マーラー  Gustav Mahler

                  (1860-1911)


 マーラーの偉大な交響曲。それらの簡素な解説です。



交響曲第1番 ニ長調

 マーラーが28歳の時に作曲した作品。その完成度の高さは、他の作曲家の「第1番」に比して、群を抜いています。この作品にすでに、混沌の魅力、奇怪さ、諦観、そして、その合間合間に表れるこの世のものとは思えない程美しい旋律など、マーラー交響曲の特色が現れています。特に、童謡「フレール・ジャック」をもとにした第3楽章は、格別の魅力があります。第1楽章の朝靄からわきあがるような高揚感も心地よいです。

*** おすすめCD ***
指揮:ブルーノ・ワルター 演奏:コロンビア交響楽団 CD:CBS/SONY
マーラーの一番弟子、ブルーノ・ワルター指揮による名演です。3楽章の表現には、ぞくぞくします。

交響曲第2番 ハ短調

 第2番にして、堂々の大作曲家の風格を備えた交響曲です。第1楽章の緊迫感、第2楽章のえも言えぬ美しさ、第3楽章の優れたスケルツオ、第4楽章の神々しい「原光」のソロ、第5楽章の強烈な咆吼と浄化された救い、どの楽章も、マーラーの魅力がきらめいています。

 私は、この作品で、初めて合唱を経験しました。
 ある冬の日、職場の玄関を友人と出ると、澄んだ空気の中、あまりに星がきれいに輝いていたので、「静かな夜更けにいつもいつも、思い出すのは・・・」と、一節歌ってしまいました。すると、そばにいた友人が、
「大塚さん、いいですね。あ、そうだ、合唱やりませんか。」
と言うのです。うん、うん、「春のうららの隅田川」とか、「あした浜辺をさまよえば」とか、みんなで歌うのも楽しいかもと思い、「やります!」と誘いにのった事が私の人生を変えてしまいました。

 その翌週、高崎市のある集会場に行くと、思ったよりたくさんの人がうじゃうじゃといました。まず、その数に圧倒されました。狭い通路にひしめく多くの人たち、中でも、女の人(おばさんも若い人も)がたくさんいて、若くて経験未熟な私には、なんとなく気後れするものがありました。楽譜を持っていなかったので、受付で買って見て、驚きました。歌詞がなんと外国語ではないか。しかも、フラットが最初に6つもついている。その音符の多さにまたもふらっとする思いでした。
 200人ほどいそうなホールで、発声練習というものを体験しました。大きなリボンをつけたお姉さんがピアノで弾く音階を、皆さんといっしょに「ああああままままま」と声をだすのです。そして、男だけ集まって、「パート練習」というのをしたのですが、アイマイモコとした音階で、しかも自分の音が、他の人の音とぜんぜん合っていないように思え、ちっとも歌った気になりませんでした。でも、なにか皆で偉大なものに挑んでいる!という感じで、気分の高まりを覚えたものです。それが、「群馬交響楽団合唱団」との、最初の出会いでした。

 歌うのは、マーラー交響曲第2番「復活」の第5楽章の、終わりのわずか15分程の合唱部分です。でも難しかった。音階も、表現も。何度も何度も、繰り返して同じところを練習していたように記憶しています。その中で実感しました。ああ、芸術というのは、こうやって手間をかけて創ってゆくものなのかと。
 1991年9月、十束尚宏指揮、群馬交響楽団演奏で、この壮大な曲のほんの万分の一以下でも参加できたことは、この上ない喜びでした。演奏という芸術の創られる過程に身をおいて、はじめてその作品の価値がわかったような気がします。

交響曲第3番 ニ短調

 マーラーは、この曲を作曲していた頃、ハンブルク市立劇場の多忙な指揮者でした。作曲は、夏休みに集中して行われたのです。ある夏、ブルーノ・ワルターが、マーラーに手紙で招かれて、オーストリアの避暑地におもむきました。ワルターは、楽しそうなマーラーに出迎えられました。湖を渡り、その美しさに感嘆しているワルターに、マーラーはこう言いました。

"You don't need to look - I have composed to all this already!"
(from
"GUSTAV MAHLER" by Bruno Walter)

