09-04/19 古典の科学性とその臨床応用 加藤秀郎
〜経絡概論編〜

現代医学の目的は"解明"であり、その理由は"規定"である。

に対して、東洋医学の目的は"把握"であり、その理由は"対応"である。

その把握と対応の代表に"経絡"がある。

では、その経絡とは?

霊枢;経脈第十

第一章
雷公問於黄帝曰: 禁脈之言, 凡刺之理, 經脈為始, 営其所行, 制其度量, 内次五藏, 外別六府, 願盡聞其道.
雷公が黄帝に於いて問いて曰く、「禁脈」(と言う書物が)言うには, 凡(ぼん;一般的)(鍼を)刺す理(ことわり;構成理論)の始めは経脈が為すもので、営む其の所行、制する其の度量は、内に次(つ;留める)ぐは五藏と、外に別する六府。願わくば其の道の盡(じん;ことごとくすべて)を聞きたい。
黄帝曰: 人始生, 先成精, 精成而腦髓生, 骨為幹, 脈為営, 筋為剛, 肉為牆, 皮膚堅而毛髮長, 穀入於胃, 脈道以通, 血氣乃行.
黄帝曰く、人の生れの始まりは、先に精を成し、精を成し而(じ;そうして)して脳髓を生み、骨が幹(=体幹)を為し, 脈が営(えい;漢方の医学で、食べ物から得られたエネルギーによる活力のこと。<類>栄。営気=栄気)を為し、筋が剛を為し、肉が牆(しょう;囲い)を為し、皮膚は堅く而(じ;そうして)して毛髮は長く、胃に於いて穀(こく=滋養成分)が入り、脈道を以って血気の行を通す。
雷公曰: 願卒聞經脈之始生.
雷公曰く、願わくば経脈の始生の卒(そつ;大まかな全体)を聞きたい。
黄帝曰: 經脈者, 所以能決死生, 處百病, 調虚實, 不可不通.
黄帝曰く、経脈とは、所を以って死生を決するを能し、それは百病を處(しょ=処;在るべく所)し、虚実を調ずる。不可不通(取り扱うものが熟達して通じていなければ取り扱いは不可)である。

人が生まれる事の始まりは、
"精"を成す→"脳髓"を生む→"骨から体幹"を為す→脈がその体の"営みを為す"ことで、産後に、
筋の働き{収縮}。肉(皮下脂肪)の働き{温度差や衝撃からの緩衝}。
皮膚の働き{外気に応じる}。毛髮は伸びる。
これらは胃から入った滋養成分が脈道を通じて血気を送るため、このような生理現象が営まれる。
こういった通常生理の変異が発生すれば、経絡上に様相が診られる。そのことが"生死を決する"や"百病を処す"となり、そのまま病への対応から治療部位ともなるため"虚実を調ずる"となる。

この記載から、神経、血管、リンパ管、筋肉、皮膚機能の総称で、滋養と生理発動のインフラ(供給ルートの基本構造)と思われる。
では脈道を血気が行き、死生を決めそれは百病を處(しょ=処;在るべく所)し、虚実を調ずる脈の"営(=栄)"とは?

霊枢;栄氣第十六
黄帝曰: 榮氣之道, 内穀為寶, 穀入於胃, 乃傳之肺, 流溢於中, 布散於外, 精專者, 行於經隧, 常榮無已, 終而復始, 是謂天地之紀.
黄帝曰く、栄気の道とは、内穀(食物を飲食して栄養素となったもの)は寶(=宝;生命の営みにおいて重要なもの)を為し、穀は胃に於いて入り、乃(やむなく=やや時間を置いて連携的に)肺へ傳之(でんこう;伝わり行く)す。中に於いては流溢(りゅういつ;流れ込んでいっぱいになる)し、外に於いては布散(ふさん;広く行き渡る)する。精專(せいせん;純粋な滋養機能)なるは、経を隧(ずい;貫く道筋)するに於いて行き、, 常に栄は已む無きて、終りまた始まりへと復(ふたた)ぶは、是れ天地(自然に成る)の紀(き;物事の順序)を謂う。

