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 群馬交響楽団の演奏を聴いて ('98年度)


◆◆◆ 第355回 ◆◆◆
5月23日(土) <指揮>外山雄三  <ヴァイオリン>漆原朝子

    シューベルト/《悪魔の別荘》序曲 D.84
    シューマン/ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品129
           (原曲: チェロ協奏曲)
    ラフマニノフ/交響曲 第3番 イ短調 作品44

 「定期演奏会は、その楽団が最高レベルの演奏を行う場である」と言われる。群響の今年度の演奏曲目を見ると、そのレベルの高さを示すように、意欲的な(私たち素人にとってはあまり聴いたことのないような)曲目が並んでいる。これについては、今回の会場でも様々な声を聴いた。「普段聴いたことのない曲がいろいろと聴けてよい」「他のオーケストラがやってくれない曲があって楽しみだ」とか、「知らない曲が多いねえ」「ベートーベンのように分かりやすいのをやってくれればいいのに」などなど。ベートーベンが分かりやすい曲がどうかはさておき、ポピュラーな曲を望む声が多いことは確かである。
 オーケストラは、芸術性を追求すると同時に、その地域に文化を伝える役割を担っている。群響は、移動音楽教室やミニコンサートなどでその役割を最も積極的に実行しているオケのひとつであろう。それを考えれば、定期演奏会であまり人口に膾炙していない曲を並べることもバランスの点ではいいのかもしれない。ただ、定期会員を募る段階で、そのことがどこまで理解されているかは疑問である。プログラムを組んだ趣旨や理念がどこかに示されてもいいのではと、一聴衆としては思うし、そういったことを知りたい定期会員も少なからずいると思う。

 さて、前置きが長くなったが、今回の演奏会の感想である。
 まず、今年度最初の演奏会であるのに、意外なほど曲目が地味である。最初だからバーンと景気をつけて今年度も張り切るぞというノリはなく、堅実にいい演奏をしていくんだよじっくりとねという姿勢を感じる。熱い5月であるが、演奏曲目は春霞のような曇り空のような漠とした感じをうける。
 シューベルトの「悪魔の別荘」序曲は、明快な主題に乗った演奏であった。外山氏のキチッとした指揮に答えて実によくまとまっていた。特に、弦楽器のパートのまとまりがよくなっているように感じた。木管パートの音色もよく個性が出ていると思った。

 次の曲に移る前に異例の事態が起こった。オケの引き上げた後のステージに突然指揮者の外山氏が現れ、マイクを持ってしゃべり始めたのである。次に演奏するヴァイオリン協奏曲は、もともとシューマンがチェロ協奏曲として作ったものである。その編曲版を次にやる予定だが、パンフレットの解説などでは、ショスタコーヴィッチ編曲版と書いてある。これを訂正したいという話であった。外山氏がショスタコーヴィッチ編曲版の楽譜を取り寄せてみたところ、どうもこれは管弦楽が華やかすぎてシューマンの曲として演奏するにはどうかと思う、これはショスタコーヴィッチが友人のロストロポーヴィッチのチェロ独奏を意識して書いたものであり、定演での演奏にそぐわない部分もあり、シューマン自身が編曲した楽譜を用いたいと思ったという内容だった。
 自ら作曲する外山氏だけあって、楽譜へのこだわりが感じられた。また、それを聴衆に説明する誠実さに好感がもてた。「演奏がうまくいかなかったら指揮者のせいで、うまくいったらオーケストラのせいだ。」という締めくくりの言葉が印象に残った。外山氏にしても、音楽監督高関健氏にしても、指揮者の方は普段から表現を突き詰めているせいか、スピーチもうまいと感心した。