 この長大な曲の中で、マーラーは自然を賛美しています。
 第3番は、他の交響曲に比べて、演奏回数も少なく、話題にも意外とのぼらないようです。それは、やはり”長さ”のためなのでしょうか。第1楽章だけで30分を越え、全体では100分に及ぶ大曲。しかも、とにかく次から次へと旋律が溢れてきます。マーラーの他の曲でもそうなのですが、第3番はほんとに好き放題、自由奔放にやっている感じです。美しい旋律にうっとりしていると、突然金管が吠えたりします。その混沌と極端さがマーラーは好きなのですね。でも、いい旋律が多いだけに、長すぎてそれぞれの印象が薄れてしまうようで、残念な気もします。

 実は、最初にショルティ指揮のCDを聴いたときには、長すぎて第1楽章の終わりまで集中力がもちませんでした。でも、マーラー体験がある程度できてから、1回に1楽章ずつ聴いたら、とおっても楽しめました。鑑賞の仕方としては邪道なのかもしれませんが、長いの苦手な人には、お薦めできる方法です。
 第1楽章のファンファーレは、映画「マーラー」の冒頭で使われました。
 第4楽章のニーチェの「ツァラトゥストラ」の有名な詩からとったアルトの独唱は、森の奥からひたひたと訴えかけられるようで、心が動かされます。この雰囲気はマーラーならではのものです。で、またうっとりとしていると、いきなり「びん!ぽん!」と元気に子供たちの合唱がはじまって、天使がお迎えにきたような雰囲気になってしまう。でも、印象に残る部分です。ちょとだけこの曲のことを知りたいと思ったら、この第5楽章を聴かれるといいでしょう。
 これが、マーラーの「田園」だ。と、言ったら、怒られますか?

交響曲第4番 ト長調

 マーラーの交響曲は、どれも長大で重苦しいという印象をもたれがちですが、この曲は明るく伸びやかな空気にあふれています。”かわいらしい”マーラーです。
 鈴の音がなり、フルートが愛らしい旋律を奏でる第1楽章。シャンシャンという、軽快な始まりで、この曲を好きになった人も多いのでは。あたたまった森の空気、のどかに遊ぶ子供たち。明朗で快活な楽章です。
 第2楽章は、舞踏のリズムですが、皮肉な調子がたっぷりとあります。スコアに「友ハインは演奏する」と記したこともあるようですが、ハインとは死神のことで、「死の舞踏」と解釈されるようです。ただ、聴いた感じでは、陰鬱さは深くなく、のどかな天気に酔った躁状態の死神かなあ、なんて思いました。
 第3楽章は、「平安にみちて」と標される、おだやかで美しい楽章です。映画で、主人公が天国に召される時に流れそうな曲です。ワインを飲んでから聴くと、寝そうです。
 
 この曲は第4楽章が初めに出来ました。マーラーは、この楽章を交響曲第3番のフィナーレ、第7楽章にしようとしたのですが、さしものマーラーもちょっと長いか(第6楽章までで100分に及びますからねえ)と感じたのか、次の第4番のフィナーレにまわしました。そのため、第3番と共通の雰囲気もよく出てきます。
 ソプラノが天国の情景を歌います。ときに速く、ときにゆるやかに、楽しさと至福に満ちた歌です。
 マーラーの入門編に、4番はいいよと言ってくれた友人がいました。たしかに、第4番はマーラーの曲の美しさは味わえますが、逆に毒のような魅力がちょっと乏しいかなと感じたのですが・・・。

