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 群馬交響楽団の演奏を聴いて ('97年度)


第346回定期演奏会(97年5月17日)
  <指揮>高関健
    オネゲル/交響的楽章<パシフィック231>
    ビゼー/交響曲第1番 ハ長調
    ミヨー/バレー音楽<屋根の上の牛> 作品58
    イベール/室内管弦楽のためのディベルティメント

 高関健音楽監督指揮の、今年度第1回の定期演奏会。
 最初の曲がオネゲルとは、なかなかすごい選曲だ。交響的楽章「パシフィック231」は、機関車の動く様をオーケストラで表現したものだが、その重厚なサウンドと躍動感が微妙にからみあって、独特の世界を作っていた。群響のオーケストラも、今年の定演の始動をはじめたが、機関車のようにどんどんヴォルテージをあげてほしい。
 ミヨーの「屋根の上の牛」は、高関監督のリズム感が発揮されて、楽しかった。高関監督は今回もよく踊っていた。
 最後のイベールは、群響精鋭の小編成による充実した演奏。精妙なアンサンブルが聴けた。群響のレベルの高さを示してくれてうれしかった。珍しくアンコールがあり、この曲のラストの部分を再度演奏するほどの熱演。
 この日、群響50年史が販売されていたので、買う。これもドラマティックな本だ。今日の定演からも、群響はまさしく「ここに泉あり」だと感じる。これからもこんこんと音楽をあふれさせてほしい。


第347回定期演奏会(97年6月21日)
  <指揮>秋山和慶
    ショスタコーヴィッチ/交響曲第9番 作品70
    シューベルト/交響曲第8番 ハ長調 D.944<大ハ長調交響曲>

 秋山和慶指揮で、ショスタコーヴィッチの交響曲第9番と、シューベルトの交響曲第8番「グレイト」という取り合わせ。
 秋山氏の指揮のもと、群響はしっかりとまとまって、安定感のある演奏であった。秋山氏の風格ある指揮で、じっくり音楽にひたることができた。
 特に関心したのは、シューベルトの第1楽章から第2楽章にかけて。緊張感をもって堂々と歩んでおり、素晴らしい演奏。心底感動した。ヨーロッパの由緒正しいオーケストラの響きを感じた。
 ショスタコービッチでは、ファゴットの水谷さんの音色が光っていた。


七夕コンサート(97年7月7日7時)
  <指揮>三河 正典 <司会>永井 邦子
   「セヴィリアの理髪師」序曲    ロッシーニ
   「水上の音楽」より(ハーティー版)ヘンデル
   交響曲第5番「運命」       ベートーヴェン
                 ほか

 上の2つの感想を見ると、ちょーえらそうだよね。「音×の友」にのせるわけでもないのに、シロートのくせしてきどった文章で、チョベリバじゃん。なんか、もっとこう、ノリのある書き方できないのー
 あ、そうそう、この前の七夕でさ、福田さん、ちょーかっこよかったよね。ふだん隅っこでぼこぼこはたいてるけどー、はなすとなかなかいいじゃん。シブいよね。
 ねえねえ、あと、あのじゃじゃじゃーんってちょー有名な曲がさあ、最後もっとズンズン進んでほしいわけー。あれじゃトリップできないよねー。ベートちゃんだから、最後、いけいけってならないと。  でもさー、あのアンコールの、なんとか舞曲ってゆうの、あれなんとかならなかったわけ。出だしの、ちゃーららーららーらららーはいいんだけどー、ゆっくりになって急にはやくなるとこがあるじゃん。ほら、あの、ずーちゃん、ずーちゃん、たたららたららの部分がさー、なんかこーね、イマイチ。「ずーーーーーちゃん」とやたらひっぱったじゃん、あのひっぱりがヤラシイよね。夏だし、もっとスッキリやってもいいよね。あれ何度もやられるとゲロゲロだよね。
 でも、七夕だしー、安かったしー、いろんな曲あってー、マジで楽しめたよ。
 (書いてて気持ち悪くなりました)