穀  布散(ふさん;広く行き渡る。そして消費する)
↓  ↑(全身へ)
胃 精專(せいせん;純粋な滋養機能)は、経を隧(ずい;貫く道筋)して行く。
↓ ↑
肺 →(五臓へ)流溢(りゅういつ;流れ込んでいっぱいになるー栄養素、人為的体質的経験)

胃から栄養を取り込んで活動源とするが、栄養素だけではなく活動の内容や環境からの獲得もふくまれ、必要状況に応じての使用や消費や破損があり、また獲得があり修復がある。この生体活動の繰り返しを「栄は已む無きて、終りまた始まりへと復ぶ。是れを天地の紀」と言っている。
この"栄"の細かい働きは?

霊枢;衛氣第五十二
第一章
黄帝曰: 五藏者, 所以藏精神魂魄者也. 六府者, 所以受水穀而化行物者也. 其氣内干五藏, 而外絡支節.
黄帝曰く五藏とは、精神魂魄を蔵するが所以(ゆえん;いわれ)なり。六府とは、水穀を化して行く物が受するを所以(ゆえん;いわれ)なり。其の気(水穀を化して行く物から得た滋養)が内には五蔵へと干(かん;=染み入る。五臓に染み入ると言う事で、全生理作用へと源化)し、また外は支節へ絡(らく=つながる。様々な生理作用の連携により骨格運動や感覚器の働きを起こす)す。
「五臓とは"精神魂魄を蔵する"もの」「六腑とは"水穀が変化しながら通る所"」
この変化の時に生じた滋養作用が五臓へと入り全生理作用と人身活動を営むエネルギーとなるため、五臓から全身へとの供給時に活動エネルギーが動作命令と修復機能を含み、骨格運動や感覚器の働きを起こす。
ではなぜ五臓からの供給で全身作用が起こるのか?〜衛気の働きのため〜
それが次↓
其浮氣之不循經者, 為衛氣. 其精氣之行於經者, 為栄氣 .
其の浮気(現象が表面化し他覚的に確認できる状態)の経に不循(ふじゅん;経の流れとは別に独自の働きを表だって起こすもの)するは衛気を為す。其の精気(滋養と生理作用の純化した働き)の経に於いて行くは栄気を為す。
陰陽相隨, 外内相貫, 如環之無端, 亭亭淳淳乎, 孰能窮之.
陰陽は相隨(そうずい;相伴って従う。栄衛の互いの働きがその時の在りようで)し、外内に相貫(そうかん;体の内の五臓から外の皮膚までその滋養と生理作用は一貫)し、環の端が無きが如く(のその流れの中の)亭亭(ていてい;流れの留まる)かあるいは淳淳(しゅんしゅん;ありのまま)(か)?孰(じゅく;どちらかひとつ)して能(栄衛のその時折の働き)を窮(きゅう;つきつめて)して之(ゆく=行く)く。
然其分別陰陽, 皆有標本虚實所離之處.
然るに其の陰陽(働きの在りよう)の分別は、皆が標本虚実に離れる所が有りて處(しょ=処;在るべく所)に之(行く)く。
「経を循環していない浮気が衛気となる」とあります。
浮気とは現象が表立ったものという意味ですが、表立たずに内成し経内を巡るのが栄気。
衛気、栄気それぞれが状況対応するため陰陽変化が生じる。衛気、栄気それぞれの陰陽変化が相乗して内に外にと一貫して巡る。
経内を行く五臓からの指令や栄養が"栄気"であり、各所の筋や皮膚、感覚器などの実働現象が"衛気"となり、また実働した事により情報を獲得するのも"衛気"であり、受けて五臓へと戻すのが"栄気"である。またその情報を受けた五臓が、対応指令と栄養を"栄気"にのせて各所に送りそれが"衛気"となって働く。
その時の栄衛の働きの有り様は、各経の標の経穴と本の経穴の虚実の離れ具合でわかる。
能別陰陽十二經者, 知病之所生. 候虚實之所在者, 能得病之高下.
陰陽十二経に能(栄衛のその時折の働き)を別けたるは、病の所生を知る。虚実の所在を候(こう=兆し)するは、病の高下(こうげ;病んだ場所やその度合)を得るを能す(診る事ができる)