交響曲第5番 嬰ハ短調

 マーラー交響曲の節目となる作品です。第2,3,4番と、声楽付きの交響曲を作曲してきたマーラーが、ここで純器楽に戻り、以降5,6,7番と声楽なしの交響曲を生み出します。
 この第5番は、すざまじい音の密度です。トランペットのファンファーレで始まる第1楽章は、葬送行進曲です。「重々しい足取りで」と指示されたこの楽章は、いままでの自己を否定し、無理やり葬り去るかのような、激情がほとばしります。いい演奏では、緊迫感に身をゆだねる快感が味わえます。
 それと対照的に、第2楽章が柔らかい曲かというと、逆にもっと激しい楽章になるのです。実にマーラーです。大指揮者フルトヴェングラーも、この曲をベルリン・フィルと練習して、疲労困憊のあまり指揮棒を落とす程、演奏家にとっても難しい曲です。私は演奏はしませんが、楽譜を追いながらこの楽章を聴いて、最後までいったためしがありません。必ずどこかで迷子になってしまいます。
 第3楽章は、舞踏風の多彩な曲ですが、激情はまだ衰えず吹き荒れています。
 そして、第4楽章アダージェット。この美しさは、なにものにも代え難いものです。マーラーの曲のなかでも、最も美しい楽章のひとつでしょう。あわく靄のかかった情景を描くような弦にハープが時折彩りをそえ、静かに、柔らかくつつみ込まれる曲です。
 この楽章が単独で演奏されることもありますが、このアダージェットは、第5番のこの場所にあってこそ、真価があるのです。それだけ聴いてもきれいですが、現にヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」でもメインテーマになっていますが、ダーバンのコマーシャルにも使われましたが、それだとなんか、美しさが半減してしまうような気がするのです。最初から聴いて初めて、この曲の本当の美しさが味わえると思います。1,2,3楽章とマーラーの自己否定と激情にずっとつき合い、身も心もボロボロにされ、ニヒリスティックな気分になりきったところに、ふわっと天上の音楽が流れる。その10分ほどの間は、なにものにも代え難い時です。最上の美につつまれ、身も心も浄化されます。
 NHK交響楽団の定期演奏会で、スラトキン指揮で聴いたのですが、この曲のすばらしさを教えてくれました。特に、第4楽章の、スコア番号3の部分がすてきでした。第1ヴァイオリンが震えながら下降してきて、そこにハープが入るタイミングが絶妙で、そのあまりの美しさに、鳥肌がたちました。
 第5楽章フィナーレは、俄然勢いがいいのです。マーラーもアルマとの結婚があって、ふっきれたのかなんだか、とても元気です。
 天国と地獄を見てきたような曲です。

交響曲第6番 イ短調

 「悲劇的」という標題がつけられた、マーラーの交響曲の中で、唯一、暗澹と終わる作品です。他の曲は、華々しく終わるか、浄化されたように終わるのですが、この曲は、救いようがないほど暗く終わります。しかし、この時期、マーラーは二人の愛娘に囲まれ、指揮者としての名声も高く、幸福の絶頂期であったはずです。そのような時期に、なぜこのような暗い色調に覆われた曲が書かれたのか……
 第1楽章は、なにかがずんずん迫ってくるような、行進曲風の激しいリズムで始まります。途中、やわらかい曲調のメロディがでてきますが、それは、マーラーが妻アルマにこのように言った部分です。「私はおまえを描こうとした……うまくいったかどうか判らないが、おまえはそれに我慢しなければならない。」
 第2楽章「スケルツォ」は、第1楽章と共通の雰囲気をもった出だしです。途中には、砂の上をよちよち歩く二人の子供の姿を描いた愛らしいテーマが出てきます。このように、第6番は、マーラーの内面を描き出す個人的な曲という側面も持っています。
 第3楽章は、表情豊かな、美しい楽章です。様々な楽器も出てきます。グロッケンシュピール(鉄琴の一種)、カウベル(家畜の首につける鈴)、チェレスタ(鍵盤打楽器)などが、独特の彩りを添えます。
 そして、第4楽章。圧倒的な存在感のある楽章です。まさに悲劇的。運命に向かって何度も何度も立ち向かうのでうが、その度に打ち倒されてしまう曲です。それを「ハンマー」が象徴しています。木製の大きなハンマーが、自らの運命を、打ち砕くのです。それも、1度だけでなく、2度、3度と。最初マーラーは3度叩くように、楽譜に書きましたが、後で3つ目を消去したようです。この楽章は、出だしの雰囲気も 独特ですが、最後に完膚無きまでに叩きのめされる終わり方も強烈です。
 知人が、この楽章のある部分について、面白いたとえをしていました。曰く、男が海で泳いでいたら、人魚が海の底から泡と共に上がってきた。男がその美しさに見とれていると、突然ガツンと岩に叩きつけられられて、ご愁傷様でしたと鐘が鳴る。人生は非情だなあ。
 この時期、マーラーは交響曲第6番、次の第7番と、暗い気分の曲を書き、その上「亡き子をしのぶ歌」 という不吉な題名の曲を作曲しています。妻アルマは、「お願い、不幸を呼ぶようなまねはよしてちょうだい」とマーラーに願いました。しかし、作品が悲劇を先取りするかのように、娘のマリア・アンナは、ジフテリアに猩紅熱を併発し、5歳の誕生日を迎える前に死んでしまいます。
 自らの作品世界に悲劇を描いたマーラーは、その後、現実の世界で過酷な悲劇に直面し、これ以降の作品は、より陰影が深まっていきます。

