映画の感想〜雑記帳


 映画、ドラマ、演劇、アニメーションなどの、とりとめもない感想です。
ディープ インパクト
 巨大な隕石による人類滅亡の危機。この設定でいくつもの映画が作られている。しかし、「ディープ インパクト」は、ダイナミックでリアルな映像と人々の姿をしっとりと描くシナリオが見事に融和している。ティア・レオーニ演じるニュース・キャスターが隕石接近の事実に触れていく運びがとてもうまいと思った。隕石の破壊に向かう宇宙船の船長ロバート・デュヴァルが、目を負傷した隊員に「白鯨」を読むなど、繊細な演出が心憎い。モーガン・フリーマンの演じる大統領の真摯な姿も印象的。人々の理性を全面に出している映画。(2000/9/28)

オーケストラの少女
 1937年に制作されたアメリカ映画。公開当時日本は日中戦争のさなかであった。この時代に、これほど優れた作品が制作されることに、アメリカのという国の底力を感じた。脚本が実によく練られていると思った。今見ても最初から最後までずっと楽しめる。
 ストコフスキー本人が出演し、演奏を披露している。冒頭のチャイコフスキー交響曲第5番の演奏から釘付けになった。ディアナ・ダービンの歌声も素晴らしい。クライマックスの歌声では、テレビのスピーカがビリビリと震えていた。タクシー運転手と少女との会話からも、当時の奥行きのある豊かさが伺える。貧しい中にも、精神的な豊かさとは何かを皆が知っていた時代ではないか。(2000/8/18)

柳川堀割物語
 宮崎駿制作、高畑勲監督の柳川堀割物語を見終わる。人と水との関わりを描いた、160分を超える長大なドキュメンタリー。柳川周辺の堀と水路について、実に多角的に描いている。執拗ともいえる水辺の描写に、強い思い入れとメッセージを感じる。行政が住民を信じて行動しヘドロで埋まる川を清流に戻すなど、感銘をうけるエピソードが多い。ただ、冗長さを廃して精錬すればもっと多くの人に見てもらえるのではと感じたのだが、それができないのが高畑さんの良いところなのかもしれない。家で子守がてら見たみたから冗長と感じたので、映画館でじっくり鑑賞すればまた印象もちがうのかもしれない。記録としては実に貴重な作品。(2000/8/17)

菜の花の沖
 前橋市民文化会館に、わらび座の公演「菜の花の沖」を見に行く。公演が前橋であるのを知ったのは、一週間前の群響定演で挟み込まれていたチラシからであった。早速翌週の月曜日にチケットを買いにいった。直接前橋の市民文化会館まで行き、最前列から2番目の席を買う。
 司馬遼太郎さんの原作を読んでいる途中であった。4冊目の始めまで読んでいたので、木曜日からペースをあげて読み始め、仕事や育児などの他、使える時間はほとんど読むことにまわし、ようやく公演前に6巻の220ページくらいまで読み進められた。3日間で約1000ページと、自分としては異例の早さであった。5巻の延々とロシアの事情が描かれる部分は、興味はあるものの、嘉兵衛が登場しないので、なかなか読み進むペースがあがらずにちょっと辟易したが、フヴォストフが日本を攻撃するところで今までの話に繋がりが出てきて、ようやくペースが元に戻った。
 公演では、まさに読んでいる6巻の部分が中心に描かれていた。冒頭、ロシアの歌とともにディアナ号の甲板のセットが浮かび上がる。霧に煙る中、立して歌うロシア人たち。背後の暗く蒼い海の色が北の空気を感じさせる。美術は妹尾河童さん。物語は、高田屋嘉兵衛がカムチャツカ半島のペトロパブロフスクに連行されたところから始まった。嘉兵衛とロシア人将校リコルドとの友情と信義を軸に、文化の相違を乗り越え、国家を結びつけようとする男たちの姿が描かれる。
 時間的にも空間的にも限られた中で、全6巻にわたる長大な原作をどう描くのか興味深かったが、ジェームズ三木さんの脚本では、嘉兵衛とリコルドとの関係に焦点をしぼり、彼らの台詞から原作の様々なエッセンスを的確に浮かび上がらせていたように思う。また、わらび座の得意とする舞踊をふんだんに取り入れ、ミュージカル的な色彩もあり、まともに取り上げたら重苦しくなる物語が軽妙な形になっていた。特にロシア民謡と日本の舟歌が重なりあう場面は、テーマにも通じるもので圧巻の表現であった。主役を演じる安達和平さんは、嘉兵衛の度量の大きさを見事に感じさせてくれた。リコルド役の近藤進さんも格調あるロシア帝国士官として印象に残った。ワンシーンしか登場しなかったが、高橋三平役の笹岡文雄さんも、開明的な幕臣の人間性をかいまみせてくれる演技がきらりと光っていた。淡路の嘉兵衛の家にリコルドの部屋にあったサモワールがさりげなく置いてあるなど、演出にも心憎いものがあった。司馬遼太郎さんの原作を精錬し、音楽と彩りを加え、しかも気高さを失っていないことに暖かい喜びを感じた。ラストの海・空・菜の花の色の美しさに、人の心が照り映えているかのようなすがすがしい舞台であった。(99/6/26)

鉄道員(ぽっぽや)
 この映画については、リクツを書く気になれません。ひたすら涙です。映画館でも自然と涙です。高倉健さんの表情、大竹しのぶさんの表情、小林稔侍さんの表情を見ているだけで涙がでました。本当に皆が大事に作っている、そう感じた映画です。その一体感の前には、言葉は力を失います。ただただ日本人であることに感謝しました。夜中にパンフレットを見たら、ページを開くごとに涙が流れました。この映画の感想だけ、敬語になっていますが、なんだか自然と頭を垂れてしまい、映画に「ありがとうございます」と言ってしまいたくなるのです。日本人であることを実感できた、日本人であることを誇りに思えた、日本人であることに大きな喜びを感じられた映画です。(99/6/25)