第348回定期演奏会(97年7月18日)
  <指揮>高関健 <ピアノ>野原みどり
    メンデルスゾーン/序曲<静かな海と幸福な航海> 作品27
    チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
    エルガー/創作主題による変奏曲 作品36<エニグマ>

 (残念ながら、用事があって行けなかったのでチケットを同僚にあげました。その同僚は家族で行って、とてもいい演奏だったと満足していた様子でした。あの指揮者はいいですねと言っていました。お礼にブーレーズ指揮の「幻想交響曲」のCDをもらい、ラッキーでした。)


第349回定期演奏会(97年9月21日)
  <指揮>高関健 <合唱>群馬交響楽団合唱団
      ブラームス/ハイドンの主題による変奏曲 作品56a
      ブラームス/ドイツ・レクイエム 作品45

 今回は、立場を変えて書くことになる。「ドイツ・レクイエム」に、合唱団の一員として参加したからだ。
 群馬交響楽団はプロだが、合唱団はアマチュアである。この曲1つのために、週1回2時間の練習を9ヶ月にわたって行い、延べにして80時間に及ぶ練習をしてきた。指導は阿部純先生が素晴らしいレッスンをして下さった。音楽の流れだけでなく、歌詞の解釈についても、深く掘り下げて明確に教えてくださった。例えば、第6楽章の初めの方にある
 Denn wir haven hie keine bleibende Stat. (この地上に永遠の都はない)
が各パートで織りなされて歌われる所は、文明が興っては衰退し、砂の中に消えてゆくように表現するのですなど、歌詞の背景を丁寧にかつ豊かな例えで教えて下さり、感銘を受けることも多々あった。歌の内容については、一流の指導を受けたといえる。
 にもかかわらず、自分に関して言えば、とても満足に歌えたとはいえない。自らの経験不足や未熟さもあるのだが、それを除外してもなお、ブラームスの演奏がいかに難しいかをつくづく思い知らされた。
 曲は大変美しく自然に歌える部分が多い。ハーモニーもきれいで、前回のプーランク「スタバト・マーテル」のように他のパートと合わせるのに苦労する場所もそれほどない。しかし、ひとつの音楽を作っていくとなると、ブラームスの曲は俄然たいへんなのだ。
 恥ずかしい話だが、本番では、音階の難しいところや音の強弱に気をとられ、気持ちがなかなか入っていかなかった。歌詞の意味も理解しているはずであったが、楽譜に気をとられると、もうだめである。あ、ここはもっと延ばすべきだとか、この音はもっと高いのではとか、デクレッシェンドが早すぎたなどと考えていては、その曲にのめり込むことはできない。そして、譜面通りに歌ったからといって、「音楽」になるわけではない。その内容を、知性で制御しながら情感を盛り込まなければならないのだろうが、正直なところ、自分は今回到底それが満足にできなかったのだ。
 特に、ブラームスの場合、強烈なメロディーラインは少なく、ひたひたとよせてはかえすようなゆらぎが魅力の曲である。いわば、音の高低よりは、濃淡の表現の幅が必要とされるようにも思う。ともかく、ブラームスの曲は単に楽譜の通りに音を並べただけでは、聴くほうはつまらないことこの上ないのではと思うのである。いったいどう聴いていてくれるのかと、実は冷や汗をかきとおしであった。
 微妙な表現と高い精神性を要求するこの曲は、シロウトながらも大変に緊張した。知人が、親戚のお葬式と同じくらい疲れるといっていたが、全曲歌い通すには、ほんとうにエネルギーがいった。
 そんなわけで、群馬交響楽団の演奏に参加できたことは光栄なのだが、オーケストラの響きをじっくり味わう精神的なゆとりがなかったので、聴いた感想というのが書けなくて申し訳ない。(「ハイドンの主題による変奏曲」も是非聴きたかったのだが、自分たちの出番の前に他の場所で控えていたので、聴けなくて残念だ。)
 ただ、曲が終わった後のセレモニーの中で、美しいソプラノ・ソロを聴かせてくださった菅英三子さんが、今回の演奏についてこのようにおっしゃって下さり、いたく共感を覚えた。