 ヴァイオリンの漆原朝子さんの深い音色に、いつもながら聴き惚れさせていただいた。志村けんが、「コメディアンは7つ以上自分の声をもっていなければダメ」と言っていたが、漆原さんの楽器も高音から低音まで様々な表情を演じていた。
 ただ、こちらの勉強不足もあって、シューマンの曲はどうもよく分からない。甘美さはあるのだが、それが華やかではなく内面に沈静化していくようで、1度聴いただけではどう捉えていいのか正直なところ分からないのである。バックで演奏するオーケストラも、何をどう表現すべきか理解して演奏しているのであろうか。曲の雰囲気は漠然としたものがあり、瞑想的とも言われるが、演奏は瞑想だけしていたのでは何も伝わらない。単にこちらが理解力がないだけなのかもしれないが、かなり表現が難しい曲なのかなあと素人ながら思うのである。でもこの曲を華やかにしすぎてしまったら、シューマンじゃなくなるのかなとも感じ、その意味では作者編曲の版を先に聴いておいたのは良かったとも思う。

 ラフマニノフ交響曲第3番は、雄大な大地を感じる演奏であった。第1楽章の冒頭の雰囲気がとても良かった。2楽章の変化に富んだ表情も良く出ていた。ただ、曲そのものが冗長なせいか、チャイコフスキーの交響曲などに感じられる演奏後のカタルシスが、今回の曲では感じられなかったのが残念である。

 堅実なスタートを切った今年度の定期演奏会である。実力を高めている群響の演奏によって、次回以降も新しい音楽世界を知ることが楽しみである。


◆◆◆ 第356回 ◆◆◆
6月20日(土) <指揮>高関健

    シューベルト/(近衛秀麿編曲)/大交響曲 ハ長調
             〜弦楽五重奏曲 ハ長調 D.956による
    ラヴェル/高雅で感傷的なワルツ
    ルーセル/交響曲 第3番 ト短調 作品42

 この日はサッカーのワールドカップで、日本がクロアチアと対戦する日である。試合開始が日本時間の9時半からと、群響の定演が終わってすぐの時間なので、もしかして演奏会場に足を運ぶ人が減るのではと思っていたが、心配するほどお客さんの入りは悪くなかった。群響には根強いファンの層があると実感した。
 1曲目の交響曲は、シューベルトが晩年に書いた弦楽五重奏曲を、東洋人として初めてベルリンフィルを指揮した近衛秀麿がオーケストラ版として編曲したものである。
 印象としては、牧歌的であり、全体として翳りのない曲である。シューベルトといえば、「冬の旅」や「魔王」のような、緊迫感のある歌曲を真っ先に思い出してしまう。「冬の旅」の悲壮な雰囲気とはあまりに対照的で同じ作曲家が書いたとは思えないような曲であった。
 第3楽章が華やかな印象で、これが終曲かと思ってしまった。第4楽章の舞踏風で複雑な曲想も楽しめた。

 後半2曲は、高関健氏の独擅場である。特にフランスの曲の優美さを引き出すのがうまいと思う。
 ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」は、標題がすでにエスプリを含んでいるが、曲自体もエスプリに富んでいた。華麗な旋律に始まり、次に感傷的な旋律のワルツに変わる。以降、交互に対照的な雰囲気のワルツが現れる。独特の和声と変化に富んだオーケストレーションで、魅力的な曲であった。
 ルーセルの交響曲第3番は、フランスの作曲家であるので、優しい旋律で始まるのかと思ったら、最初から突然激い盛り上がりを見せたので、驚いた。なんとも情熱的で量感のある曲である。しかも若い時の作品ではなく、ルーセルが60歳を越えて書いた曲だというのも驚きである。人間、歳に関係なく、気持ちのもちようだということを教えてくれた曲だ。
 今回、どの作品も初めて聴くので、演奏の感想というより、曲の印象を述べるに留まってしまった。群響の方々も、初めて演奏する曲が多くて大変かと思うが、様々な曲に挑むことによって音楽観が広がり、着実にレベルが上がっているのではと感じる。


◆◆◆ 第357回 ◆◆◆
7月19日(日) <指揮>井上道義 <ピアノ>熊本マリ
         <舞踏>佐藤真佐美、吉本泰久、堀 登、井上道義
         <振付>石田種生

    ラヴェル/マ・メール・ロア
    プーランク/ピアノと18の楽器のための舞踊協奏曲《オーバード》
    モーツァルト/パントマイム《レ・プティ・リアン》のためのバレエ音楽
    モーツァルト/パントマイムのための音楽《パンタロンとコンビーネ》