タイタニック
 山に囲まれた群馬で生まれ育った身にとって、海はあこがれの対象である。北海道へ旅するときも、新潟まで北上し、そこからフェリーに乗って小樽まで行くというルートをとっている。これが一番料金も安く、車も運べ、そしてなにより海を満喫できる。フェリーが港を離れ、白い波を広げながら沖に出ていく。その波の先ある新潟の街を見ながらワインを飲むのは最高に気持ち良い。船の旅は海の広がりにも似た開放感を与えてくれ、また船内に入ると、陸から切り離されたことによる独特の情緒を感じることができる。
 ジェームズ・キャメロン監督の映画「タイタニック」で一番感動したのも、海に浮かぶタイタニック号の勇姿なのだ。映画の最初の方で、ディカプリオ演じる若い画家とその友人が船首のデッキで、タイタニックによる船出の喜びと自分たちの未来に向けての期待を手を広げて表すシーンがある。そこからカメラは上がっていき、タイタニックを映す俯瞰になり、甲板をずーっと移動して船尾からタイタニックを捉えるショットになる。実写ではまず不可能な映像で、コンピュータ・グラフィックスが使われているのだろうが、作り物とはとても思えないみごとなシーンであった。夕暮れ時の海も、夜のタイタニックのシルエットも本当に美しく、その航海にあこがれてしまう。そして船内に入れば、極めて精巧に再現されたタイタニックの豪華な内装が目を引く。ヒーローとヒロインの階級の差によって1等船室と3等船室の差をまざまざと見せていく演出もうまいなあと思った。この前半の描写が美しく見事だからこそ、後半の惨劇がより身に迫ってくるのだろう。
 氷山にあたってから沈むまでは、思ったより時間があった。そこでじっくりと描かれる様々な人間模様は、船という閉ざされた空間により、際だった密度を持っていた。その中でも心を打たれたのは、最後まで自らの職務を全うしようとする人々の姿だ。パニックに陥る人々を制止して女子供を救命ボートに乗せようとする船員、最後まで演奏を続けるクァルテットのメンバー、船と運命を共にする船長や設計者。
 この映画では、水が主役でもあった。冒頭で沈むタイタニックを描く海中の映像も見事であり、損傷した船を襲う海水の迫力も、エイリアン以上の恐怖を与えてくれる。ジェームズ・キャメロン監督は、ジュニア・カレッジで海洋生物学を専攻していたとのこと。「沈黙の世界」などで知られる海洋探検家のジャック・イヴ・クストーにも影響を受けたようだ。また、キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」にSF映画を作るきっかけを与えられた。大学では物理学を専攻しており、それら理系のセンスも、この映画のリアルさに貢献しているのかも知れない。
 主役のディカプリオは、繊細さと明るさを持った画家の卵という役柄が、ほんとうに輝くようにあてはまっていた。ケイト・ウィンスレットは、上流家庭のお嬢様なのに、情熱的な踊りを披露したりすぐに脱いでしまったりと、ずいぶんと活動的で強い役柄で、まあ、これくらいのアクがないとこの巨大な映画の中ではうもれてしまうのかなと思う。二人の恋愛にはいまひとつ感情移入できなかったが、それは自らのトシのせいだろう。それにしてもヒロインの婚約者を演じるビリー・ゼーンといったら、いきなりピストルをぶっぱなしてディカプリオを追い回したり後からもネチネチとつけまわして、そのしつこさは、まるで「ターミネーター」のようであった。
 史実に基づいた重みをもっているからこそ、この映画が圧倒的な迫力を持っているのだろう。「インディペンデンス・デイ」などのフィクションが、あまりにも軽く感じられる。どうせ多額のお金をつかうならば、このような歴史を緻密に再現したドラマをもっと作って欲しいように思う。
 どこにもいかなかったこの夏、この映画が一番、非日常を与えてくれた。ふりかえれば雨の多い寂しい夏だった。(98/8/30)


アポロ13
 1970年4月11日、アポロ13号は、ジム・ラベルを船長とした3人の宇宙飛行士を乗せて月に向かって打ち上げられた。しかし、月を目前にして酸素タンクが爆発し、船内の燃料、電力、酸素はいずれもゼロに近いレベルに落ちていった…。
 アポロ13号の悲劇を、実にリアルに再現していて、その技術には圧倒された。映画の試写会に、当の飛行士を招いて見てもらったところ、発射シーンを撮るカメラがあんなところにあったとは知らなかったと言ったという。制作した側が、この映像はすべて我々がコンピュータなどで作り出したもので、当時撮ったものではないと言ったが、にわかには信じてもらえなかったという。当事者が本物と思うほどの映像にするには、気の遠くなるような検証作業があったことだろう。それらをひとつひとつ映像化していく過程は、まさに宇宙飛行士たちの帰還に全精力を注いだNASAのスタッフ達の苦労と重なるものがあるのではないか。NASAの人々や宇宙飛行に対して、同じくテクノロジーを扱うものとしての思い入れがこの映画製作スタッフたちにあったからこそ、このような迫力のあるドラマが生まれたのではないか。
 この映画からは、人類の作り上げたテクノロジーの偉大さが伝わってくる。当時、ちょっとした技術計算をする時には、筆算か、計算尺を用いた。映画でも電卓は登場していない。コンピュータは部屋1つ分なければ設置できない。そんな時代に、月にまで人が行ってしまうというのがすごい。二酸化炭素のフィルターをつくるためにあり合わせの材料で組み立てるところが、テクノロジーの原点を見る思い。困難をひとつひとつ克服する人々の姿が、派手さのない映像でじっくり描かれる。これらが事実に基づいて作られたことには、本当に勇気を与えられる。
 宇宙で生存することの困難さを味わった宇宙飛行士たちには、自分たちの唯一のよりどころである青い地球が、どんなに美しく見えたことであろうか。(98/8/11)


誘拐
 渡哲也、永瀬正敏が刑事を演じる映画「誘拐」を見る。身代金を持って東京を歩く姿を全国中継するオープニングはなかなか迫力があった。東京の街が新鮮に感じるこの前半はよかった。が、後半、いやにしめっぽい話になるところがやはり日本映画。酒井美紀演じる、元不良少女で刑事に救われてという設定がまたいかにも日本映画。永瀬演じる刑事がプロファイリングを学んでロス警察からやってきたという設定が現代風だが、それがこの人情話とあまりかみ合っていないような感じ。ある古典ミステリーと類似するプロットも気になってしまった。設定が大ぶりなものは、中途半端にリアリティや社会性を盛り込むと、かえって印象がうすくなる。
 同じ誘拐ものでも、岡本喜八監督の「大誘拐」くらいテンポよくまとめてもらえば、もっと救いはあったかな。(98/8/10)


インデペンデンス・デイ
 なかなかおもしろいが、ひたすら好戦的な宇宙人というわかりやすい設定が、いかにもアメリカ映画。まちがっても「惑星ソラリス」のような思索的な生命体にはならない。それにしてもかなり莫大な制作費がかかっていることだろう。こういった映画に惜しみなく才能とお金をつぎ込むことが出来るという点では、アメリカはすごい国かもしれない。(98/8/3)