 「今回、この場に一緒にのせて頂いて一番最初に思いましたのは、オーケストラが心のこもった暖かい音を出していらっしゃるということだったんですね。どうしても合唱とかけ離れた器楽的な音を出すオーケストラが割と多い中で、全然そういうことなしに、心のこもった音のオーケストラだということをまず感じました。で、今日ゲネプロを聴かせて頂きましたら、ハイドンの変奏曲の方もやっぱり素晴らしい音で弾いていらして、ああこういうオーケストラと一緒に合唱を歌えるという皆さんがすごく幸せな合唱団だなと思いました。」


第350回定期演奏会(97年10月24日)
  <指揮>マルティン・トゥルノフスキー
    ヴェーバー/歌劇<オベロン>序曲
    マルティヌー/交響曲第4番
    ベートーヴェン/交響曲第5番 ハ短調 作品67

 チェコの指揮者トゥルノフスキーを迎えてのプログラム。
 ヴェーバーの歌劇<オベロン>序曲で、輪郭のはっきりした演奏を求める人であることが感じられた。
 マルティヌーの曲は初めて聴く。群響にとっても演奏するのは初めてではないか。聴く前は、どうせワケのわからない曲だろうと思っていた。しかし、曲が始まるや、意外と雰囲気があって引き込まれた。
 第1楽章の出だしは『牧神の午後への前奏曲』を思わせるような漠々とした音色であり、海辺にいるような、波が寄せてはかえす雰囲気が感じられる。やがてテンポが変化していき、『春の祭典』のようは激しいリズムになる。
 第2楽章はショスタコービッチのような重みをもった華やかさと中間部の民謡風な旋律が対をなしている。
 第3楽章は冒頭が素晴らしい雰囲気で、震えがきた。秋本さんのピアノが彩りを添えていた。
 第4楽章は、勇壮であるが、決して重くならない演奏であり、心地よく聴けた。
 全体として、非常に多彩な曲である。マルティヌーは1890年生まれ1959年没の、近現代の作曲家である。チェコに生まれ、パリに出て、その後アメリカで活躍すると、その経歴の多彩さが反映されているのだろうか。曲もフランスの軽やかさとチェコのやや土着的で郷愁を感じる旋律が違和感なく同居しているようだ。時代としても、第二次世界大戦の激動のさなかで書かれていることの影響があるのだろうか。
 指揮をしたトゥルノフスキーは、この曲でレコード・グランプリを受賞しているとのこと。彼の活躍の舞台はオーストリア、ドイツ、ノルウェー、フランス、イギリス、アメリカ、チェコ、日本とこれまた極めて華やかであり、そのコスモポリタンぶりがこの多彩な曲と同調する点が多かったのだろうか。ともかく、マルティヌーの曲をトゥルノフスキーの指揮で初めて聴けたのは幸運だった。凡庸な指揮者であれば、そうとうハチャメチャに聞こえただろう。
 群響は雰囲気で聴かせるこの曲を見事に作り上げていたように思う。変拍子や微妙なパッセージも多くたいへんだったと思うが、きれいに仕上げていて、レベルの高い演奏だったと思う。