 夏休みが始まったせいもあるのだろうか、開演前のロビーは、いつもよりにぎわっているように感じた。どことなく開放的な気分も漂っていた。井上道義指揮のバレエ音楽ということで、集う人々もいつもと違う演奏が期待できる予感があるためだろうか。

 1曲目のラヴェル「マ・メール・ロア」は、もともと子供の連弾のためのピアノ曲だったというが、ラヴェル自ら編曲したその管弦楽は、多様さを持ちながら統一感を失わず、繊細な感覚が要求され、決して表現の上で簡単な曲ではないと感じた。今回の演奏では、群響が紡ぐ精妙なハーモニーの豊かさには引き込まれるものがあった。特に印象に残る組曲3曲目の「パゴタの女王レドロネット」には、小さい頃から富田勲のシンセサイザーによるアレンジでなじんでいたので、懐かしい思いもあって、心底楽しめた。「美女と野獣の対話」の微妙なニュアンスも、井上氏の明快な指揮で、音がたつようであった。
 余談になるが、坂本龍一のCD「音楽図鑑」に収録された11曲のうちの最後の曲が「マ・メール・ロア」と名づけられている。曲の雰囲気がなんとなく「パゴタの女王レドロネット」に似ている気がするのだが、思い過ごしだろうか。
 プーランク「オーバード」は、熊本マリさんをピアニストに迎えて、室内楽風の演奏であった。群響の精鋭とピアノの掛け合いで美しく、劇的な音楽が奏でられていた。

 後半にいたって、俄然井上氏の個性が発揮される。モーツァルトの「パントマイム《レ・プティ・リアン》のためのバレエ音楽」は、モーツァルト自身がどこまで書いたのか、はっきりわかっていない。が、ともかくこの曲の序曲とNo.9,10,9,11,12,14,16が演奏された。プログラムで No.9 - No.10 - No.9 と書いてあり「?」と思ったが、曲は実際にそのとおりの順番で演奏された。最初No.9で舞台入場口左側でピッコロを吹いていた奏者が、No.10が演奏されている10秒ちょっとの間に舞台裏を走って次のNo.9では舞台の右側で演奏するということをやらされていたのだ。井上氏がこの曲を選んだのは、これがやりたかったためかと思うほど、印象深い始まりであった。その他の曲はモーツァルトの香りをかぐ間もなく、いつのまにか終わってしまった。

 パントマイムのための音楽《パンタロンとコンビーネ》は、佐藤真佐美、吉本泰久、堀登、井上道義という舞踏家を迎えてのバレー音楽であった。プロの舞踏はもちろん素晴らしかったが、プロ以外にも、多くの人が舞踏に参加した。なにより一番出演したかったのは、指揮者であるように思えた。モーツァルトの楽譜を大きく書いた紙を破って井上氏が登場し、一番派手な服を来て踊っていた。テーブルを出すステージマネージャーたちも音楽に合わせて運び、ヴィオラ奏者は倒れた指揮者にろうそくを垂らして制裁を加えるなど、皆が楽しんで参加していた。
 こういった普通のクラシックとはちょっと趣を異にした演奏に、顔をしかめる人がいるのではと思ったが、演奏会がはねて音楽センターを出る人々の顔は、皆明るく気分は高揚しているようであった。心の豊かさを与えてくれたという点で、この演奏会には多くの人が満足したのではないか。音楽を通じて会場が一体となる感覚が味わえることは、演奏会に参加する大きな喜びであるから。


◆◆◆ 第358回 ◆◆◆
9月20日(日) <指揮>高関健
           <ソプラノ>豊田喜代美  <アルト>秋葉京子
         <テノール>吉田浩之   <バリトン>多田羅迪夫
         <合唱>群馬交響楽団合唱団 <合唱指揮>阿部純