流通戦争
 大規模店を出店しようとする企業と商店街との確執を描いたドラマ。普段あまり意識しない流通業の裏側をリアルに描いていて、とても興味深かった。複雑に絡み合った事情を的確に捉え、人々を生き生きと描く脚本の見事さに、おもわずうなった。
 吉田栄作がその両者を結ぶ役をさわやかに演じた。一歩間違えるとドロドロした話に終始しただろうが、彼を主役にしたことで清涼感と後味の良さが生まれ、見事な配役であった。価格破壊を巻き起こした謎めいた男を大竹まことがやっていたが、これもいい味を出していた。久しぶりに、画面から目の離せないドラマであった。
 NHK土曜ドラマとして、1月10、17、24日と3週連続で放送された。(98/1/24)


見知らぬ人(インド映画)
 元日、NHKでインド映画が新聞のテレビ欄にあったので、どんなものか見てみる。「見知らぬ人」という作品。カルカッタのある家族の家に、妻の叔父が訪ねてくるという。主人は、偽者ではないかと疑い、訪ねてきた男の正体をあばこうとするという、ホームドラマのようなストーリーである。
 淡々と進む話で派手な展開はぜんぜんないが、なぜか画面に見入ってしまう。見終わった後、その質の高さに驚いた。アメリカや日本で濫造されるあまたの映画に及ぶべくもない高尚さを持っていた。大げさなアクションや意外な展開がないだけに、訴えるものが切々と受け手に伝わってくる感じであった。
 監督・脚本・音楽を全部一人の人物がやっている。サタジット・レイ(Satyajit Ray)−−この人は、調べてみたらインドでは数少ない国際的に知られた映画監督であった。1921年に生まれ、1992年に亡くなっている。「見知らぬ人」は1991年に制作された彼の遺作であった。作品の底に秘められた輝きは、長く映画に愛情を傾注してきた巨匠の手によってのみ発することができるものだろう。(98/1/1)


もののけ姫
 宮崎駿監督が最後のアニメ作品と宣言した超話題の『もののけ姫』。朝3時に起きて4時半に高崎発の電車に乗ったが夜行列車で皆席2つ分を使って眠りこけているので座る場所がなく、ようやく食堂車両にスペースをみつけてちんまり腰掛けてちょっと横を見るとアベックが寝ていて暗黙のプレッシャーを感じながら1時間半狭い空間に心を押し込め列車にゆられと、有楽町マリオンで7時上映の会に間に合うように出かけるのはたいへんだったが。
 しかし、正直なところ、ラストで素直な感動はわいてこなかった。いままで宮崎アニメを見てきて、これは意外な感じだったが、実際他の作品から受けた印象とだいぶ違ったのである。

 『ルパン三世カリオストロの城』を見た後は、強烈な面白さと抒情が見事にかみ合って、本当にいい映画を見たとしみじみ思い余韻がずっと後を引いた。その後この映画は20回以上見ているが、いまだに新しい発見がある。
 『風の谷のナウシカ』では、心ならずもラストで泣いてしまった。「この村も腐海に沈んだか」という最初のシーンからうなった。あそこまで世界を作られると、もうそこに身をゆだねるだけでよかった。
 『天空の城ラピュタ』では、全編に飛翔感が満ちていて、心躍らせる体験ができた。雲がはれてラピュタ本体が明らかになっていくシークエンスは圧巻の出来。
 『となりのトトロ』は、そうそう、こういう映画を待っていたんだよと快哉を叫びたくなる作品だった。日本を舞台にこれほどファンタジックな世界が展開された例があるだろうか。さつきとメイがトトロの胸にぶら下がって飛ぶシーンは、何度見ても泣いてしまう。
 『魔女の宅急便』は、人物の設定に感動した。キキが届け物をした屋敷で出会うおばあさんの顔がアップになった瞬間にその人の人生が感じられて、これほどのキャラクターをつくるとは、真のアニメだとその時思った。
 『紅の豚』では、大人の雰囲気をたたえていて、しかも宮崎さんが暖かく作った思いが伝わってくる。

 これら宮崎作品に共通して感じたのは、ラストの後味の良さであり、その暖かい余韻が長く残るところである。
 ところが、『もののけ姫』では、その暖かさがストレートに残らなかったのだ。何か釈然としないものが残ってしょうがなかった。
 ひとつには、その絵のボリュームに圧倒されすぎたためだろうか。美術は言うまでもなくあまりに素晴らしい。今回5人の美術監督を起用して練りに練った背景を見せてくれた。アシタカが村を出て町に着くまでのシーンにしても、自分が山裾や平原を歩いていると錯覚するほど画面に引き込まれた。
 だが、それら美術がすごすぎるために、感動する心のスキマを失ってしまったような気がする。例えば、「日展」などの絵の展覧会で所狭しと並んでいる部屋の絵を見渡す。確かによく書けている絵は多いが、ひとつひとつの絵から執念というか怨念というか強烈な気が放射され、それらを一身に受けると感動より苦しみが湧いてくる。そして次の部屋に行くとまた様々な絵が咆吼し苦悶し解放し苦しみ悲しみおそれおののき……ああ、気が狂いそうになる。更に次の部屋では!!……会場を出た後はくたくたになっている。
 『もののけ姫』は、トーンも統一されており、色彩設計も様々な配慮がなされていてる。しかし上に書いた程ひどくないにしても、作り手の執念は相当のものであり、正直疲れて感動するゆとりを失う過程は似ているかもしれない。夜行列車に揺られた寝不足がたたったのかもしれないが。いずれにしても、体調のいいときに見るべき映画だ。
 もうひとつには、作り手にゆとりがなかったのではと感じるのだ。いつもより伸びやかなシーンは少ない。メッセージ性が強すぎる割に、ラストは予定調和的だったりと、ストーリーラインの練度はいまひとつの感があった。
 メッセージ性という点で言えば、やはり様々な要素がつめこまれていて、受け手が吸収するゆとりがあまりないこともあるかもしれない。最後の作品という焦りがあったのだろうか。
 黒澤明監督の『夢』という作品があった。「こんな夢を見た−」で始まる八話のオムニバス映画であったが、その中の、原発で放射線がもれるとひとびとが騒ぐ話と、放射能で植物が巨大化し、鬼と化したいかりや長介が寺尾聡に繰り言をいう話があった。それらメッセージ性が強いエピソードより、最後の水車のもとで笠智衆が淡々と自然に語る話の方がよっぽど印象的で説得力もあったような気がする。メッセージを出したい気持ちと、受け手が得る印象のバランスはむずかしいところだと思った。
 しかし、『もののけ姫』では、様々な問題をぽーんと観客に放り投げて、後は考えておくれと突き放しているのかもしれない。宮崎監督があえてそうしたのであれば、従来の作品よりひっかかりを残すという点で成功したともいえる。