 ベートーヴェンの第5番は、マルティヌーとうってかわって古典中の古典である。しかし、初演当時は、いまでこそ古典であるこの曲も相当前衛的だったろう。輪郭のはっきりした今回の演奏で、それがよく感じられた。聴き様によっては、マルティヌーより新鮮だった。
 第1楽章は早いテンポであっさりと進み、あれ、もう終わったのという感じだった。この曲はこのスタイルがいいような気がする。第1楽章から「ベートーヴェンの精神性じゃ!」とねちっこくやる演奏ばかりが良いわけではないと思う。初め力みすぎると、ろくでもない演奏に陥りやすい気がする。
 一番感動したのが、第2楽章だ。この曲の素晴らしさを教えてもらった。冒頭のヴィオラ、チェロ、コントラバスの響きは、ボルドーのフル・ボディのワインを開けた時のような豊かな気持ちになった。各パートの音色や、旋律が引き継がれていく様子も素晴らしく、いままで聴いた第2楽章の中ではベスト・ワンだった。
 第3楽章、第4楽章こそ、この曲の神髄だと思う。
 群響の感想でなくて申し訳ないが、この曲で一番感動したのは、小澤征爾指揮、ボストン交響楽団の演奏だった。第3楽章で表現された不安や怖れをうち破り、第4楽章で前に進もうとする、ベートーヴェンの強い「克己心」が、ありありと伝わってきたのだ。はっきりと、うち勝とうとする意志が見えてしまったのだ。涙がとめどなく出て、演奏が終わっても流れ続けた。圧倒的な感動であった。
 そのような体験が前にあると、どうしてもこの第3楽章、第4楽章は、少し退いて聴いてしまう。この部分に関しては、技術を越えたもの、技術だけではどうにもならないものがあると知ってしまったからだ。演奏者の、表出しよう乗り越えようという強い意志がない演奏は、たとえ音がどんなに大きかろうと、心の中ではただ静かに過ぎていくのみだから。

 少し余分なことを書いてしまったが、今回の群響のベートーヴェン第5番は、第2楽章が珠玉の演奏だったと思う。これを越える演奏にいつ出会えるか楽しみだ。


第351回定期演奏会(97年11月22日)
   <指揮>豊田耕児  <ピアノ>東誠三
    シューベルト/交響曲第5番 変ロ長調 D.485
    ショパン/ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調 作品21
    メンデルスゾーン/交響曲第5番 ニ短調 作品107<宗教改革>

 (今回、用事があって演奏を聴きにゆけませんでした。申し訳ありません。
  他の方の感想がきけたら、ここに載せたいと思います。
  また、聴いた方がいましたら、(あるいは、演奏する側からの)感想を
  お伝えくださるとありがたいです。
   宛先はこちら  ohtsuka@mail.wind.co.jp  )


第352回定期演奏会(98年1月13日)
   プッチーニ/歌劇<トスカ>演奏会形式
    <指揮>高関健  <副指揮>城谷正博
      トスカ      豊田喜代美
      カヴァラドッシ  福井敬
      スカルピア男爵  福島明也
      アンジェロッティ 谷茂樹
      堂守       近藤均
      スポレッタ    大野光彦
      看守       宇野徹哉
      羊飼い      高橋和馬
      合唱       東京混成合唱団
      合唱指揮     樋本英一
      児童合唱     高崎市立京ヶ島小学校合唱部