交響曲第7番 ホ短調

 不思議な作品です。全5楽章からなるのですが、2つの独特の雰囲気を持った「夜曲」が第2楽章と第4楽章に置かれています。そのため、「夜の歌」とも呼ばれます。
 第1楽章は、暗雲のたちこめるような出だしに、テノール・ホルンが不気味な音型を響かせ、管弦楽の乱舞が始まります。合間に現れる、柔らかい曲調も、すぐに闇のうねりに飲み込まれてしまいます。
 第2楽章の「夜曲」では、ホルンが昼の営みの終わり告げ、つるべ落としのように夜が訪れます。夜の生物の息づかいが聞こえてきます。最後の方の、楽しそうな雰囲気がとても印象的です。
 第3楽章は「影のように」と記されたスケルツォです。奇妙な陽気さを含んだワルツです。これも「夜のダンス」のようで、夜曲のひとつと見ることもできます。
 第4楽章は、喜ばしい気分にあふれた、夜の牧歌です。マンドリン、ギターの音色が小粋で、この小品に花を添えています。「パストラーレのひととき」お薦めの楽章。
 ロンド・フィナーレ、なんだ、こりゃ。いきなりキングコングがやって来るかのようなどんどどどんどで始まり、後は音の奔流!弦は切れんばかり、太鼓は破ぶれんばかり、管は喉の血が出てこんとばかりに、もう、やぶれかぶれ。体調が良いときに聴いて下さい。
 緊密な構成美とは、少し離れたこの終楽章と、独特の2つの夜曲。1つの交響曲として、これほど矛盾した顔を持つ作品も珍しく、何度聴いても、不思議なひっかかりが残るのです。それもマーラーの魅力のひとつかも知れません。

*** おすすめCD ***
指揮:小澤征爾 演奏:ボストン交響楽団 CD:フィリップス
 第1楽章から第4楽章まで、小澤さんの優しい眼差しを感じる演奏です。
 第5楽章の最後を、小澤さんは、「上がってくるエスカレータをわざと降りて行き、最後に着地する瞬間の奇妙な感じ」とたとえています。
 このCDには、「亡き子をしのぶ歌」もカップリングされています。ジェシー・ノーマンの深みのある歌唱がいたく感動的です。

交響曲第8番 変ホ長調

 声楽に重きをおいた、壮大な交響曲です。大編成のオーケストラの他に、2組の混声合唱団、1組の児童合唱、ソプラノ3、アルト2,テノール、バリトン、バスの計8人のソリストを要する規模の大きさであり、「千人の交響曲」と呼ばれています。これはマーラー自身の命名ではなく、宣伝用のキャッチフレーズとして興行主がつけたものです。マーラーはこの副題を嫌っていたそうですが、初演の時には実際に千人以上の演奏者がいました。
 曲は第1部と第2部に分かれます。第1部は、「来たれ、創造の主たる聖霊よ」というラテン語の讃歌であり、第2部はゲーテの「ファウスト」の最終場面がドイツ語で歌われます。第1部で地上から天へ呼びかけ、第2部で天へ昇り救われるファウストの霊魂により、地上と天との結びつきを表現しています。
 この曲はマーラーの集大成とも言える作品で、あちこちにいままでの交響曲の片鱗が見え隠れします。更に、次に作曲される「大地の歌」の東洋的な雰囲気も、ところどころに現れています。第1部の詞の作者はマインツ大司教をつとめたマウルスという聖職者だとされており、宗教曲なのですが、マーラーが手がけると敬虔さはあまり見えず、大宇宙の賛美という感じです。
 第2部は長大で、荘厳な自然描写に始まり、ゲーテの句をほぼなぞる形で進み、最後に「神秘の合唱」で、ピアニシモから徐々にクレッシェンドしていき、圧倒的な音響で終わります。この第8番の表現の多彩さと華麗さには、ハリウッドの大スペクタクル映画を見るような印象を受けました。
 この宇宙が大伽藍に鳴り響く交響曲は、マーラーの曲の中でも唯一初演で大成功をおさめた作品です。1910年ミュンヘンにおいて、作曲者自身の指揮による初演に立ち会った3000人の聴衆は熱狂し、演奏後指揮者に向かってなだれ込み、喝采は30分鳴り止まなかったようです。マーラーの絶頂でした。
 これ以降の作品は、マーラーの生前、初演されることはなく、曲調も極度に内省的になってゆきます。
 