 いずれにしても、これから何度も見ることになる映画であることには違いない。背景の素晴らしさ、集団のダイナミズム、人物造形の的確さという点では、彫り込まれた職人芸であり、名匠宮崎の技は一度見ただけでは味わいきれない。もっとも、この作品では「技」より「業」を多く見せられてしまうだろうが。(97/9/4)


総理と呼ばないで
 支持率50%以上を誇るクリントン大統領が、ゴルフゲート事件を起こしたとの報道があった。何のことはない、クリントン大統領がゴルフで打ち直しをして高い成績を上げたので、フェアであるべき大統領がけしからん!とあるマスコミが騒いだだけのことである。
 この話を聴いて、すぐに今年の4月8日よりフジテレビ系で11回にわたって放映された「総理と呼ばないで」を思い出した。このドラマのなかで、田村正和演じる総理が、ゴルフのスコアをごまかす回があったからだ。もっとも、こちらはクリントンとは違い、支持率が3%以下と、消費税より少ない史上最低の総理だった。
 脚本は三谷幸喜ですばらしくノっていた。配役も、田村の総理の他、西村雅彦のエリート秘書官、鈴木保奈美の最悪ファーストレディなど、個性的な俳優を綺羅星の如くちりばめて、楽しませてくれた。
 特に5月13日放映の、体操選手が亡命する回は、喜劇ドラマのお手本のような脚本であった。
 共産主義国の体操選手が総理に亡命を求める話を軸に、鈴木保奈美は家出(総理官邸出?)をするし、娘の佐藤藍子が属する劇団ヘロヘロ共和国は援助金目当てに官邸に押しかけて寒い寸劇をするし、メイドの鶴田真由は首相夫人の代わりをつとめて産油国とジャカジャカじゃんけんで友好関係を築くわで、もう大変なのだが、それらが寸分のスキもなく見事に組み上げられて、密度の濃い回であった。
 特に、西村が家出した鈴木をホテルにたずねるカットは、独特のおかしみがただよう名シーンであった。
 余分な台詞を使わず表情やカメラワークで表現する技法が巧みなためであろうか。ナンセンスに近い喜劇だが、なぜか見入ってしまう魅力があった。(97/9/4)


ガリバー旅行記
 体を綱で縛り付けられて小人に引かれていく絵でおなじみの「ガリバー旅行記」。絵本でも、小人国、巨人国のお話はよく描かれるが、人語を話す馬の国などは、あまり触れられない。人間社会の風刺が、あまりに全面に出ているためだろうか。
 30億円の巨費を投じて制作されたドラマ「ガリバー旅行記」は、魔法使いの国、馬の国なども丁寧に描かれていた。
 第2部を見たのだが、最初に海上に浮かぶ天空の国を見たときから、映像に引き込まれた。岩の固まりをごっそり引き抜いたような下部から、視点は上に移動してゆく。その浮かぶ岩の上には、人々が歩いているのだ。そのあまりに自然な映像に驚いた。ガリバーは、その国に海からかごで引き上げられる。中には、アラビア風の衣装をまとい、絶えず思索する人々がいた。一転、ひもで吊った鍋で天空の国の様子を説明するガリバーが、周りを大勢に囲まれていた。精神病院に入れられているのだ。
 物語は、ガリバーが体験した不思議な国々のエピソードと、イギリスに帰ってきたガリバーの運命が交互に描かれていく。その過去と現在の交錯のタイミングも見事である。
 最新のSFXを駆使した映像で、へたなSF映画よりよほど迫力がある。原作のイマジネーションの広がりには、あらゆるSFの原点を見る思いである。さらに人間洞察においては、最近のSFでは及ぶべくもない深さを持っている。
 正直なところ、「もののけ姫」や「エヴァンゲリオン」よりも素直に感動した。え?それらの感想が書いてないじゃないかって?それは少々複雑な思いがあるので、後ほど。(97/8/21)

ウォーターワールド
 ケビン・コスナー主演の海洋アクション・スペクタクル。温暖化で地上がほとんど水没した地球を舞台にした物語。
 ケビン・コスナーの乗る船の原始的なメカニズムが面白く、水上集落でのアクションシーンも迫力があるが、ストーリーはオーソドックスだ。敵のボスをデニス・ホッパーが演じるのだが、少しお間抜けな印象。あのコスチュームは、スタートレックのクリンゴン星人を思わせる。1995年ユニバーサル映画。(97/8/15)

 
花神
 昭和52年に放送されたNHK大河ドラマ「花神」の総集編第1部のビデオを見る。田舎医者から討幕司令官になり、維新を技術面で支えた長州藩の大村益次郎を描く司馬遼太郎の小説が原作である。
 この第1部では、村田蔵六(後の大村益次郎)が緒方洪庵の適塾を訪れるところから始まり、蔵六が蘭学医たちのために刑死した女体の解剖を行いに小塚原へ向かうところまでの内容である。ここは小説でもドラマチックなところである。そのちょうど2日前に吉田松陰が安政の大獄で死刑になった。その死体を引き取りに小塚原へ桂小五郎(のちの木戸孝允)と伊藤利輔(のちの伊藤博文)が行き、解剖している蔵六を見るのである。蔵六を長州藩にとりたてたのは桂であり、それが討幕の大きな布石になったわけで、運命的な出会いであった。
 吉田松陰については、司馬遼太郎の「花神」ではそれほど詳しく触れていないが、ドラマでは篠田三郎演じる松陰のエピソードが、かなりの部分を占めている。これは、同じく司馬遼太郎の「世に棲む日々」の内容をもドラマに盛り込んでいるためだ。たまたま、自分が今「世に棲む日々」を読んでいる最中だったので、たいへん興味深かった。松陰がペリーのいる蒸気船でアメリカへ密航しようと企て、夜中に波にもまれながら小舟を漕ぐシーンが印象的であった。爽やかで凛とした松陰を演じた篠田三郎の演技に関心した。
 蔵六を中村梅之助、緒方洪庵を宇野重吉、シーボルトの娘イネを浅丘ルリ子、蔵六のヒステリックな嫁を加賀まりこ、高杉晋作を中村雅俊、蒸気機関を自分の手で作ってしまう提灯はりの嘉蔵を愛川欽也と、ユニークな役者が次々登場し、飽きない。私は当時まだ大河ドラマを見ていなかったが、司馬遼太郎の本になじんだ今放送されていれば、ウハウハしながら見たであろう。是非昔の大河ドラマを再放送してほしいと願っている。
 来年度の大河ドラマ「徳川慶喜」がどうなるか気になる所である。脚本が田向正健さんなのだが、田向さん脚本の「信長」では平幹次郎演じる陰陽道師と、信長の母役の高橋恵子とのカラミで間をつないだり、あまりにひどかったので、今度はあのようにならないようにしてほしい。もっとも、あの時は緒方拳の息子さんが信長役なのが間違いだったのかもしれないが。ともかく、最後の将軍「徳川慶喜」では、どうか司馬遼太郎さんの作品を汚さないよう大事に作ってほしい。「花神」は、ひとつのお手本になるのでは。(97/8/4)