 実は、「トスカ」を聴くのは生まれて初めてである。有名な歌の部分を聴くことはあったが、全体を通しての演奏にふれるのは、これが最初であった。
 どうせなら生の演奏を最初に体験するのがいいと思い、CDを買ってあらかじめ聴いたりせず、いきなり今回の定期に望んだのだが、これは間違いだった。今回ばかりは、予習をしておくべきだったと思った。
 ”演奏会形式”とパンフレットなどにあらかじめ記されていたのだが、まあオペラなんだから簡単な振りはつくだろうし、原語じゃ分からない人も多いから字幕の装置くらいあるのでは、なんて考えていたのはハズレ。歌手は楽譜の前で立って歌っているし、服装も男性は黒、豊田さんも派手ではない、品のある青い服。当時の格好で出てくるのではなどと考えた自分が恥ずかしい。これは”演奏会形式”なのだ(正直に言おう、曲が始まって、黒い服でバスが出てきて初めて認識したの)。あくまで主体は音楽なんで、演劇じゃないんだよね。でも、振り振りの演技を期待をした人は、他にもきっといると思う。
 自然、頼りになるのはパンフレットに挟まれていた歌詞対訳なわけで、ほとんどこれと首っ引きであった。しかし、暗い中で細かい字を追いながら聴くのは、けっこうキツイ。見るのを諦めて音楽を聴くことに専念すればよいのかもしれなかったが、やはり初めてのトスカ。意味がわからんでどーすっか。
 最初は説明的なセリフが多くて大変だったが、登場人物が分かり、セリフのリズムにもなれてくると、対訳をささっと目を通してから、歌われているのとリアルタイムにイタリア語が見えてくるようになった。音楽にも集中できるようになった。
 なんて多彩な音楽なんだと思った。次から次へと美しい旋律が溢れてくる。これを作曲するのはたいへんなことであったろう。確かに、分かりやすい物語で、登場人物も愛情深き女性、一途な画家、残忍な役人、ユーモラスな堂守と、類型がはっきりしている。音楽も感情の起伏を明確にあらわしている。分かりやすいことずくめなのだ。でも、分かりやすいことを続けたら、普通は飽きるはずなんだが、これは全然飽きない。それどころか、どんどん引き込まれていく魅力がある。
 これは、一見分かりやすいけれども、実はかなり高度な音楽なのではないかと思うのだ。次から次へと変わる旋律は、それぞれが特色を持っている。単調にならずに、これだけの長さの音楽を作るとは、それだけでも非凡であるが、さらに魅力的な曲想がたいへん多い。あらためて、プッチーニという作曲家の偉大さを知らされた。
 そして、”演奏会形式”であるがために、歌手の身振りや動きが少ない分、純粋に音楽が浮き上がってくる。このホームページのマーラー「大地の歌」の項に書いたが、「大地の歌」のピアノ版が発見され、それによってオーケストラの大きな音に消されず歌と旋律のニュアンスが浮かび上がってきたため、ピアノ版の意義が大きいと初演でピアノを弾いたサバリッシュが言っていた。この”演奏会形式”も、聴衆に歌とオーケストラの関係を明示し、音楽を楽しんでもらうという点で類似があると思った。
 さて、歌詞を追っかけるのがメインになってしまい、細かい所まで聴き込めなかった点はあるが、ドラマティックな群響の演奏はほんとうに良かった。こうまで情景がよく浮かんできて、登場人物の心理が伝わってくるのは、やはり気持ちがこもった演奏だからであろう。歌手とオーケストラの共感があって成り立つ演奏会であり、成功だったと思う。
 次は是非本当の歌劇「トスカ」を見てみたいと強く思った。これは演奏後、多くの人が話していたことである。意欲的にこの曲に取り組んだ群響の演奏で初めて「トスカ」にふれたからこそ、その熱望が生まれたのであろう。


第353回定期演奏会(98年2月28日)
   <指揮>飯守泰次郎 <ヴァイオリン>漆原啓子
    レスピーギ/ボッティチェリの3枚の絵
    ラロ/ヴァイオリン協奏曲 第2番 ニ短調<スペイン交響曲>
    ワーグナー/楽劇<ニーベルングの指環>管弦楽集
            <ラインの黄金>より ヴァルハラ城への神々の入場
            <ヴァルキューレ>より ヴァルキューレの騎行、魔の炎の音楽
            <ジークフリート>より 森のささやき
            <神々の黄昏>より ジークフリートの死と葬送行進曲
                        ブリュンヒルデの自己犠牲  他