    ブラームス/《運命の歌》作品54
    ベートーヴェン/交響曲 第9番 ニ短調 作品125《合唱付》

 群馬交響楽団合唱団は、今年で10周年を迎える。あまりに有名な「第九」が曲目に上がった理由のひとつとして、この合唱団の節目の意味で「第九」を本格的に勉強しておこうという高関音楽監督の意向があった。その点では、参加した一人として、たいへん多くのことを学ばせていただき感謝している。特に、阿部純先生の曲の解釈を交えた合唱指導は素晴らしく、「第九」の第4楽章がいかに多くのことを含んでいるか教えられた。例えば、543小節からの有名な歓喜の主題
   Frude,schoner Gotter funken,Tochter aus Elysium −
は、4分の4拍子ではなく、8分の6拍子である。行進曲としては変則的な拍子が選ばれたのは、架空の行進を表しており、最強の軍隊がやってくることを象徴している−など、知の深層に訴えるような解説をしてくださり、毎回はっとさせられるレッスンであった。
 もっとも、合唱の表現に関しては、素人の悲しさ、なかなか身に付かなかったり、教えられてその時できても次の練習ではうまくいかなかったり忘れたりと、本番近くではさしもの忍耐強い先生も内心穏やかではなかったのではと、恐縮している。ともあれ、80時間に及ぶ密度の濃いレッスンを経て、約300名の合唱団員が群響と共にステージに上がることになった。

 ブラームス「運命の歌」は、オーケストラ付き合唱としては、「ドイツ・レクイエム」の次に重要な曲と言われている。前半の穏やかな天上の描写と、後半における人間の運命の無常さを表現したコントラストが鮮やかな曲である。
 この曲が群響で演奏されるのを初めて聴いたのは、本番2日前に行われたオーケストラと合唱との合わせの時である。合唱団にとって、オーケストラにあわせて初めて歌う時は、緊張すると同時にたいへん楽しみでもある。実際自分たちの歌がどのように曲の中に入っていくのか、ここで初めて知るからである。
 「運命の歌」は、前奏のたとえようもなく美しい群響のハーモニーに聴き惚れ、これから自らが歌うことをしばし忘れる程であった。しかし、合唱については、最初のオーケストラ合わせのときにいつも愕然とする。あまりにオケとあっていない気がして、自分たちがずいぶん間違って歌っているのではないかと感じるからである。(実際自分は、暗譜で歌ったので歌詞や音の長さ、強弱などが数カ所違っていた)それでも、何度か合わせをする中で、少しずつまとまっていたように思う。シチューも作ってすぐより、寝かせるほどに野菜や肉のうまみが解け合っておいしくなる。合唱も、指揮者の呼吸やオーケストラの響きを吸収して徐々になじんでいく感じはあった。
 ベートーヴェン「第九」は、団員の中に歌ったことのある人も多く、なじみのある曲だが、やはり細かい表現となると難しい。特に、弱音で歌われる敬虔さが必要な部分が難しいように思った。キリスト教文化では日常に浸透しているが、日本人に希薄な、「大いなるものへの畏れ」の感覚が要求されるためであろう。
 自分自身は初めて歌う曲であり、本番でどこまでレッスンで教えられたことを実行できるか不安はあったが、当日は楽しんで歌おうと決めた。
 オーケストラ合わせの楽しみのひとつは、曲の様々な部分を切り取って聴かせてもらえることにある。中でも大きな御利益は、普段聴けない、合唱をはずした伴奏がきけることである。これがとても興味深い。特に「第九」については、伴奏にこれほど豊かな曲想を用いているのかと驚くと共に、ベートーヴェンがいかにこの楽章に工夫をこらしているか味わえ、貴重な体験ができた。

 本番、「運命の歌」は、15分に満たない小品にもかかわらず、群響の豊かな響きに和して歌うことは大きな喜びであった。ブラームスの曲に内包されている諦観や慰めといった要素を合唱でどこまで表現できたかわからないが、オーケストラの敬虔な美しさは素晴らしかった。なんといっても、ごく間近で指揮者の表情を見ながらオーケストラ・サウンドを味わえるのが最高の贅沢である。これが味わえるだけも合唱をやっている価値があると思った。
 さて、「第九」である。本番では、合唱団員は第2楽章の途中から舞台裏に入り、第3楽章はじっとそこで待機していた。300名が舞台裏で息を潜めてじっと静かな第3楽章に聴き入っているのである。会場は立ち見席ができるほどであり、この会場では聴衆が一番多い演奏会だったかもしれない。