知六府之氣街者, 能知解結契紹於門戸. 能知虚実堅軟者, 知補寫之所在. 能知六經標本者, 可以無惑於天下.
六府の気街(六腑に対しての生理作用の集約)を知るは、門戸に於いての解結契紹の能(戸の開閉の具合や出入り口としての機能のあり方)を知る。虚実堅軟を知る能は、補寫の所在を知る。六経の標本を知る能は、天下(環境中の全作用の影響下)に於いて無惑(むわく;惑う事のない)を以って可。
「陰陽十二経に能を別け」とは経を線ではなく面で考えるのですが、そのうえで各十二経の現象を区別するという意味です。そのことで病の原因や状態の把握ができる。
六腑の生理状態は戸のある出入り口に例えて考える。
出入り口としての通行性や戸の開閉時の緩さ渋さの対応のように「虚実堅軟への補寫」の在り所がわかる。まずは六腑に対応していると言われる六経の標本の状態を知る事で、診断条件の取捨選択に迷う事が無くなる。(霊枢;衛氣第五十二はこの後、各経の標本の経穴の記載が続く)
これら霊枢の内容が難経へと受け継ぐ。
難経;二十三難曰.
經脉十二.絡脉十五.何始何窮也.
経脈の十二、絡脈の十五、何に始まり何に窮(きゅう;突き当たりのお終い)か。
然.經脉者.行血氣通陰陽.以榮於身者也.其始從中焦.
然るに経脈は、行くは血気にて通るは陰陽。以って身には於いて栄するなり。其の始めに従うは中焦。
注手太陰陽明.陽明注足陽明太陰.太陰注手少陰太陽.太陽注足太陽少陰.少陰注手心主少陽.少陽注足少陽厥陰.厥陰復還注手太陰.
手の太陰と陽明に注ぐ。陽明は足の陽明と太陰に注ぐ。太陰は手の少陰と太陽に注ぐ。
太陽は足の太陽と少陰に注ぐ。少陰は手の心主と少陽に注ぐ。少陽は足の少陽と厥陰に注ぐ。
厥陰に復(ふたた)び還して手の太陰に注ぐ。
別絡十五.皆因其原.如環無端.轉相漑灌.朝於寸口人迎.以處百病.而決死生也.
別絡の十五、其の原は皆が因する。環の端が無きが如く、転して相し漑灌(がいかん;水が注ぎ込んで常にいっぱいになる)す。寸口-人迎に於いて朝(ちょう;向かい、合い入れる)す。以って百病を處(しょ=処;在るべく所)し、而(じ;また)死生を決するなり。
血気は経を行きながら陰陽状態を起こしていく。それを全身の経では"栄"となっている。その全身では"栄"となる始めが"中焦"。その"栄"の働きの作用点が別絡の十五で常に循る。難経では寸口-人迎で百病を所在し生死を決める。
難経;三十難曰.
榮氣之行.常與衞氣相隨不.
栄気の行くは常に衞気と相いて與(よ=与;力をあわせる)するか隨を不すか(従わないか)
然.經言.人受氣於穀.穀入於胃.乃傳與五藏六府.五藏六府.皆受於氣.其清者爲榮.濁者爲衞.榮行脉中.衞行脉外.榮周不息.五十而復大會.陰陽相貫.如環之無端.故知榮衞相隨也.
然るに経に言う、人は穀に於いて気を受け、穀は胃に於いて入り、乃(やむなく=やや時間を置いて連携的に)五藏六府に於(受け身の意)いて伝わる。五藏六府は皆、気を於いて受け、其の清なるは栄を為し、濁なるは衞を為す。栄は脈中を行き、衞は脈外を行く。栄は不息(ふそく=休;休まず)して周る。五十(五行のそれぞれに五行で5×5=25。その陰陽で2×25=50。)にて而(じ;また)(ふたた)び大会(5×5×2=50の様な複雑多様な生理現象を起こさせながらも必ず状況対応は同じ)す。陰陽は相貫(そうかん;体の内の五臓から外の皮膚までその滋養と生理作用は一貫)し、環の端が無きが如く。故に知るは栄衞の相隨(そうずい;相伴って従う。栄衛の互いの働きがその時の在りように応じている様)なり。

