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教員最後の授業 全文 2018.3.20


 学校は勉強が2割で、8割はいろんな出来事、出会いを通して自分を磨くこと、経験することです。人に教わっても学べません。本当に学びたいなら学校をやめて家で自分一人で勉強したほうがいい。出会いこそが本当の勉強だと思います。
 私の場合は、高校時代に目の悪い先生との出会いが一つありました。その先生は目が見えないから、後ろの席の生徒は勝手に授業中に平気で出入りしていました。私はそういう生徒が大嫌いでした。別にいいかっこしたかったわけではない。授業をさぼるなら、怖い先生の授業でも堂々とさぼればいいじゃないですか。怖い先生に対してはおとなしくしていて、弱い先生の前では言いたいことを言い、自分の好きに振る舞う。そういう、人を見て態度を変えるような人間が許せなかったのです。これが私の原点です。私はその目の悪い先生の授業では、かえって一生懸命勉強しました。といっても、先生の授業を聞いて勉強したのではなく、自分で勉強しました。それでは同じじゃないかと思われるかもしれないが、自分はそうは思わない。基本的に授業で何かが身についたという記憶がない。復習が大事というのはつまり、自分でもう一度やり直さないと絶対に理解できないということなのです。
 でも、みんな学校に来ているのはどうしてでしょうか。それは少しでも今の自分よりよくなろうとしているからです。それは間違いないのです。だから、私は無条件でみんなのことを尊敬します。それは尊敬するけれども、勉強は自分がするものだということを忘れないで下さい。誰かに教えてもらうという発想があるかぎり身につくことはありません。 そうして、今より少しでもよくなろうという気持ちがあるとして、じゃあ、どうしたら今よりよくなるのか。よくなるってどういうことなのか。考えてみましょう。
 実は、この世だけで考えていると、何がよいのかわるいのかわからないのです。あの世まで視野を広げないとわからないのです。だって、この世では、勉強ができて、大きな会社に入って、お金をたくさん稼いで、美人の奥さんと結婚して、子どももいい学校に入って、出世してえらくなって、ほめられたい。それがよいことだと考えられています。でも、あの世ではそんなものは何に価値もないのです。だって、頑張って勉強して東大に入るようじゃだめなんですよ。そんな人は東大に入っても全然通用しない。本当に優秀な人は勉強なんてしない。一回本を読めば全部理解できてしまうから、勉強なんてしたことがない。そんな人と勝負しても仕方ないでしょう。そうじゃなくて、人には人それぞれに与えられた使命があって、この世で学ぶことは全員違うんです。
 では、自分の生まれた目的は何か。どうやったら知ることができるでしょうか。それには、まず、あの世の仕組みを知ることから始めましょう。あの世は存在する。人は死んで肉体はなくなっても、魂は永遠に続くということをまず知ること。魂をアストラル体といいます。魂はだから、全部知っています。自分が生まれた意味も目的も知っています。だから、魂に聞けばいいんです。私が生まれた目的は何ですかと。そうすれば答えてくれます。魂は自分の中にあるのだから、自分に聞くしかないんです。外の誰かに聞いても無駄です。ましてや、占い師などに聞いては絶対にだめです。では、どうやって魂に聞くのでしょうか。その方法としては昔から瞑想というものがあります。瞑想とは魂と会話する方法なのです。ふだんの我々は肉体の自分とばかり会話しています。おいしいものが食べたいとか、あいつは嫌な奴だとか、花粉症で目が痒くて何もできないとか。全部肉体との会話です。だから、魂と会話できないのです。肉体を忘れる方法が瞑想なのです。静かな場所でひとり座って肉体を忘れて心の奥に耳を傾けると、必ず答えてくれます。
 瞑想の方法はネットで調べればたくさん出てきますから、自分の好きな方法でやってみてください。明日から自分が変わります。
私はこうして、自分の生まれた目的がだいたいわかってきました。私は教師に向いている人間ではない。じゃあ、なぜ教師になったのか。一番向いていない職業で自分を鍛えるためだったと思います。自分で選らんだという自覚がありません。本が好きで、文学部へ入り、教員ならずっと本を読んでいられるという不純な考えから教員になった。教員試験を受けたら、前の日に読んだ問題集がそっくりそのまま出題されていた。これでは合格できないはずはない。これは自分の力ではない、あっちの世界の助けがあったということです。だから教員になるのは必然だった。しかしだからといって、楽な道ではなかった。話も下手だし、人と関わるのが苦手な人間が教員としてやっていくのは並大抵ではなかった。でも、今はよかったと思っている。苦手を克服することこそが人生の目的だったのだと心から納得している。
 さて、魂に聞くということは、自分の生まれた目的、意味を知るだけではありません。芸術家が作品を生むときには必ず魂に聞いているのです。肉体の自分が創作しているのではありません。魂が創作しているのです。芸術家というのは、肉体の呪縛から離れて、魂の声を聞くことができる人たちだということです。しかし、魂の声を聞くのは本来誰でもできることです。肉体という呪縛からいかに自由になれるか、すべてはそこにかかっている。肉体はおいしいものを食べたがっている。肉体は安楽に流れる。肉体はいい気持ちになりたがっている。肉体はだれかにほめてもらいたい。だれかに認めてもらいたい。でも、肉体はこの世でのことしか担当していない。あの世では価値が逆転するのだ。それを見事に教えてくれるのが宮澤賢治の作品だ。
 「どんぐりと山猫」という童話がある。これはこの世の価値があの世の価値でひっくり返るお話しだ。どんぐりたちは、自分が一番えらいとか、一番かっこいいとか、言い争っている。そこに一郎少年が呼ばれて裁判の判決を下す。「この中で、一番どじで、間抜けで、醜くて、どうしようもない奴が一番えらいのだ」と。どんぐりたちはこれを聞いてみなしーんと静まりかえってしまう。この世の価値があの世の価値で逆転する瞬間だ。それはそうだろう。一番ドジで、間抜けで、醜くて、どうしようもない奴が一番苦労して、悩んで生きているのだから。一番魂を磨いているのだから、あの世では一番えらくなるのだ。
 つまり、賢治はこの話を通して、肉体の価値観で生きるのではなく、あの世の価値観で生きることがほんとうに生きることだと教えているのだ。賢治は最後にこう述べている。
「わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。」と。
「すきとおったほんとうのたべもの」とは魂の食べ物だ。肉体の食べ物ではない。魂が成長するための話を書いたということなのだ。この話は賢治が勝手に想像して書いたものではない。「ほんとうに、かしわばやしの青い夕がたを、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかにふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです」と述べている。
賢治の魂を通してあの世から与えられた物語だったのです。だから人は心を打たれるのです。 最後にもう一度くり返します。どうか、肉体の声ばかり聞かないで、自分の魂の声を聞くようにしてください。魂こそがほんとうのことを知っているのです。肉体はこの世のことしか教えてはくれませんん。魂こそが永遠なのですから。