 舞台裏での一番の思い出は、群響合唱団3年目の曲、マーラーの「復活」の時である。私にとっては、初めての合唱本番であった。やはり第3楽章を舞台裏で聞いたのだが、その時は指揮者の振る姿を脇から直接見ることができた。この曲では遠くからの軍楽隊の響きを表現するため、舞台裏にオーケストラ奏者の一部が控えていた。指揮がわかるように、奏者の前にはビデオカメラで前から捉えた指揮者の姿が、ディスプレイに写っていた。つまり、こちらは控えている時に指揮者の横からの姿と前からの姿が同時に見られたのである。これは強烈に面白かった。指揮者は十束尚宏氏であった。マーラーの傑出したスケルツォを振る十束氏の厳とした指揮が、横からと前からと同時に見られる体験は、その演奏の素晴らしさと相まって印象に強く残っている。

 話がそれたが、「第九」の本番は、高関氏の明確で親切な指揮のおかげで、たいへん歌いやすかったように思う。オーケストラにとっても、血肉化した曲であろう。だからといって、決して安易な演奏になってはいなかった。オーケストラは曲の表出に全力で取り組み、ソリストは精神の高みを込めて歌い、合唱はそれに和すべく努めた。自分としては、オーケストラとの一体感のある瞬間が味わえ、満足であった。

 合唱指導の先生方や、ソリストの方々は、本番の後のセレモニーでいろいろと合唱について褒めてくださった。それは合唱団員に次の曲に取り組む意欲を持たせるための、指導者としての暖かい姿勢の表れであろう。
 合唱を長くやっている友人から、演奏の感想を聴いた。以下、彼の言:
 「ごくろうさま。歌う方も疲れたでしょう。ブラームスはパートがよくまとまって聞こえたよ。ベートーヴェンは、オーケストラはほんとうに良かった。合唱はね、パワーは感じけど、全体に同じように聞こえてしまったような気がする。第九というと、日本では年末にやってお祭りさわぎみたいな感じがあるじゃない。それがあって、つい力んでしまう習慣があるのかなあ。メリハリがあればもっと良い演奏になったと思うよ。」


◆◆◆ 第359回 ◆◆◆
10月29日(木) <指揮>ルドルフ・バルシャイ  <ヴァイオリン>神谷美千子

    ヴェーバー/《精霊の支配者》序曲 J.44-6
    モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲 第4番 ニ長調 K.218
    ショスタコーヴィチ/交響曲 第15番 イ長調 作品141

 ヴェーバーの歌劇「精霊の支配者」序曲は、ずいぶんあっさり終わったという印象。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番は、比較的簡素な感じの演奏だが、神谷さんのバイオリンの音色がたいへんに澄んでいて、素晴らしかった。ただ、ゴーという低音でなる音楽センターの空調はなんとかならないものかと思った。カデンツァのときなど、そのノイズがどうも気になって音楽に集中できなくなってしまう。空調がききだすと、かならず咳き込む人が出るので、構造的な欠陥があるのではないか。
 ショスタコーヴィチの交響曲第15番は、こちらの受容能力の問題かもしれないが、よくわからなかった。曲の中に様々な暗喩があるとのことだが、思想的な背景をよく知らないために理解できない。どうもイデオロギーが全面に出てしまうものは苦手である。あるいはショスタコーヴィチの曲がイデオロギッシュなものという先入観があるせいで入り込めなかったのだろうか。キンポコとパーカッションがよく活躍していた。2楽章がやたら長い曲だと思ったら、そのうち拍手が始まって驚いた。すでに4楽章まで終わっていたのであった。やはりこちらに受容できる素地がないと、音楽を味わうのは難しいと感じた。


◆◆◆ 第360回 ◆◆◆
11月14日(土) <指揮>ジャン・フルネ
          <イングリッシュ・ホルン>ミリアム・ハンネカート・ジュークス

    ヴェーバー/オペラ《魔弾の射手》序曲 J.277
    ヴォルフ−フェッラーリ/イングリッシュ・ホルン協奏曲 作品34
    ブラームス/交響曲 第2番 ニ長調 作品73