五藏六府を経由して、清は栄を濁は衞を為す。栄は脈中を衞は脈外を行くが、栄は休まず周る。
清は軽く動きやすく動きやすく濁らない。そのため栄は休まず周る。濁した衛は現象として現れるものだから脈外でその働きをする。行くとは働きを意味する。
その働きは各五行がそれぞれに五行反応を起こし、さらにそれらに陰陽変化があるほどの多彩な対応があるが、それでも必ず対応の規則性はある。大会とは"法則性の合致"である。

大本となる素問の記載を見る。

素問; 經絡論篇第五十七
黄帝問曰: 夫絡脈之見也, 其五色各異, 青黄赤白黒不同, 其故何也.
黄帝が問いて曰く、夫(ふ=ところで;新しい話題を出すことを知らせるため、文頭につけることば)絡脈の見てみた。其の五色が各に異なる。青黄赤白黒が不同。其の故(ゆえ=原因)は何か
岐伯對曰: 經有常色, 而絡無常變也.

岐伯が對(たい=対)して曰く、経には常に色が有りて、而(じ;また)絡は常に変わるため無きなり。
黄帝曰: 經之常色何如.

黄帝が曰く、経の常の色とは何か。
岐伯曰: 心赤, 肺白, 肝青, 脾黄, 腎黒, 皆亦應其經脈之色也.

岐伯が曰く、心は赤、肺は白、肝は青、脾は黄、腎は黒、皆が亦(また)色の脈は其の経が応ずるなり。
黄帝曰: 絡之陰陽, 亦應其經乎.

黄帝が曰く、絡の陰陽も亦(また)其の経に応ずるのか。
岐伯曰: 陰絡之色應其經, 陽絡之色變無常, 隨四時,而行也. 寒多則凝泣, 凝泣則青黒, 熱多則, 則黄赤, 此皆常色, 謂之無病,. 五色具見者, 謂之寒熱.

岐伯が曰く、陰絡の色は其の経に応じ、陽絡色は変化があって常では無く、四時に隨して行くなり。寒が多ければ則ち凝泣し、凝泣は則ち青、黒,。熱が多ければ則ち(たくだく;ダクダクと流れてしまう)(たくだく;ダクダクと流れてしまう)則ち黄、赤。

此れ皆が常の色、謂えば無病。五色を具(ぐ;共に)見るは、謂えば寒熱。
黄帝曰: 善.

黄帝が曰く、善。

経は体表に色を起こさせる機能を内包している。しかし実際の発色は絡が起こす。絡の発色が見る時に違うのは、季節に対応するその身体状況と相まって起こるから。絡の陰変化は経が持つ色を出し、陽の変化は季節との対応で色を出す。寒反応が多ければ苦しく凝り固まったように青や黒を、熱反応が多ければ川がダクダクと素早く流れるような過反応で黄や赤。
しかしこれらは通常反応であり病とは言えない。経の反応機能の亢進もしくは衰退の範囲。

色の発現というのは先天機能を例えている。それが経の存在そのものも含めて内包されていると考えられる。現象として起きればそこは"絡"である。絡とは横道を意味するが、経と経をつなぐ横道ではなく経と体表をつないで現象を表現させるための横道とその発動点を意味している。
季節への対応で、正常な発色であれば病ではない。この病とは陰陽旺象大論で言う已病=五臓の損傷であり、病ではないため未病を示す。未病状態の様相は寒熱である。
〈この未病に対する治療を難経六十九難では"不虚不実"としている〉

経=栄、絡=衛。と、考えても良いのではないかと思われる。働きの場所が"経絡"。働きの名前が"栄衛"。

栄は五臓からの指令と栄養が経を通じて全身に分布されるものですが、五臓から発生して経に乗るまでが"血"
乗ってからが"栄"。経と絡を行き来する要素が"気"。絡の発動現象が"衛"。これが「衛気栄血」。

