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ドーパミンから見えてくること


ドーパミンから見えてくること

2008.1.14
茂木健一郎の「強化学習」の話はよくわかる。
人は困難を克服し、何かができるようになると、脳からドーパミンという快楽物質が放出され、達成感を感じる。
それに味をしめて、またその快感を感じたくてさらに努力して身につけようとすることで学習が強化されていくということだ。
そうやって人類は進歩してきたということだ。

ところが、やっかいなことに、脳は現実と非現実の区別がつかない。
困難なことを克服したときの達成感といっても、それは現実の世界とは限らない。
むしろ、ゲームの世界の方がより達成感を感じる。
一つ一つレベルアップしてゲームをクリアしたときの快感は現実ではなかなか味わえるものではない。
何しろ、世界を救ったり、美女と結ばれたりするのだから。
これは現実の世界のことではないから達成感はうその達成感だと周りがいくら言っても、
本人にとってはそんなことはどうでもいいことだ。
とにかく気持ちがいいのだから。
ドーパミンという快楽物質は現実も非現実も関係なく放出されるのだ。
そうなれば、人はもう現実に出ていく必要性を感じなくなるだろう。

一億総たこつぼの時代がもうすぐそこに来ている。

家に一人で籠もっていてもそれで十分充足していられるのだ。
あとはただ生活費をどうするか
問題はそれだけだ。

仮想現実で充足してしまう恐ろしさ

生徒に卒論を書かせているが、今年の卒論は男女ともに、コンピュータゲームを元にしたものが多かった。
例えば、「モンスターハンター」の世界を小説化したものとか、そういうたぐい。
そういう小説が10編近くあった。女子も多いのに驚いた。しかも枚数が半端じゃない。原稿用紙40枚とか、30枚とか、
今までにない枚数がやたら目立つ。つまり、喜々として書いているのだ。書くことが苦痛ではないようなのだ。
しかし、読む方は苦痛である。そのゲームを知らなければたぶんわからないことが多すぎるせいだろうと思う。
何がおもしろいのかわからないのだ。
しかも、出てくる会話がまた特殊なのだ。
「げっ」とか
「あっ」とか、
「えっ?」とか
「まじ?」とか、
会話というよりも、嘆息のようなつぶやきのような、およそ、あってもなくてもいいようなことばがとても重要な位置に置かれているのだ。
およそ実質のない言葉たち。
地の文との関連のない言葉たち。
そもそも会話文とは何のためにあるのだろうか。
肉声としてその登場人物の性格を最も端的に表すものではないだろうか。
このセリフで何を表そうとしているのか、私にはわからない。
でも、とても重要と考えているようなのだ。重要というよりも、とてもいとおしく感じているようなのだ。
この「あっ」が、ここにないと物語が進行しないのだというような、強い思い入れがあるようなのだ。
とにかく、ゲームをしただけでは満足せず、その世界をもう一度小説として味わい直したいということのようなのだ。