 その後、総集編の2〜5巻を見る。極めて多彩な顔ぶれで維新回天までの流れを実に見事に映像化している。司馬遼太郎の幕末物を集大成した内容で、その密度の濃さに圧倒される。しかも、情感あふれるシーンも多いのだ。大村益次郎と長州藩の動きを軸にしながら、坂本龍馬、河井継之助らのエピソードもきちんと描いている。長岡藩が戦端をひらくきっかけとなる、岩井精一郎と河井継之助との小千谷会談のシーンがあって感動した。司馬遼太郎作品のハイライトをとにかくよく盛り込んでいる。農民から武の道をあゆんだ天堂晋助(演じるのは田中健)が要所要所に現れるストーリーラインを配するなど、これぞまさしく大河ドラマといえる構成であった。
 役者では、まず金田龍之介演じる長州藩の殿様毛利敬親。巨体とチックがマッチして、この複雑な藩を進めていく回転軸の役割がなぜかナットクできてしまう不思議な存在感。米倉斉加年=桂小五郎、村田蔵六を見いだす眼力と、不屈の信念を持つが、やや神経質。この神経質な感じがよくでていた。中村雅俊=高杉晋作、ここでも青春の旅路。西田敏行=山県狂介(有朋)、この人幕末ドラマで西郷隆盛、勝海舟などいろんな役をやってきているので、いったい誰の役をやっているのか時々わからなくなる。河井継之助=高橋秀樹、カッコよすぎでいうことないです。周布政之助=田村高廣、長州藩で先見の明を持った政治を行った人。人柄がにじみ出るいい役。神代直人=石橋蓮司、高杉晋作や大村益次郎をつけ狙う暗殺者。すごいメイク。ここまでいかにも殺し屋という風につくられると、逆に愛嬌を感じる。
 主役の中村梅之助は、まずあの顔の半分を占める額で蔵六であることを納得させてしまう。『患者が「おはようございます」とあいさつすると、「夏は暑いのがあたりまえです」と人の顔を逆撫でするようなことを言った。患者たちは腹をたてて近寄らなくなった。この調子を後年、蔵六はぬけぬけと日本的規模のなかでやってのけた』という、合理精神を貫いた男の生涯を見事に演じきった。
 革命を思想的に確立した吉田松陰、行動に移した高杉晋作、技術者として完成させた大村益次郎という流れを主旋律として、激動の中で必死に生きる多彩な人々が様々な音色を奏でる。それらを壮大なシンフォニーとして見事にまとめ上げた、大河ドラマの大傑作と思える。林光のテーマは、雄大な歴史の流れとうねりを感じさせ、余韻が残る。(99/9/21)

バリーリンドン
 18世紀のヨーロッパを忠実に再現した寓意に満ちた映画。アイルランド生まれのバリーがたどる数奇な生涯を描く。「2001年宇宙の旅」や「時計じかけのオレンジ」のスタンリー・キューブリック監督が、細部にわたってこだわりを見せている。185分に及ぶ大作だが、どのシーンも優れた絵画のように素晴らしい。
 第1部は、バリーの恋にまつわる決闘からはじまり、村を出てから様々な転機が訪れる。その先がわからない展開は、RPGのテレビゲームのようでもある。音楽も、シリアスであったり間が抜けたようであったりと、変化に富んでいる。古楽の響きがバロックのよき時代を彷彿させる。
 第2部は一転、のし上がったバリーを襲う運命をゆったりとしたペースで描く。英国ナショナル・ギャラリーの絵を思わせるような優美な映像が堪能できる。
 撮影もたいへん優れており、特に室内の情景はローソクの明かりだけなされ、ほの暗い貴族社会の夜がユニークな映像になっている。
 1975年度アカデミー撮影賞、美術監督賞、衣装デザイン賞、音楽賞の4部門を受賞。(97/8/2)

血槍富士
 製作 大川博から始まる、黒をバックに白く書かれた冒頭のスタッフ・ロールから引き込まれた。そこからすでに雰囲気があるのだ。小杉太一郎のモダンな音楽が、その期待をさらに煽る。
 映像は富士を背景にした街道がまず写される。主人とお付きの2人、後ろからついてゆく男の子、母と娘の旅芸人、馬上の女とその下の暗い顔の父、胡散臭く懐手をして歩く男など、街道を行く人々をアップでなぞってゆく。温厚そうな主人について槍を持つ男を、片岡千恵蔵が演じている。その最初の場面から、絵に力が感じられ、最後まで目が離せなかった。撮影も見事で、ごく自然に東海道を旅している気分になる。川の渡し舟、大名行列、旅籠、祭りなど、その時代がたいへん生き生きと活写されている。
 人間模様が実に巧みに描かれ、素直におもしろかった。台詞も味わいがあり、楽しかった。のんびりとした道中から、様々なドラマを経てラストの迫力ある立ち回りまで、一気に見せてくれる。
 昭和30年公開の映画であるが、その映像と物語の魅力は今も実に新鮮である。内田吐夢監督の真骨頂。(97/8/2)

張込み
 松本清張の原作は30ページに満たない短いものだが、映画は克明に人間描写を行ながら、当時の日本社会の縮図を盛り込み、深みのある作品に仕上げている。田村高廣の若い頃が、たいへんナイーブな感じで印象的であった。昭和30年頃の日本の夏の風物が味わえる。先日亡くなった黛敏郎が音楽を担当。
 昭和32年松竹大船 野村芳太郎監督作品。(97/7/30)