気血が脈中を行くとした時の、五臓から出て循っているものが"栄"。現象が"衛"。これが「気血栄衛」。

不虚不実の治療は、

‘経が自ら病を生じる’とは、生体が内外環境の変化への対応を上手く行えなかったと考えます。
‘対応がうまく行えない’とは、ホメオスタシスの維持は出来ても変化対応のための生体機能のコントロールに若干のミスがあり、機能の上げ過ぎを「熱」、下げ過ぎを「寒」といい、対応対象が「衛・気・榮・血」となります。そのうえで治療のための病傷状態を区別します。
ただし情報整理のため 衛気=気、榮血=血 つまり気か血かに分けます。
そのための診察は「気血のどちらかが寒か熱」の場合とそうでない場合(「気も血も寒か熱」「腑病」「一臓損傷」)に分ける事から始めます。
この区別の診断を脈で診ます。脈は最も下がったところから押し上がってきて、最も上がったところから引き下がり、やや間があってまた押し上がるという繰返しをします。
《押し上りに特徴》が診られれば“緩か急”の脈で、「気血のどちらかが寒か熱」。
《引き下がりに特徴》が診られれば“滑か渋”の脈で、「気も血も寒か熱」。
《脈と脈の間に特徴》が診られれば“遅か数”の脈で、数は「腑病」。遅は「臓病」。

気血のどちらかが寒か熱〜緩急の脈〜

状態を知る。
押し上りで、
急な感じ
‘急脈’
緩い感じ
‘緩脈’
原因を知る。
押し上り前半の上り始めた所に特徴があれば ‘血(地)’=沈めて診た脈 下を見に行く)。
押し上り後半の上がりきる手前に特徴があれば‘気(天)’=浮かせて診た脈(上を見に行く)。
この緩か急の脈により気血のどちらかが寒か熱の状態と診断できます。

緩急の脈状で「気血のどちらかが寒か熱」を知り、浮沈によって「原因と治療点」を知る。
脈で緩急の診断できたら次は指を少し沈めて診る(下を見に行く)。
沈めた時に、《太くなる》様であれば 『足の厥陰経』。(余剰栄養の燃焼)
      《細くなる》様であれば『足の太陰経』。(不足栄養の追加)
    《あまり変化がない》ならば『足の少陰経』。(先天機能の活用)

に対して、浮かせて診た(上を見に行く)時に脈状が
    《よりはっきりする》様であれば『手の厥陰』。(過反応の鎮静)
     《消えてしまう》様であれば『手の太陰』。(生体反応の促進)
を選経し、治療ポイントとする。

浮かせても沈めても特徴が解りづらい場合は、寒熱の治療ではなくなる。
               そのため手の少陰という証は建たない。

気も血も寒か熱〜滑渋の脈〜

引き下がりで、
早い感じ
‘滑脈’
で、
気熱血寒
遅い感じ
‘渋脈’
気寒血熱
これは気と血の生体動作が、逆の機能状態にあります。
四十九難に言う正経自病の可能性を考え『他の邪に中たらざるなり』を含めて、
中ざるとも「正邪の影響での経の病」と考えます。
状態は‘気熱血寒’か‘気寒血熱’ですが、
原因の診断と治療点の選経は十三難を参照します。
  • 尺膚と脈の滑渋の一致をチェック 〜不一致は別考察〜
  • 各経絡を撫でながら、滑渋の脈の変化をチェック
  • もしくは切脈する指腹に当たる脈の感触と、上下するストロークの形をチェック
  • 色の望、脈や尺膚の切、臭いの聞、味の問の四診の一致性のチェック
  • 弦で急
    浮大で散
    中緩で大
    浮渋で短
    沈濡で滑
    切脈する指腹に当たる脈の感触とは
    木は、指に当たる脈の感触がやや鋭利
    火は、やや太みがあって指に脈が当たった時に弾力がある
    土は、火の時ほど指に当たってこなく、弾力と言うより緩衝的に拡がる
    金は、指に当たる脈の感触がやや軽く、押し上がる途中が解りづらい
    水は、やや圧力を持って切診し、押し初めは明瞭だが上下の幅が短い
    木は足の厥陰肝経、火は手の厥陰心包経、土は足の太陰脾経、金は手の太陰肺経、水は足の少陰腎経の、
    脈を診ながら各五兪穴に触れて、良好な反応点に施術。