 ワーグナーの演奏では定評のある飯守氏の演奏。1996年2月に行われた群響の定期演奏会で、飯守氏は素晴らしいブルックナー7番を聴かせてくれた。今回は前半、イタリアのレスピーギとフランスのラロの曲をどのように演奏するのか楽しみであった。
 「ボッティチェリの3枚の絵」とは、「春」「マギの礼拝」「ヴィーナスの誕生」という名画を指す。絵からインスピレーションを得てというと、ムソルグスキーの「展覧会の絵」が有名であるが、こちらの曲も3部構成の小品ながら、たいへん趣があった。管と弦の響きがよく融和し、打楽器やチェレスタ・ピアノ・ハープが彩りを添え、一足早い春を感じる曲想であった。群響の演奏は、飯守氏の指揮によく応えて豊かな雰囲気を作ってくれた。繊細で情緒にあふれ、素直に音楽にひたることができる好演であった。この指揮者は主にオペラで活躍しているだけあって、情景を伝える音楽作りが本当にうまいと感じた。
 ラロのヴァイオリン協奏曲2番は、スペインの舞踏風リズムをふんだんに用いた、エキゾチックな曲。スペインの名ヴァイオリニスト、サラサーテが初演ということもあって、難しい技巧を要するソロが随所にあるようだ。
 協奏曲で、特にヴァイリンの協奏曲において強く感じるのが、「群馬音楽センター」という演奏会場の問題である。ソリストの漆原啓子さんはかなり力強い演奏をしていたようだが、こちらにそれがはっきりと伝わったとは言い難い。特にこの曲の第1楽章のように、バックが激しく鳴るような時には、ソリストの音はかなりかき消されてしまう。おそらくホールの響きが適正であれば、ソリストの音はもっと伸びやかに伝わり、オーケストラとの掛け合いも楽しめると思うのだが。第1楽章では楽器がまだ暖まっていないせいか、余計にソロの音色が乾いて聞こえ、響きが軽く感じられた。これも会場の温度や湿度等に依存する部分があるのではないか。何でもホールのせいにするのも問題だとは思うが、音楽センターでの演奏だけで、群響の演奏を正当に評価することは酷であろう。また、他から招かれるソリストは、その響きの貧弱さにとまどうことも多く、本番でもそのことが影響するのではと思う。協奏曲という微妙な響きのバランスが要求される場面で、ホールの問題が大きく表面化する。定期演奏会の会場が今の音楽センターでは、奏者も聴者も不幸であろう。そんなことを感じだしたら、漆原さんの超絶技巧にのめり込む間もなく曲が終わってしまった。
 さて、「ニーベルングの指環」である。この楽劇を生でみたことはないが、ハイライトの演奏だけでも、雄大さを感じとることができる。飯守氏の大振りで画然とした指揮は、書家が筆に気迫をこめて一点一画を形にし字を作っていく様に似ていると思った。
 だが、その音量の大きさと音楽の迫力とは裏腹に、静かにすぎてゆく時を感じた。やはりこれは「指環」全体の中で聴くべきだと感じたせいかもしれないし、体調のせいかもしれない。正直、レスピーギを懐かしむ思いもあった。クラシックはそれを受け入れる姿勢で感じ方がだいぶ変わってくる。
 今回、一番印象に残ったのは、あまり知られていないレスピーギの小品であった。肌合いが合ったのかもしれない。


第354回定期演奏会(98年3月21日)
  <指揮>高関健 <アルト>永井和子 <テノール>川上洋司
    モーツァルト/交響曲第39番 変ホ長調 K.543
    マーラー/大地の歌