大地の歌

 マーラーの交響曲の中でも、最も偉大で重要な作品のひとつです。
 2人のソリストとオーケストラによる曲で、中国の李太白、孟浩然、王維らの漢詩をドイツ語で大意訳したハンス・ベトゲの詩集から選ばれています。全体は次のように6つの楽章から成っています。
 第1楽章 大地の哀愁を歌う酒の歌 (テノール)
 第2楽章 秋に寂しき者      (アルトまたはバリトン)
 第3楽章 青春について      (テノール)
 第4楽章 美について       (アルトまたはバリトン)
 第5楽章 春に酔える者      (テノール)
 第6楽章 告別          (アルトまたはバリトン)

 2人のソリストが、交互に歌う形になっており、時間は、第1楽章から第5楽章までが、それぞれ3分から10分の短いもので、最後の第6楽章<告別>が、いままでの全ての楽章を合わせた時間と同じくらい長く、30分を越えます。
 第1楽章では、「生は暗し、死もまた暗し」という歌詞に象徴されるように、無常観がただよう楽章です。オーケストラは嵐のように鳴り、その激しさは、自然への愛着と死による惜別の思いからくる慟哭のようです。
 第2楽章は孤独な心が粛々と歌われ、静かで感傷的な楽章です。室内楽的に淡々と音楽が進む様は、水墨画を思わせます。
 第3楽章は最も有名な部分です。短い曲ですが、快活さと郷愁を合わせ持った雰囲気が独特で、一度聴いたら忘れられないほど魅力のある旋律です。ウイスキーの宣伝にも使われました。今思うと、酒飲みの歌ですからちょうどぴったりしていると気づきます。
 マーラーは交響曲の真ん中にスケルツォふうの楽章を置き、それを折り返し点にして前後の対称をはかるという作り方をよくしていますが、「大地の歌」もその代表的な例です。第4楽章は、たおやかな旋律と軽快なリズムに乗って岸辺の乙女たちの姿が描かれますが、元の詩のタイトルが「岸辺にて」であったを、マーラーは「美について」と抽象的なタイトルをつけ、重きをおいています。
 第5楽章では、舞踏風のリズムにのって、酒飲みの思いが切々と語られます。
 第6楽章「告別」は、この交響曲の愁眉です。30分以上に及ぶ長い楽章で、前半に夕べの情景が静かに描かれ、後半で友との別離が切々と語られます。最後の"Ewig,ewig"(永遠に、永遠に)の部分は、遙か彼方まで広がる悠久の大地を思わせるようです。

 マーラーは、これを作曲していた頃、人間関係などがうまくいかなくなったウィーン国立歌劇場の音楽監督を辞任し、ニューヨークに招かれて新天地で指揮を始めます。それは、娘を失った地を離れたいという思いもあったでしょう。その上、医師から心臓病の診断も下され、自分の死も強く意識せざるを得なくなります。肉親からの別離、故郷からの別離、この世からの別離と、様々な別離の思いがこの曲を生み出す源泉になっているようです。
 この曲では、歌と音楽が巧みに融合され、さらに西洋と東洋の音楽が融和されています。無常観など、日本人の感覚で理解できる部分が多く、これほど日本人の心に訴える西洋音楽も珍しいと思います。