ダリ天才日記
 シュール・レアリズムの巨匠、サルバドール・ダリを描いた作品。ニューヨークに訪れた有名人を迎える記者たちの前に、フランスパンを頭にのせた奇妙な男が現れる。フランスでその絵画と奇行でセンセーションをまきおこしたダリであった。あまりに変な言動に、多くの記者たちはあきれるが、興味をもったタイムズ誌の記者は、ダリに単独会見を申し込む。ホテルの一室で、ダリはその記者に生い立ちを語り始める……。
 主役の人は、エディ・マーフィーのようなノリ。乳房のあるヒットラーとか、ゆがんだ時計とか、引き出しのあるビーナスなど、おなじみのダリの世界はあちこちに現れるが、全体としてはダリの生涯の転機をきちんとたどった、思ったよりまともな伝記ものの映画だった。ダリも見てないか。(97/7/29)

砂の器
 松本清張の初期の短編集「或る小倉日記伝」や「張込み」を読んでいたら、むしょうに映画「砂の器」が見たくなった。前に一度見て感激したので、またあらためて見直したくなったのだ。
 この映画は、音楽が実に効果的に使われている。テーマ曲「宿命」が、全編にわたって現れ、盛り上げている。この曲はMIDIのデータとして、らりー若杉さんが作られたものがニフティサーブのFMIDICLAにあったので、ダウンロードさせていただいた。あまりに素晴らしく、よく聴いているので、耳についてしまった。それもあって、見たい気持ちがずいぶんとつのっていたのだ。
 オープニングの砂丘をバックにした幻想的なタイトルから、惹きつけられる。秋田県の亀田を振り出しに、日本各地を執念で捜査する刑事を、丹波哲朗。その相棒の刑事が森田健作。この捜査の地道さが、実によい。「湯けむりなんたら殺人事件」とかのように、人がばたばた死なないのもよい。一つの殺人を丹念に追っていくその地味な様が、リアルに写る。かといって、決して飽きさせず、ぐいぐいひっぱってゆく魅力を持った展開をする。
 また、この映画では日本の美が至るところにちりばめられている。まず、自然の美。刑事が訪れる日本各地のたたずまいがいい。田舎のワン・シーンでも、わらぶき屋根の家や山を縫う田畑、濃い緑など日本の夏が広がり、その情景に素直にひたる楽しみがある。心が広がるようである。父子がめぐる日本各地の美も、この映画の魅力を支えている。
 また、人間の美。笠智衆の端然とした美、緒方拳演じる警察官の情厚き精神の美、そして父子の強き絆の美。
 それら日本の美を衒わず全面に出していることが、この作品のつきせぬ魅力の源泉だと思う。
 このような優れた脚本で、素直に感情移入できて、日本の美が味わえて広がりのある邦画が多くできれば、映画館にもっと足を運ぶのですが。(97/7/27)

パトレーバー劇場版 2
 近未来の首都圏を舞台に、増加するロボット犯罪に対処するために警察に設けられた特車部隊の活動を描くアニメ、パトレーバー。劇場版の2作目に至って、ロボットアニメとしての要素はわずかになり、公務員や東京の街そのものに描写の力点がおかれている。
 その表現の深みというのは、現在意気盛んな「エヴァンゲリオン」を凌ぐのではないか。日本を舞台にしたロボットアニメという点では同じだが、庵野監督と押井監督の描き方はまるで違っている。庵野監督が明るい色調をベースに、ネルフという組織の活動を基に描くエヴァンゲリオンは、その絵の色調とは裏腹に個のどろどろとした内面部分をロボットの形で表出しようとしている。そこで描かれているのはあくまで「個」なのである。それに対し、今回のパトレーバーでは、暗い色調をベースにしている。とにかく夜のシーンや地下のシーンが多い。しかし、描かれているのは、組織に拘束されながらも、信念で動く後藤であり、そのもとに集うかつての仲間である。そこには色調と逆の楽観的な姿を感じる。また、人々の集う首都そのものが、主役になっている。いわば、「組織」「街」といった、集団のエネルギーが描かれており、エヴァンゲリオンと対照をなしている。
 この映画の街の描写にかけるエネルギーはすざまじい。ベイブリッジ周辺の風景、自衛隊の戒厳令下におかれた新宿の街並みはリアルを極める。また、首都を縫う水路からの景色、新橋地下鉄での廃坑、空からの俯瞰など、様々な視点で首都を描いている。
 わけても圧巻なのは、自衛隊調査官の荒川が後藤隊長に東京湾の船上で戦争について語る時の、湾岸の情景だ。曇天のもとでの、煤けた工場群、うらぶれたトタンのシルエット、鳥のとまる海上の指標灯などの映像が延々と流れる。独特の造形と陰影に引き込まれる。
 街の存在感の前には、登場人物が逆に背景になるような映画であった。(97/7/27)

スーパーの女
 津川雅彦と宮本信子のコンビが、さえないスーパー正直屋を立ち直らせる話。伊丹さん、今度もよく取材してますね。「スーパー」という身近な素材だけに、興味がわきます。うんうん、こんなことウチの近くのスーパーでもあるあるとか、家族でワイワイ見られる映画ですね。で、どぎついセックスシーンも今回押さえたようですね。「ミンボーの女」と「タンポポ」を混ぜたようなストーリーラインですが。
 スーパーの裏で働くたくさんの人の姿が生き生きしていてよかったのですが、あの中に商品のバーコードのデータを入力する人はいたのでしょうか。あの作業はとても大変なのではないかと、買い物をしながらなぜか心配になるものですから。(97/7/24)

スケアクロウ
 刑務所帰りのジーン・ハックマンと、妻子を捨てた船乗りのアル・パチーノの友情を描くロード・ムービー。スケアクロウは、カラス(crow)を驚かす(scare)もの、つまり「かかし」という意味だが、映画のはじめの方でアル・パチーノが「かかしはカラスを驚かすのではなく、笑わせるんだ」というところから来ている。
 さて、この映画、2人の演技も個性的で楽しめるが、話に今ひとつまとまりがないような気がする。旅先でのエピソードはそれなりに面白いのだが、ラストがどうも。エスプリを醸そうとしているのだろうが……。風景もきれいだが、情緒がなく乾いた感じがする。
 なんだかアメリカというのは寂しい国だという印象をうけた映画だ。(97/7/20)