 今年度最後の群響定演は、古典作品を代表するモーツァルトの交響曲第39番と、近代の精華マーラーの「大地の歌」。
 交響曲第39番は、モーツァルトの伸びやかな筆運びを感じさせる軽快な演奏であった。ベートーヴェンの交響曲第7番を思わせるリズムの明快さと、モーツァルト独自の優美な旋律が解け合い、楽しむことができた。
 ただ、これは個人的なことだが、最近自分の身辺が慌ただしく、今回の演奏も会場に駆け込んで聴いたため、最初の曲目は気分を落ち着かせる効用があった。モーツァルトという安定した響きに身をゆだねれば、自然リラックスできる。そのため、群響の皆様には申し訳ないが、中程の楽章で少々居眠りをしてしまった(すみません)。だが、これは演奏に対するマイナスの評価ではなく、極めて安心して聴けるというプラスの評価と捉えていただければと思う。生のクラシックの響きに包まれながらうとうとするのは、最高の贅沢で、今回も極めて快かった。(音楽雑誌の演奏評を書いている人も、実はけっこう寝てるんじゃないかな)

 さて、マーラー「大地の歌」である。今年度定演最後の曲とあってか、演奏前から奏者も聴者も身構える空気を感じた。この空気があるときは、経験からは、たいてい良い演奏になるはずであった。
 モーツァルトの室内楽的な小編成とうって変わって、舞台は背景の色より黒い色の方が多くなったかのようにメンバーが大勢登場し、コントラバスが最後列に7人並び、ハープが2台あり、パーカッションもかなり活躍しそうな大編成のオーケストラであった。対照的なモーツァルトの曲を前に置いたのは、この曲を印象づけるという指揮者の意図だろうか。
 冒頭、嵐の到来のような激しい旋律が始まるやいなや、鳥肌がたった。作曲技術の粋をこらしたその楽章は、熱っぽい群響の演奏で生き物となり、聴き手に圧倒的な迫力をもってせまってきた。それぞれのパートの音色が素晴らしく、しかも奏でられるのは西洋と東洋が真に融和した、たぐい稀な音楽世界である。マーラーの魅力を存分に感得させていただき、いっそうこの曲が好きになった。
 ただ、そのオーケストレーションがあまりに厚く、音量も大きいため、テノールの声があまり客席にはっきり届かなかったのではと思う。自分が座った席が、ステージに向かってかなり左という位置にもよるのかもしれないが、やはりソリストにとっては酷な楽章である。マーラーのページでも触れたが、「大地の歌」が演奏されるのを、マーラー自身は聴いていない。そのため、オーケストラとソリストの響きのバランスが適正でなく、実際にマーラーが演奏を聴いていれば、かなりスコアに手を入れたであろうと言われている。しかし、テノールの叫びをかき消すほど運命の嵐が吹き荒れているという解釈ができないでもなく、ソリストがその過酷な状況に立ち向かうという楽しみ方もできるのでは。
 中間の楽章もそれぞれ趣があり、楽しませていただいたが、なんといっても、最終楽章の事を書かなければならないだろう。
 最終楽章「告別」が始まる前、会場は不思議な緊張感に満ちていた。この雰囲気こそ、音楽会場の理想である。音が無い状態ですでに音楽が始まっているのだ。
 高関氏の棒が動き、木管が蕭々とした音を奏でホルンが夕べの到来を告げると、会場は黄昏にゆっくりと包まれていくかのようであった。そして、永井和子さんが歌い始めると、夜の訪れに呼応した森羅万象の息づかいが聞こえるかのようであった。その寂とした厳しさに、何度鳥肌が立ったことか。
 告別を友に伝え、永遠の春の広がりを描く最後の楽想は、涙が出るほど美しく表現されていた。歌手とオーケストラの共感がこちらに伝わってきた。この楽章のすばらしさを真に伝える演奏であった。
 演奏が終わった後もしばらく静寂が続き、余韻が残った。西洋音楽であるが、東洋の「間」の感覚を生かしているため、こちらの気持ちにも受け入れやすい素地が作られたのかもしれない。
 技術的にも表現上でもたいへん難しいこの曲を、群響は極めてハイレベルに、いや、レベル云々というのがおこがましい程、真に感動的な演奏を聴かせてくれた。定期演奏会の締めくくりにふさわしい曲目と演奏であった。
 #群響の皆さん、来年度も期待しています。


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