カルテ開示元年に寄せて PART9

今回もS),O),A)のS)、つまり、主観的な情報についての話です。

まずは前回のあらすじです。主観的な情報とは「本来は他人が知りえないはずのもの」です。まともに取り組むともーのすごく大変なので、医学では「しゃべったこと=主観的な情報だ」と割り切っちゃいます。なかなか見事な解決法だと思うのですが、大胆に割り切った分やはりいろいろと問題はあります。問題を考えるキーは二つ、つまり、話したことは考えたこととのすべてではないこと、および、話し言葉と書き言葉とは違うルールにしたがうこと、です。ふぅ、思い出していただけましたか。

今回は、優れた文学作品からここら辺の事情を学びましょう。以下、ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」からの引用です。

―やあ、ブルーム、なにかいいニュースがあるかね? これは今日のかい? ちょっと見せてくれよ。
 また口ひげを剃り落としたな、こいつ! 長い冷たい上唇。若く見せたいんだ。たしかにすっきりしてる。おれより若い。
 バンタム・ライアンズの爪の黒い、黄いろい指が、巻いた新聞紙をひろげた。これも洗う必要がある。ざらざらの垢を落す。おはようございます、あなたはピアス石鹸をお使いになりましたか? ふけが肩に。頭も油をつけないと。
―今日の競馬に出るあのフランス馬のことが読みたいんだ、とバンタム・ライアンズは言った。どこに載ってやがるんだろう?
 ひだのついた新聞紙をがさがさいわせながら、彼は高いカラーの上に顎をつきだした。剃刀まけ。窮屈なカラーをして、ひげがすりきれてしまうぞ。新聞をくれてやって逃げだすほうがよさそうだ。
―君にあげるよ、とミスタ・ブルームは言った。

      ジェイムズ・ジョイス作、丸谷才一他訳「ユリシーズ」河出書房新社より

ここに紹介したのは、とある通りでブルームさんがライアンズさんに話し掛けられたという場面です。一見するとブルームさんの語りが延々と続いていますが、彼が実際に発したのは最後の一言「君にあげるよ」のみ、他はすべて口には出さない独り言です(このような仕方でブルームさんの「意識の流れ」が表現されているわけです)。どうです?先の二つの問題点が見えてきませんか?

まず、実際に話したことは意識のほんの一部分であることについて。

これは、もはや解説の必要はないでしょう。二言話し掛けられて一言返すまでの間にも、考えはさまざまにめぐります。つまり、実際に発せられた言葉だけの記載では、主観的情報としてははなはだ心許ない。自ずと限界ありと知るべしですな。

では、話し言葉と書き言葉のルールの違いはどうでしょうか?

引用部分は、もちろんすべて書かれた文章です。しかし、読者は当然、実際の会話、各人の動作をあらわす文、そしてブルームさんの口には出さない独り言(意識の流れ)を読み分けます。これはまさしく、話し言葉と書き言葉では書き方が違うことの現われです。だからこそ、書かれたものでも両者を区別することができるのです。

そして、話し言葉と書き言葉のルールの違いは、カルテを書く立場にとってはなかなか深刻な問題です。次回はここら辺の事情をお話しましょう。


「くらしと医療」2001年11月号


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