迷走地図
 勝新太郎が6月21日に下咽頭癌で亡くなった。その翌日、テレビ朝日が追悼企画として放映した、野村芳太郎監督の映画「迷走地図」を見る。松本清張原作の政界を描いた作品。
 俳優がとにかく役によくハマっている。次期首相をねらう勝新太郎の通産大臣、田中角栄ふうの伊丹十三、対立候補の芦田伸介、法務大臣の大滝秀治、二世議員の津川雅彦などが、政治家臭をプンプンとさせる演技にハマっている。大臣夫人の岩下志麻がまた、この役はこの人でなくてはという立ち居振る舞いを見せてくれる。渡瀬恒彦、寺尾聡の対称も面白い。そして、少しだけ出てくる宇野重吉には、圧倒的な存在感がある。
 これら豪華な俳優の競演もたまらない魅力だが、立体感のある撮影もすばらしく、奥行きのあるドラマになっていて、最後まで惹きつけられた。
 ここで起きる殺人については、見終わって釈然としない部分もあったが、それは謎解きと言うよりも、政界の不気味さの象徴とみれば自然であろうか。
 でもやはり気になるので、原作(新潮文庫「迷走地図」)を本屋で立ち読みした。原作の最後に、ロバート・ブラウニングの詩"PIPPA PASSES"をアレンジしたような、「すべて日々はこともなし」という句がある。政争が様々あるが、それが永田町の日々の図であるということなのであろうか。これを見て、映画の最後がようやく納得できた。ふと、和田勉がNHKで最後に作った島崎藤村の「夜明け前」(主演 財津一郎、山崎努)のラストを思い出した。
 勝新太郎が、いかに得難い役者であるか、実感させられた映画であった。(97/6/28)

007 美しき獲物たち
 ロジャー・ムーアがジェームズ・ボンドを演じた最後の映画。しかし、う〜ん、くだらない。どうしてこうアクションでつなぐだけの映画にしてしまったのだろう。「ロシアより愛をこめて」の風格や、「ゴールド・フィンガー」の緊張感は、はるか彼方にすっとんでしまった。お願いだからこの由緒あるシリーズの品性を保ってよ。(97/6/28)

Shall we ダンス?
 先日、ネクタイを買おうと思って、近所の紳士服店に出かけた。なかなか品のあるネクタイが多い店で気にいっているので、季節の変わり目でもあるし何か一本と思って店内に入った。ところが、店の様子がいつもと違うではないか。紺やグレーのスーツが整然と並んでいるはずの場所に、赤、黄、橙などの原色の服や、キラキラしてひらひらした服が所狭しと飾ってある。全然違う世界になっているではないか。店員さんも、少し雰囲気が違って、いつもより華やかさがあるのだ。おそるおそる、「あの、ネクタイは……」とたずねると、「そちらですよ」と、あまり気のない返事で方向を指すので、そちらに行くと、たくさん並んでいたはずのネクタイが、いまではちんまりと申し訳なさそうに一角に置いてあり、周りから比べてそこがひどく地味に見え、結局一本も買わずにすごすご出てきた。
 看板を見ると、「紳士服の○○○」が、「舞生夢」となっているではないか。そういえば、ダンスが流行っていると聞いたことがある。その影響なのか、そこは紳士服よりダンス用の服が主流になっていたのだ。
 要するに、私はそれほどダンスのことを知らない。社交ダンスなど、はなから興味がなかったのだが、映画「Shall we ダンス?」は、ほんとうに楽しめた。役所広司演じるまじめなサラリーマンが、おそるおそるダンス教室に入り、生き生きとしてくる様子が、とっても共感できる。それを取り巻く人物が、皆ユニークで、演出も心憎いばかりで、久しぶりに映画の面白さをふんだんに味わった感じだ。
 竹中直人の直角歩行、脂ぎった踊りが格別の味。草村礼子のダンスの先生も、指導者の神髄を見る思い。渡辺えり子、徳井優、田口浩正、柄本明など、ダンスに魅せられる人々を様々に描いて、それを画面に心憎いほどうまく配置している。ダンス教室の鏡の使い方など、映像の技も、うまいなあと素直に思う。「シコふんじゃった」で主演した本木君もちょっとでてきて、しゃれている。
 バレリーナをしていた草刈民代のクールな演技も、見とれてしまうほど素敵なダンスも、映画を引き締めている。周防正行監督は、この人と結婚してしまうのだから、思い入れも格別だったのだろう。それを含めて、スタッフが生き生きと作っている感じが伝わってくる。
 この作品のように、映画館を出るときに晴れ晴れできるような映画をたくさん作って、邦画界をどんどん盛り上げてほしいと、一映画ファンとして切に願っているのだ。(97/3/30)

シェルタリング・スカイ
 「ラスト・エンペラー」のベルナルド・ベルトリッチ監督作品。仲の冷えた夫婦と友人が、北アフリカを旅していく間の出来事と運命を描いた作品。
 これを高崎の映画館へ見に行ったとき、日曜日にもかかわらず客は4,5人しかいず、ほとんど貸し切り状態であった。異世界にいるように、ボーと見ていた記憶が残っている。夫婦が自転車をこいで、高台に登って目にする、遙か彼方まで広がるアフリカの大地。サハラ砂漠をラクダに乗って進む隊商。素晴らしい映像であった。
 原作はポール・ボウルズの同名小説であり、ボウルズ本人も映画に出演している。
 地味だが、不思議な味のある映画。(97/3/2)

アラビアのロレンス
 残念ながら、ビデオで見てしまったが、大画面のスクリーンで見たらもっと違った感慨が抱けたのではと思う。あの砂漠の広がり、ラクダ隊の躍動感は、テレビの画面では小さすぎる。ある場面では、まわりの景色があまりに壮大なので、人物が顕微鏡的な細かさで、景色に感動するより人を捜すことに神経がいったりして、映画館が恋しくなった。
 英国将校ロレンスが、砂漠にどどどと乗り込んで、ばばばと敵をやっつけて、美女を虜にしてロマンスがあってと、勝手に想像していたのだが、それは全然はずれであった。ロレンスの線は細っこいし、野郎ばかりで美女は最後まで出てこないし、(一番女らしかったのが、ロレンスだったりする)実は緻密に作られた人間ドラマで、007のノリが頭にあった私は深く反省。確かに、007では3時間半を越える上映時間にはならないだろう。
 まず、出だしの構成がうまいなあと思う。ロレンスがバイクに乗って事故に会うシーンから始まり、お葬式になり、インタビュアーに答えて、人々がロレンスの感想を述べる。この人々の役割は、全部見終わってからわかるわけで、ビデオを巻き戻してもう一度ここをみると、ああ、なるほどと思う。うーん、うまい。
 登場人物では、首長アリを演じたオマー・シャリフがかっこいいなあ。砂漠の彼方の陽炎から、ずーっとロングショットで人影が大きくなっていくのだが、まずその登場がよい。で、ロレンスとの会話がイキで、背筋がピンとしてて、最後までロレンスに暖かい目を注いで、ほんといい男。この人は、デビッド・リーン監督の次の大作「ドクトル・ジバゴ」で主役を演じるけど、これもとっても感動。
 ラクダ隊がアカバを襲撃するところなんかもすごい迫力。でも、こういったスペクタクルの部分以外にも、人間をしっかり描いているから、作品に厚みがある。そこはさすが演劇の国イギリス。歴史の一面を描き、余韻がずっと残る映画。1962年度アカデミー賞7部門受賞。(97/3/16)