 最近になって、「大地の歌」のピアノ版が発見されました。その初演が1989年5月15日に、国立音楽大学講堂で行われました。ピアノ:ヴォルフガング・サバリッシュ、テノール:エスタ・ヴィンベルイ、アルト:マリャーナ・リポフシェク。
 私はこれをNHK放送の芸術劇場「二つの大地の歌」で見たのですが、その録画を見返して、この放送の密度の濃さに感嘆しました。先年亡くなられた
柴田南雄さんが解説をなさり、奏者サヴァリッシュの実に正鵠を得たピアノ版の説明があり、バーンスタイン自らの曲の解説とオーケストラのリハーサル風景、イスラエル交響楽団との演奏まであり、ここまで「大地の歌」を立体的に描いた番組はないのではと感じました。
 ピアノ版について、サヴァリッシュはこう解説しています。
「最初ピアノ版を見たときは、懐疑的であった。原曲は色彩に溢れているからだ。しかし、初演のリハーサルをしているうちに、ピアノ版の価値がわかってきた。マーラーは生前大地の歌を聴いていないが、もし聴いていたとしたら、多くの箇所を修正したであろう。オーケストラが、歌に対して厚みがありすぎるからだ。ピアノ版の演奏では、オーケストラ版より、はるかに柔軟に感覚的に反応できる。ピアノ版によって、失われたものが明確になった。この版は、音楽界でひとつの大きな役割を果たすであろう。私がはじめに恐れていたよりも。」

*** おすすめCD ***
指揮:ブルーノ・ワルター 演奏:ニューヨーク・フィルハーモニック
メゾ=ソプラノ:ミルドレット・ミラー テノール:エルンスト・ヘフリガー CD:CBS/SONY
マーラーに「大地の歌」の楽譜を託されたブルーノ・ワルター指揮による演奏。特に素晴らしいのは、最終楽章「告別」です。たおやかな中に厳しさがあり、自然と引き込まれる演奏です。

交響曲第9番 ニ長調

 マーラーが完成させた最後の交響曲第9番は、すべての交響曲の中でも最も美しく深みをたたえた曲ではないでしょうか。
 第1楽章、ホルン、チェロ、ハープの低い音に導かれ、第2ヴァイオリンがおずおずと旋律を奏でる冒頭から、清冽な空気が広がります。「大地の歌」の告別楽章の雰囲気をたたえています。その静謐もやがては咆吼に変わり、複雑な展開をします。最後は静かな終息をむかえ、全体としては巨大にして統一感のある、珠玉の楽章です。
 「のんびりとしたレントラー舞曲のテンポで。いくらか無骨に、そして粗野に」と記された第2楽章は、ハ長調の快活な楽章です。
 第3楽章は「きわめて反抗的に」と記されており、ユーモアと皮肉の入り交じったような早いテンポの曲調で始まります。途中に現れる雲の合間から広がる光のような美しい旋律はマーラーならではのものです。しかし、その美もすぐに皮肉な調子にかき消されてしまいます。まさしく反抗的なマーラーの生き様を反映したかのような楽章です。
 第4楽章は長大で崇高なアダージョです。ブルーノ・ワルターは、この楽章を「青空にとけてゆく白雲」と言っています。
 凛然とした美しさに、純粋に感動できる楽章です。その素晴らしさは、とても言葉では表せません。

 マーラーは、1909年から1910年にかけて第9番を作曲しています。その翌年には細菌に喉を侵され、亡くなります。第9番の作曲の期間は、心臓病の診断が下され、すっかり体力が衰えた身でも、ニューヨークの地での指揮活動は多忙であり、死に対する予感と生に対する肯定がマーラーにとっては極めて身近な時期でした。そのつきつめた思いと高度に洗練された技巧が昇華され、人類の財産ともいえる作品が生み出されたのでしょう。

 1994年10月15日にサントリー・ホールで行われたクラウディオ・アバド指揮、ベルリン・フィルによるマーラー第9番は、たとえようもないほど美しい演奏でした。
 最終楽章の長いアダージョが糸のように細く細く続き、最後の1音が消えた後の静寂。沈黙は、拍手がおこるまで、3分程も続いたように思いましたが、その静寂こそが、至福の時でした。音のない音楽が、これほどの意味を持つとは。
 思い返すたびに、ため息がでる演奏です。

