カルテ開示元年に寄せて PART8

前回のコラムで、日々の診療の記録は大きく三つの要素からなること、三つとは、一、主観的な(subjective)情報、二、客観的な(objctive)情報、三、評価(assessment)と治療計画の三つであること、そして、カルテでは「S)」のように、各語の頭文字に片括弧をつけて見出しの代わりにすること、ここまでをお話ししました。今回から各項目にまつわる細かい話をしていきます。

まずは、主観的な情報「S)」について。主観的などという言葉は、日常生活でそうそう使われるものではありません。だから、意味も曖昧だという方が多いと思います。こういうときは辞書を引いてみるのが一番です。出典は三省堂の「大辞林 第二版」です。

しゅかん-てき ―くわん― 【主観的】

(形動)主観に基づくさま。また、自分だけの見方にとらわれているさま。⇔客観的「―な判断」

さすがは大辞林、なのですが、何だかよくわかりません。主観というのがよくわからないから辞書引いたんだけどなぁ…というわけで、さらに「主観」を引くとこうです。

しゅかん ―くわん 【主観】

(1)対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき、またそのはたらきをなす者。通例、個別的な心理学的自我と同一視されるが、カントの認識論では個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)を考え、これが客観的認識を可能にするとする。→主体
(2)自分ひとりだけの考え。「―だけで言うのは困る」⇔客観〔subject を西(にし)周(あまね)が訳した語〕

うーん…まあこれでわかったことにしましょう。ともかく、「主観」という言葉がカルテに現れるときには、概ね先の(2)の意味です。

さて、カルテでは、書く人と書かれる人が別々となるのが普通です。いうまでもなく、通常は医者が書く人で患者さんが書かれる人です。とすると、少々おかしなことになりますね。つまり、本来患者さんその人にしかわからないから「主観的」な情報を、どうやって第三者である医者が知り得てカルテに書けるのだ、という素朴な疑問です。「自分ひとりだけの考え」を「自分以外の誰か」が書くわけですが、果たしてそんなことができるんでしょうか?

医学の世界では、「患者さんがしゃべったことが患者さんの主観的情報だ」と割り切って、この哲学的な大問題を解決しました。しかし、きわめて安直で浅はかな方便であることはいうまでもなく、いろいろと問題を残しています。

 まず、しゃべったことは、考えたこと・感じたことの一部ではあるでしょうが、それがすべてということはまずないでしょう。しゃべっていることとはまるっきり別のことを一生懸命考えていたりとか、感じていることとは違うことをしゃべったりなど、日常的には実によくあることです。診察室でも推して知るべしです。

さらに、話し言葉には話し言葉の特徴というのがあります。今の日本語は一応「言文一致」ということになっていますけど、話し言葉と文章のような書き言葉とには、現実には相当な隔たりがあります。だから、話し言葉を書き写すのは必ずしも容易ではないし、あとで読み返すにも書き言葉で書かれた普通の文章を読むようにはいきません。

次回はここら辺の事情をお話しましょう。


「くらしと医療」2001年10月号


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