緊急特集 安楽死について

諸事情に鑑み、あえてこのコラムで取り上げてみたいと思います。

医師が「安楽死」を診断することはありません。死亡診断は医師の職務ですが、しかし、その死が安楽死か否かを決めるのは法廷の仕事です。したがって、安楽死を論じるには裁判所の判断、判例を知らなければなりません。幸い、安楽死についてならば、横浜地裁 事件番号 平4(わ)1172号 いわゆる「東海大学安楽死事件」を押さえておけばOKです。ここには例の「安楽死の4要件」をはじめ、安楽死に関するいくつかの判断が示されています。

この判例で安楽死は、「積極的なもの」「間接的なもの」「消極的なもの」に区分されています。詳細は原文をお読みいただくとして、では問題。以下の行為はどの安楽死に相当するでしょうか?1.呼吸管理中の患者さんの人工呼吸器を止めること。2.死期を早める可能性があっても、苦痛緩和のために鎮痛剤や鎮静剤を積極的に使用すること。

答え、1消極的なもの、2間接的なもの。この区別が、医師である私には、いささか奇異に感じられるのです。

たとえ余命幾ばくもないと承知していても、稼動中の人工呼吸器を止めてそれをさらに短くすることに、私はかなり抵抗があります。動いている機械をわざわざ止めるのは、かなり「積極的な」アクションと感じられるのですが、これは単に「治療行為の中止」ということであって、安楽死のために直接・間接的に何かをしたわけではない、つまり「消極的安楽死」である、と考えるのが正しいようです。

一方で、非常に苦痛の強い患者さんに対して、たとえそれが死期を早めてしまうとしても、鎮痛剤や鎮静剤を投与することに私はあまり躊躇しません。ためらわないという意味では、安楽死に荷担しているという感覚には乏しいのですが、「間接的に」何かしたことになります。余命短縮という結果を希望しているか否かとは関係なく、そうなるかもしれない可能性を承知で何らかの行為に及んでいることが、安楽死へのより積極的な関与とみなされるのでしょう(この考え方は、未必の故意《注》と同様です)。

さて、私が安楽死の問題が難しいと思う根拠の一つは、以上で述べたようなこと、つまり治療者側の意識と法の規範とのくい違いです。判例では、間接的安楽死の要件は治療行為の中止とほぼ同じと考えてよいとありますが、その意図するところは、消極的→間接的→直接的の順に重大性が増す(制限がきつくなる)ということでしょう。治療者にとっては抵抗感が少ない行為のほうが、法的には重大視されるわけで、これは私には意外でした。

これまでのこのコラムのトーンでいけば、「ったく、現場のことがまるでわかっちゃいないんだから」となるのですが、今回ばかりはそう能天気なことを言ってられない気がします。生死へのかかわりの特殊性ゆえ「な~んもわかっちゃいない」のは医療関係者のほうかもしれません。

《注》
みひつのこい【未必の故意】《法律》行為者が、罪となる事実の発生を積極的に意図したり希望したりしたわけではないまま、その行為からその事実が起こるかも知れないと思いながら、そうなっても仕方がないと、あえてその危険をおかして行為する心理状態(岩波国語辞典より引用)


「くらしと医療」2002年5月号


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