*** おすすめCD ***
指揮:バーンスタイン 演奏:ベルリン・フィル CD:グラモフォン
 1979年10月に、ベルリン芸術週間においてバーンスタインとベルリン・フィルが行った演奏です。この組み合わせは最初で最後でした。マーラーと同じユダヤ人であるバーンスタインの血の通った指揮が、ベルリン・フィルの精緻な技巧と融和した記念すべき名演です。

指揮:バルビローリ 演奏:ベルリン・フィル CD:東芝EMI
暖かみのある演奏です。この極めて精緻な曲を、バルビローリの人格と、ベルリンフィルの共感が細やかに仕上げています。

交響曲第10番 嬰へ長調

 マーラーは1910年に交響曲第10番の作曲に取り組んでいますが、未完のまま世を去りました。しかし、略式総譜としては5楽章全てができており、オーケストレーションとしては第1楽章全体と第3楽章の23小節がなされていました。それらスケッチをもとに、何人かの学者が補筆を試み、何種類かの演奏をCDで聴くことができます。
 その中でもよく演奏されるものが、デリック・クックによる版であり、最新のものはレーモ・マゼッティによる版です。それらはあくまで補筆ですので、マーラーの真の意図を知ることはできません。現に、完成されていた第1楽章以外はマーラーの曲と認めない立場の人も多く、ブルーノ・ワルターもその一人でした。しかし、演奏できる形になり実際耳にできることで、マーラーの目指していた方向の手がかりとはなるでしょうから、補筆の意義はあるでしょう。過大評価はできないまでも、ファンとしては興味を引くところではあります。
 全体は次の5楽章からなっています。
 第1楽章 アダージョ
 第2楽章 スケルツォ
 第3楽章 アレグロ・モデラート
 第4楽章 スケルツォ
 第5楽章 フィナーレ
第1,5楽章がアダージョ楽章であり、第2,4楽章がスケルツォと、第3楽章を中心とした対称的な構成であり、形の上では「大地の歌」や、交響曲第7番との類似が見られます。
 第1楽章は、第9番の終楽章と同じ雰囲気を持っています。途中、不協和音により調性が崩壊したような箇所も出てきて、マーラーが当時の前衛であったことを改めて知らされます。
 第2楽章は、農民の舞踏風の諧謔と優美さが混ざった楽章です。
 マーラーは第3楽章をプルガトリオ(煉獄)と名付けました。4分ほどしかなく、マーラーの交響曲中で最も短い楽章です。歌曲集「子供の不思議な角笛」の「浮き世の生活」のモチーフが現れます。
 この「煉獄」については、いろいろの憶測がなされています。一時はインフェルノ(地獄)と名付けられたこともあります。妻アルマ・マーラーと建築家のグロピウスとの仲がマーラーに知れた時期でもあるようで、マーラーは楽譜のあちこちに私的なメモを書き散らしています。
 第4楽章は、華やかな響きをもった楽章です。様々な曲想が明滅し、過去の曲の断片も散見されます。マーラーによる、次のようなメモが残されています。
 「悪魔が私と踊る
  狂気よ、私を捕らえよ、呪われたものよ!
  私を滅ぼせ、私が自分の存在を忘れてしまうために!」
 この楽章の最後に、太鼓の一打が聴かれます。それを引き継ぐ形で、第5楽章が始まります。その重々しい一打は、交響曲第6番のフィナーレで叩かれるハンマーの響きに似ています。
 この響きについて、
アルマ・マーラーの手記の中では次のように語られています。
『…それはある消防夫の葬式の行列で、彼の英雄的な死は、新聞で読んで私たちも知っていた。…<中略>…
 しばらくして、ふたたび、消音を施したドラムが一つ鳴り、あとはまたしーんと静まりかえった。そして行列は動き出し、すべて終わった。
 これを見ているうちに、私たちは涙がこみ上げてきた。そっとマーラーのほうを見ると、彼も窓から乗り出していて、その顔には涙が流れていた。消音を施したドラムの短い響きの印象は、深くマーラーの心に焼きついて、のちに《第十交響曲》に使われることになる』
この楽譜には、アルマの愛称である"アルムシ!"など、妻に対する愛の叫びが様々に記されています。

