYCLE RACE」に変わり、自転車のベルの音が響いてきたのでびっくりしたのであった。曲の歌詞「私は自分の自転車に乗りたい」というサビの部分を繰り返していた。
 人は自転車に乗れた喜びを忘れ、自転車を捨て自動車を欲する。自動車の次は・・。しかし、どんな未来社会になっても風を切って走る爽快感だけが最後に残るということを言いたかったのかもしれない。

         
そのB 2003年3月6日7:40

 
このところずっと「クイーン」のアルバムを聴いているので、これまた、その中の一曲に関する偶然の一致である。「TIME」3月10日号の目次を見ていた。「ANOTHERONE BITES THE DUST」というタイトルの記事でアメリカの同時多発テロの首謀者逮捕についての内容が書かれていた。まさにその時、ステレオから流れてきたのは、記事タイトルと同名の曲だった。「まただれかが殺される」と訳されていた。「地獄へみちづれ」とも意訳されていた。憎しみの連鎖は果てがない。「TIME」の編集者が「クイーン」のこの曲を引用したことに間違いはない。
     
そのC 2003年5月11日

 
「エニグマ」のCDを聴きながら、上毛新聞を読んでいると、「エニグマ」という同名のタイトルの映画の紹介記事が出ていた。

そのD 2003年6月2日

 
小林恭二の「父」という小説を読む。作中、作者自身の誕生日について書かれていたのだが、私と全く同じ誕生日だった(歳も同じ)。また、「父」の勤務先が「神戸製鋼」で、私が最初に株を買った会社である。さらにこの小説の解説を書いていたのが「池内紀」で、この前日6月1日に読み終わった本「蟹の横歩き」(ギュンターグラス作)の訳者が同じ「池内紀」であった。

 偶然の一致というのは、気をつけて意識していればこのようにたくさんあるものです。だからどうしたと言われればそれまでですが、つまりこの世界はこういう風に偶然の織物として出来上がっているのです。ということはつまり、でたらめな世界ではなく、何ものかの意志によって出来上がっているということです。それは神の意志とかいうものではなく、自分自身の意志かもしれない。つまり、自分が偶然を引き寄せているということである。偶然の一致とは、この世界は自分の意志でかなりの程度思い通りになるということの証左ではないでしょうか。

 誕生日が同じで年齢も同じということで、僕は断然、小林恭二という作家に興味を持ったのだが、あまりの境遇の違いにとまどっている。彼の家は東大一家で、父も兄も本人も東大である。東大以外は大学ではないという雰囲気の家庭に生まれ育っている。要するに誕生日以外何の共通点もなさそうなのだ。だからして、意味のない偶然の一致と呼ぶのである。しかしまたここでも私の屁理屈癖が出るわけだが、そもそも偶然というのは意味のないものではないだろうか。意味のある偶然は「必然」と呼ばれるのである。あるいは、意味がないわけではなく、今は意味が見えないだけだとも言えるのである。
 
死ぬときにそのすべての偶然の糸(意図)が解き明かされるのであろうか。

意味のない偶然の一致

2007.2.13
 「意味がなければスイングはない」村上春樹著。文藝春秋社刊を読む。
 初版発行年月日は2005年11月25日。これは私の誕生日。これが偶然の一致その1。
 たまたまブルーススプリングスティーンのベストアルバムを聴いてからこの本を開くと、ブルースのことが書いてあった。
 これが偶然の一致その2。

 「意味がなければ偶然はない」とでもしましょうか。
 
 この本の中で、村上さんは日本の歌謡曲はほとんど聴かないと書いてあった。例外として「スガシカオ」について書いていた。  そうすると、たぶん中島みゆきも聴かないのだろうと思う。
 中島みゆきのファンとしてはそれが少し残念である。
 中島みゆきについてはとても評価する人と、そうでない人とに分かれる。
 評価しない人は、中島みゆきの歌は演歌だといって批判する。
 演歌で何がわるいかとも思うが、実のところ、彼女は決して演歌ではない。
 100%創作なのだ。演歌はいわば私小説だが、中島みゆきは私小説とは無縁である。彼女の歌う世界は計算され、細部まで 彫り込まれた世界だ。夜会という世界をみればわかる。
 彼女は私の精神を何度も救ってくれた。私の心に「巣くってくれた」と言ってもいい。
 
 一度、中島みゆきについてはじっくり書きたいと思っている。