なぜ私は「xxさんのこと」を書かないか

「私の出会った患者さん」という種類の文章があります。医療関係者が発表する文章では比較的よく見かける、いわば古典的なテーマです。

私は、内科医として日々いろんな患者さんと出会います。その中にはもちろん「話のタネ」になりそうな方もいらっしゃいます。しかし、私は過去にその種の文章を発表したことはありませんし、今後も多分ないでしょう。

医者は患者さんについてさまざまな情報を持っています。それは、診察室で直接知り得たものから、よそから聞いてきたもの、検査・調査して調べたものまでさまざまですが、そのようにして知り得た情報を駆使して、疾病の診断・治療に生かすのが仕事です。

そのような情報を、医者はどこまで自由に使えるんでしょうか? 医師には守秘義務というのがあって、業務上知り得た個人情報の漏洩は禁じられています。しかし、法律の条文を持ち出すまでもなく、私は患者の秘密を守るのは医師の基本的なモラルであり、したがって、患者情報の行使は医療目的に厳しく限定すべきであると考えています。私の基準では、本業を離れた「文筆活動」に私の患者xxさんを登場させることは医の倫理に悖ります。だから、私は「xxさんのこと」は書きません。

私は「患者の権利」を守るために何か特別な活動をしているわけではありません。しかし、ある種の行為を選択的に避けることによって、権利を擁護しているつもりです。「患者の権利章典」の実践にはさまざまな形があるのだと評価いただければ幸いです。


「くらしと医療」1998年1月号


次のを読む
前のを読む


Indexにもどる
トップページにもどる