 1911年5月18日の真夜中、ウィーンの療養所で嵐の中、マーラーは息をひきとります。最後の言葉をアルマは手記にこう書いています。
 『…マーラーは空ろな眼で横たわっていた。一本の指が掛布団の上で指揮をしていた。唇に微笑がもれ、”モーツァルト”と二度言った。…』

*** おすすめCD ***
指揮:スラトキン 演奏:セントルイス交響楽団 CD:BMGビクター
 レーモ・マゼッティJr.による補筆完成版。セントルイス響による豊かな響きで補筆版とはいえ、完成度の高い演奏が聴けます。
 CDは2枚組で、全曲演奏の他に、第10番のいくつかの版について実際の演奏を交えながら比較し、指揮者スラトキン自身が解説を加えています。



もっとマーラーを知りたい方に

「マーラー <カラー版作曲家の生涯>」

船山隆著 新潮文庫
 マーラーの入門書として、好適な一冊。マーラーの芸術を求める生き方が、彼をとりまく多彩な人物と共に、豊富な写真によって浮き上がってくるようです。マーラーの生涯そのものが、彼のシンフォニーのように激しく豊かであることが実感できます。
 私がもっとも感銘を受けた本のひとつです。

「グスタフ・マーラー −現代音楽への道−」

柴田南雄著 岩波新書
 マーラーの曲を解説した名著。日本におけるマーラー演奏など、柴田氏の実体験を元にした記述が多い点も特徴です。ひとつひとつの曲を、背景と他への影響まで、深く掘り下げて考察されており、示唆に富む本です。

"GUSTAV MAHLER"

by Bruno Walter    Quartet Encounters
 原文はドイツ語です。邦訳は、
「マーラー 人と芸術」 ブルーノ・ワルター著 村田武雄訳 音楽之友社
ですが、たしか、絶版だったような。
ワルターがマーラーその人と作品について、愛情をこめた筆致で描いています。
たまたま勤務先の図書館にあったので、わくわくしながら読みました。
今、手元にあるのはイギリスへの旅行で偶然出会った英訳本です。

「マーラー 愛と苦悩の回想」

アルマ・マーラー著 石井宏訳 音楽之友社
 (「グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想」 中公文庫)

 マーラーの最も身近にいた人、妻アルマの手記です。マーラーとの出会いから、永久の別れまでが、熱い情念を知性でくるみ、赤裸々に語られます。マーラーのプライベートな部分まで細かく書かれ、たいへん面白い本です。アルマへの手紙も収録されており、マーラーの内面を知る上でも、貴重な資料です。
 中公文庫からも、同じ本が出版されていますが、こちらはアルマの手記部分のみで、マーラーの書簡が割愛されています。

「マーラー万華鏡」

桜井健二著 芸術現代社
 マーラーの作品を慈しんできた著者が、その多年に亘る研究の成果と体験をエッセイ風に、生き生きと語ります。マーラーの魅力が実にいろいろな角度から照射され、その内容の豊富さに、うなりながら読みました。あとがきも、マーラーへの熱い思いが伝わってきて、ジンとしました。


映画「マーラー」

監督:ケン・ラッセル 主演:ロバート・パウエル 英国(1974年)
 マーラーの音楽をイメージ化したものとしては、最高の作品ではないでしょうか。
 愛情のさめてしまった妻アルマと、マーラーとの汽車の中の会話から、過去への回想が始まり、、作曲家の人生をたどっていきます。もちろん、マーラーの曲がふんだんに盛り込まれ、その世界を鮮烈な映像と共に堪能できます。
 有名なのは、交響曲第5番の冒頭のファンファーレから始まり、第1番第3楽章の葬列の音楽にのって、マーラー自身が棺桶で軍隊によって運ばれるシーンでしょう。他にも、リストの妻コージマに頼んで改宗する戯画的なシーン、子供時代の事、心を病む友人、アルマとの遍歴などが、コラージュのように描かれていきます。そして、湖に突き出る作曲小屋。それらの絵すべてが、マーラー世界の広がりを雄弁に語ります。
 「映像詩による作曲家の伝記」にとどまらず、マーラーの音楽の真の姿を垣間見せてくれる作品です。


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