 今回の定演では、特にブラームスの交響曲をとても楽しみにしていた。自分にとっては、本格的な交響曲を聞くことに飢えていたためだ。前回のショスタコービッチは、いまひとつのめり込めなかったし、その前の第九では合唱に参加したため、じっくり聴ける状態ではなかった。さらにその前の定演では井上道義氏のパフォーマンスが全面に出ていたので、エンターテイメントとしては楽しめたが芸術とは少し方向が違う気がした。今回、久々にブラームスの交響曲で真のクラシックが堪能できるのではという期待があったのだ。

 ヴェーバーのオペラは、前回も第1曲目に取り上げられた。珍しいことに2回続けて同じ作曲家の序曲が演奏されることになった。しかし、印象は全然違った。前回のヴェーバーは、ずいぶんあっさりと終わった感じがしたが、ジャン・フルネ氏の指揮による今回の演奏は実にドラマチックな演奏であった。例えるなら、前回の演奏はメイン・ディッシュの前に少し水を飲んで喉をしめしたようなものであり、今回の演奏は食前酒として極上のシェリー酒を頂いたような感じだ。

 イングリッシュ・ホルン協奏曲は、どこかユーモラスでどこか懐かしい楽器の音色に魅せられた。群響のアンサンブルもソリストとよく息が合っていて、掛けあいが楽しめた。音楽の明快さとソロ楽器の明朗な音色が、音楽の喜びを素直に伝えてくれる。
 最初のヴェーバーの曲は中世ヨーロッパの雰囲気が色濃いドイツ音楽であり、第2曲はイタリアの明るさを体現したような曲である。ブラームスは43歳にして初めて交響曲第1番を完成させ、それからわずか数ヶ月後に、ユーゴスラビアの国境近い風光明媚なヴェルター湖畔の村で交響曲第2番を作曲している。今回の定演の曲目は、第1曲から第2曲で、ブラームスの交響曲第1番から第2番へ取り組む間の心象風景の移ろいを象徴しているような気もする。

 ブラームスの音楽は、しばしば「秋のソナタ」と形容される。交響曲であっても、その内容は個人的な独白であるかのようなある種の翳りを帯びた雰囲気を持っている。しかし、個人的なつぶやきであるにもかかわらず、聴いているうちに慰められる底知れぬ豊かさを内包していて、その点にブラームスの曲のたまらない魅力を感じる。
 ブラームスの4曲の交響曲の中で、第2番は比較的明るく伸びやかな曲想が多く、親しみやすい。しかし基調はやはり個人的独白であり、その明暗のバランスが絶妙であることも名作たる理由のひとつではないか。

 ジャン・フルネ氏は、明と暗、静と動のコントラストを実に微妙にコントロールし、格調高い演奏を聴かせてくれた。間合いの取り方、表情の変化のさせ方が巧みであり、しかもそれが音楽の流れに極めて自然であるために恣意的な感じがしない。指揮も決して大げさではなく、自然に棒が動かされているかのように見えた。にもかかわらず、豊かな曲が泉のように湧き出てくるのは、魔法を見せられているようであった。
 群響のメンバーも、フルネ氏に応えて実に素晴らしい演奏を聴かせてくれた。その音色の美しさ、調べの確かさは、前回とまるで違った。なぜこうも違うのか。それは曲に対する共感、指揮者に対する共感が深いからに他ならないだろう。名曲を形作っていく喜び、指揮者の音楽表現への畏敬の念を抱いて演奏していることが、聴いている側にまざまざと伝わってくるのだ。演奏後、長い間続いた心からの拍手が、その証しである。フルネ氏は85歳の高齢であり、足をやや引きずりながら拍手に応じて5回もステージと舞台袖を往復していた。指揮者の長い人生から紡がれた音楽と、それに応えた群響のメンバーに、自然と頭の下がる思いの一夜であった。


