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自分のものさしを持つということ


ものさしとは自分が何を一番大切だと考えるか、そういう自分の価値観のことである。
 ものさしは一つだけではない。一つだけというのはまずありえない。
 読書体験、人生経験等を通して重層的に作られる。
 私のものさしは「宮沢賢治」「昆虫」「なだいなだ」「金縛り体験」「文学」などだ。
 「宮沢賢治」のものさしが一番大きい。だからデクノボーになろうとして肉を食べない。
 「なだいなだ」のものさしがあるから、常に皮肉な冷めた目でものを見て、みんなが左に行けば自分は右に行く。
 「昆虫」のものさしがあるから、複眼的思考をする。フェロモンを感知する。
 「金縛り体験」があるから、何ものかに生かされていると感じる。自分の意思を越えたものを求める。
 「文学」があるから、人間の全てを肯定する。人間の体験の一回性をそっくりそのまま掛け値なく肯定する。
 
 それでは、「宮沢賢治」はどのようなものさしを持っていたのか。
 まず、法華経がある。日蓮宗がある。そして科学がある。農業がある。
 「農民芸術概論綱要」を引く。
 「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」
 「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」
 「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」
 「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」
 「詩人は苦痛をも享楽する」
 「永遠の未完成これ完成である」
 
 「学者アラムハラドの見た着物」の中で、
 アラムハラドは教え子たちに質問する。
 鳥が歌わずにいられないように、魚が泳がずにいられないように、人間は何をせずにはいられないだろうかと。
 一人が答える。人は歩かずには居られないし、しゃべらずにはいられないと。
 アラムハラドはさらに問う。もっと大事な切実なことはないかと。
 もう一人が答える。人はよいことをせずにはいられないと。
 アラムハラドは泣きそうになる。
 すると、もう一人が何か言いたそうにしている。
 アラムハラドは目敏く問う。
 その子は答える。人は何がよいことか考えずにはいられないと。
 アラムハラドはじっと黙ってその答えをかみしめる。心の中に銀河の風が吹く。
 ここで、「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」という言葉と結びつく。
 「よいこと」と言ったとき世界は止まってしまう。止まったら本当の幸いは遠のいてしまう。
 「永遠の未完成これ完成である」死ぬまで考えずにはいられないのが人間だ。
 
 このようなものさしを持ってしまったら、どんな人生が待っているだろう。
 結婚はできない。世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえないのだから。
 肉を食べることもできない。
 お金儲けもできない。親の儲けた金は貧しい農民に与えるだろう。
 このものさしを世の中に伝えることが賢治の使命となった。
 伝えるには物語が一番である。
 物語は人を無意識の深海に連れて行って無意識から人を変える。
 だから童話を書いた。
 まず人の生命を養う農業を科学的に確立しなければならない。
 だから農学校の先生になり、羅須地人協会を設立して肥料設計をした。

賢治のものさしはこのようにたいへんわかりやすい。全く裏がない。全てが本物である。

私はこの賢治をものさしとした。
そこにうそが入り込む余地があった。
賢治をものさしとするということは賢治のものさしとしたことをそのまま自分のものさしとすることではない。
私は法華経も日蓮宗も知らない。ただ、賢治のような人がいたということを思って泣きそうになるだけだ。
ただ泣くだけで何もしようとしていない。