<突然クイズ>「シェルタリング・スカイ」と「アラビアのロレンス」の共通点は?
   (答えは最後に)
スターゲイト
 「インディペンデンス・デイ」のローランド・エミリッヒ監督のSF。エジプトから発見されたリングを抜けて他の星に向かうとそこは……。
 リングの映像は、「アビス」で使われた、水のうねるグラフィックス。砂漠のシーンは、「砂の惑星」を思わせる。ストーリーはやや平板だが、古代エジプト文字の解読のチーフを演じた老女史がいい。(97/2/22)

マリン・エクスプレス
 手塚治虫のアニメーション。スターゲイトと雰囲気が似ているところがあったので、思い出した。チャリティ番組、24時間テレビ「愛は地球を救う」のプログラムの一部として、毎年2時間の枠で手塚アニメが放映された時期があった。私はこれが楽しみで、今年はどんなアニメになるのかと、いつも期待していた。
 「マリン・エクスプレス」は、その2作目にあたる。アトム、ブラックジャック、ヒゲおやじ、リボンの騎士(?)、アセチレン・ランプ、写楽など、手塚治虫作品のキャラクターが総出演する。疾走する海底特急の中で次々起こる事件。ミステリーあり、SFあり、手術シーンあり、メッセージありの、手塚作品の面白さを凝縮した作品。ストーリーも巧みで、2時間があっという間。手塚が自ら絵コンテを書き、背景は透明感を出すために水彩画を用いるなど、意欲作でもある。スタッフは、何ヶ月もほとんど徹夜で制作にあたったようだが、その意気込みが伝わってくる。
 第1作「バンダー・ブック」は、「愛は地球を救う」のテーマにそった雄大な作品。第3作の「フウムーン」は、古風な香りのあるSF。ラストは感動して泣いた。第4作「ブレーメン4」は、ブレーメンの音楽隊をモデルにした、「ワンダー3」に似た話し。どれも楽しい作品だった。
 今見ると、あらためて手塚治虫の偉大さがわかる。(97/2/22)

ポセイドン・アドベンチャー
 押し寄せる津波、転覆する豪華客船、上下逆さになる大ホール。
 それまでの平穏な船旅は、一転、阿鼻叫喚の地獄図となる。せまり来る水から逃れ、上へ上へ(実際は船の下部)と脱出を試みる人々。そのリーダーの牧師をジーン・ハックマンが演じている。
 初めて見たとき、その圧倒的な迫力に、こんな面白い映画があるのかと、とても興奮した。今回は3度目だが、やはりすごいと関心する。上下逆の船内部の映像も凝っているが、人間模様が丁寧に描かれ、厚みのある映画だと思った。
 主題歌モーニング・アフターで1972年度アカデミー賞を得ている。特殊映像部門でも受賞。パニック映画の大傑作。(97/2/15)

ゴールド・フィンガー
 007シリーズの第3作目。シリーズ最高傑作というにふさわしい作品。今回のテーマは「金」。
 金をこよなく愛する男、ゴールド・フィンガーを、ゲルト・フレーべが、演じている。いかにも悪人。その用心棒、オッド・ジョブが、彫像をも切る帽子を飛ばしてジェームズ・ボンドに迫る。いかにも怪人。ショーン・コネリーも、まだ溌剌とした若さで活躍している。いかにもボンド。二人の対決の舞台になるのが、世界中の金塊を集めた大金庫で、金に囲まれての決闘。いかにもクライマックス。ボンドのお相手役、オーナー・ブラックマンも、大人の色気を振りまいている。シリーズ中最年長だが、いかにもボンド・ガール。ボタンを押すだけで、カッターが出たり、助手席が飛んだりする車、いかにも007ならではのアクション。これだけ、いかにもがそろっているのだから、面白くないはずがない。
 1964年度アカデミー賞音響効果部門受賞。(97/2/9)
解けた!フェルマーの最終定理
NHK「知への旅」で放送されたドキュメンタリー。数学者アンドリュー・ワイルズの、フェルマーの最終定理証明までの苦闘を描く。
 それにしても、数学の研究を映像にするのは難しい。数学者たちが、インタビューに答えるのだが、○○の定理を証明するのは、○○の定理を証明すれば解決するなどといっているが、さっぱり分からない。その上、それを言葉で説明するのは難しい、と、そんなことばかりいっている。あれでは、数学とは近寄りがたい物という印象をよけいに与えてしまうのでは。
 何とかの定理は、何とかの定理の橋渡しになっていたと説明する場面で、急に橋の映像が出てきたり、制作の苦労の跡がうかがえる。しかし、他のドキュメンタリードラマで、「それは自ら墓穴を掘るような行為であった」という場面で、登場人物が自分で穴を掘っているシーンが出たら、それはギャグになってしまうと思うのだが、数学の番組ではそのようなことが許されてしまうのはなぜか。
 しかし、ワイルズ教授の苦悩は、こちらに伝わってきた。最後の、ピーター・フランクルの説明が印象的。「数学は、絶対的な真理を解き明かすもので、他の惑星の生物にとっても、真実である。物理学や化学は、他の星では変わるかもしれないが、数学は変わらないものである。数学者にとっては、それがたまらない魅力なのだ。」(97/2/9)

<突然クイズ>の答え
  「シェルタリング・スカイ」のベルトリッチ監督の映画「ラスト・エンペラー」に「アラビアのロレンス」の主役ピーター・オトゥールが出演している。多分答えはもっとあると思う。
1996年以前に見た映画の感想




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