◆◆◆ 第361回 ◆◆◆
 1月23日(土) <指揮>高関健  <ピアノ>児玉桃

    ヨハン・シュトラウスII世/オペレッタ《くるまば草》序曲 作品463
    モーツァルト/ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271 《ジュノム協奏曲》
    R.シュトラウス/交響詩《ドン・キホーテ》作品35

(今回の定期演奏会は、風邪をひいてしまい、聴きにゆけませんでした。申し訳ありません。いま流行している風邪は、熱がなかなかさがりません。ご自愛ください。)




◆◆◆ 第362回 ◆◆◆
 2月27日(土) <指揮>マルティン・トゥルノフスキー  <ヴァイオリン>石川 静

    ヤナーチェク/組曲《利口な女狐の物語》
    モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲 第5番 K.219《トルコ風》
    ドヴォルジャーク/交響曲 第8番 ト長調 作品88 B.163

 今回の指揮者は、プラハで生まれ、国際的に活躍しているマルティン・トゥルノフスキー氏である。ヤナーチェク、ドヴォルジャークと、チェコの作曲家の曲を本場の指揮者の手によって聴けることは楽しみであった。
 ヤナーチェクの組曲は、「利口な女狐の物語」の内容を知っていて、どの楽器がなんの役割をしているのかわかっていれば、より楽しめたのかもしれない。今回は演奏前にプログラムの冊子に目を通すゆとりもなかったが、物語への先入観なく聴いてみるのもいいものだと思った。音楽そのものの良さに触れられるからだ。独特の品性がある曲だと感じた。

 モーツアルトのヴァイオリン協奏曲は、石川 静さんの澄んだ音色を、抑制の効いた群響のオケが支えていた。カデンツも見事だったが、オケの微妙な音量のコントロールも良かった。

 ところで、演奏そのものとは関係ないが、休憩時間15分というのは短い感じがする。トイレにはけっこう人が並んで待っているし、コーヒー売場にも長い列が出来ている。最近は、これに駐車場の事前精算の列が加わった。したがって、トイレに並び、駐車券の精算をして、コーヒーを買うとすぐに休憩時間終了のチャイムがなる。コーヒーを急いで飲んで舌をやけどしたことがあったので、最近はミルクを入れて温度を下げてから飲むようにしている。休憩ホールは何となくごたごたとして和やかさがあまりない。とにかく慌ただしい。
 休憩時間には、演奏について語らう時間があり、ゆとりをもって次の演奏を聴けた方がいいように思うのだが。

 ドヴォルジャークの交響曲第8番は、群響の十八番といってもいいだろう。なんといっても、海外公演の折に作曲者の祖国チェコで演奏したという素晴らしい実績を持っている。
 自分は過去に2回、この曲の群響の演奏を聴いている。1994年4月の定期演奏会と、1995年10月に行われた群響創立50周年記念演奏会である。共に指揮は高関健氏であった。50周年記念演奏会では、海外公演でチェコの空気を吸ってきたためか、曲が完全にオケの血肉と化しており、演奏の瑞々しさにたいへん感銘を受けたおぼえがある。もともと明快な曲である上に、高関氏の明快な指揮がよくマッチして、カタルシスのある演奏であった。
 今回のトゥルノフスキー氏の演奏は、チェコの叙情を色濃く感じるものであった。第1楽章の初めからすぐにその音楽の世界に引き込まれた。各パートの活躍もはっきり際だってわかる演奏であった。第2楽章の静かな部分と華やかな部分の対比もよかった。第3楽章は、冒頭の音色のまとまりが素晴らしく、ノスタルジックな曲想が格調高く迫ってきた。第4楽章は、冒頭のファンファーレが見事で、後は自然な高まりをみせた。最後の落ち着いた部分がゆっくり叙情的に演奏され、ラストの高まりがより際だった。しかし、あくまで品性で抑制され、”行け行け”のノリとは少し違うフィナーレであったが、それだけに全体の余韻が残ったように思う。高関氏のすごい盛り上がりのラストも魅力的だが、叙情に重きを置く演奏スタイルも良いと思った。
 豊かな曲想に溢れた名曲と、チェコを代表する指揮者、そして叙情性と暖かみをもった群響の幸福な出会いがもたらした希有の演奏であった。


◆◆◆ 第363回 ◆◆◆
 3月19日(金) <指揮>高関健
    マーラー/交響曲 第9番 ニ長調

 今年度のフィナーレとなる定演は、マーラーが完成させた最後の交響曲である。あらゆる交響曲の中で、技術的にも精神的にも最も高みが求められる曲のひとつと言われている。この難曲に群響がどう応えるのか興味深いところであった。

 第1楽章は、ずいぶんと控えめな演奏という印象をうけた。低弦やホルン、ハープに導かれ、ヴィオラが不安を表すかのような六連符を弾く中、ヴァイオリンが独特の雰囲気を持った旋律を奏でるのだが、最初にヴァイオリンの音が出るときに感じる色濃い情緒がいまひとつであったように感じる。この曲の足取りは静かに始まり、不安を表すモチーフも含まれるが、芯にはマーラーが生きてきた50年の生涯を踏みしめるかのような画然としたものが欲しかった。拍子の変化も激しく、複雑なパッセージに彩られた精緻を極めた楽章であり、演奏者はたいへんであろうと感じた。しかし、それ以上に何かを表現をしようという強い目的意識がなければ、聴衆に伝わるものは少ない。
 この曲を作曲した当時、マーラーは最愛の娘を亡くした精神的なショックに加え、心臓病の宣告をされて自らの命もあまり長くないことを知らされた時期であった。宗旨変えをしてまで得たウィーンでの指揮者の地位も追われ、活躍の場をアメリカに移していた。新天地ニューヨークでは演奏活動が超人的に行われ、死への思いと生への肯定が常につきまとっていたようだ。交響曲第9番も、それを反映してか、静と動、明と暗が激しくせめぎ合っている。その相克を描くには、瞬間の変化が重要であるはずだが、今回の群響の演奏では、特に第1楽章において表情の変化が緩慢に思えてならなかった。

 第2楽章の舞曲も、曲そのものがアンビバランスを表現している。そのため、各パートが一見ばらばらの旋律を奏でる部分もあり、破綻の一歩手前になるのだが、そのぎりぎりのところで統一感を持たせているのがマーラーの名人芸である。群響の奏者は破綻を避けてなんとかしようという心理が働くのだろうか、無難にまとめようとしている感じがしたが、ここはそれぞれのパートが個性を発揮してもっとくっきりと表現したほうが曲の本質が浮き上がるのではと思った。

 第3楽章は静寂が訪れる前の最後の乱痴気騒ぎだが、このようなリズムは高関氏の得意とするところで、群響もよく応えていて、調子が出てきたと感じた。暗い地から突然緑の大地に出たような旋律が広がる部分も、たいへん清々しかった。

 終楽章のアダージョは、今年の定期演奏会もこれで終わりという思いが奏者たちにあったのだろうか。情のこもった出だしであった。緊張の糸がとぎれずに最後まで聴けた。ヴァイオリンパート全体の音域がよりまとまれば、更に美しくなったと思う。
 ブルーノ・ワルターが「青空にとけていく雲」と言った最後の部分も、ゆったりと丁寧に表現されていた。ただ残念なのは、曲が終わって指揮者が動きをとめるとすぐに拍手が始まってしまったことだ。音が消えてからの時間もこの曲の重要な部分であるのだ。多くの人は、拍手はまだ早いと気づいて手を止めたが、一人だけ大きく拍手をし続けた人がいた。あたかも自分はこの曲の終わりを知っているのだと誇示するかのような不遜きわまりない心ない拍手であった。群響の演奏が良いフィナーレだっただけにたいへん残念なことである。94年10月にサントリー・ホールで聴いたクラウディオ・アバド指揮、ベルリン・フィルによる同曲の演奏では、最後の1音の後、静寂が3分ほどは続いた。この曲は、聴者にも精神の高みを求める曲であることが今回の演奏ではっきりとわかった。

 今年度の群響定期演奏会も、様々な曲で有意義な時が過ごせた。来年度は1999年から2000年にかけてという、変わり目を感じさせる年である。群響の定演でまた新しい音楽体験ができることを楽しみにしている。


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