表紙>入試問題を読書する 2009年度版

   >入試問題を読書する 2011年度版へ



はじめに


大学入試問題というのは、とてもよい文章が選ばれているのである。
しかも現代の最先端の思想などのエッセンスがわかるのである。
最先端でなければ、漱石のような重鎮の懐かしい味わいのある世界にふれることも出来るのである。
そうするとまた、漱石を読み直してみたいと思ったりもするのである。
先日も漱石の「永日小品」の「火鉢」が入試問題にあり、これを読んだら居ても立ってもいられなくなり、
漱石全集を10年ぶりに引っ張り出して味わったのである。
「火鉢」には漱石夫婦のさりげない心のふれあいが描かれており、漱石は奥さんのことをずいぶんひどい書き方をしているのだが、
この作品をみると、漱石は奥さんを慕っていたことがよくわかるのである。
そしてまた、明治の冬の寒さがいかに厳しかったかもわかるのである。
三歳になる漱石の息子が一日中泣いていて、漱石は仕事にならないので、奥さんにどうにかしろというのだが、
息子が泣いているのはとにかく寒いからなのだった。
今のようにストーブもあるわけじゃなく、石油もあるわけじゃなく、火鉢しかないのだ。
火鉢などはその周囲のわずかな空間しか暖めてはくれない。
小さな子どもはどこか病気なわけではなく、ただただ寒さに泣いていたのだった。
そういうことを思い出させてくるのも読書の効用だ。

さて、そういうわけで、入試問題をぜひ、読書して欲しい。

入試問題に出てくる最新思想のエッセンスをここに紹介いたします。すべては旺文社の全国大学入試問題正解を使用しました。


作者作品一覧



エッセンス紹介


岡真理「戦争」の対義語としての文学
 アフリカで子どもが飢えているとき文学に何ができるか(サルトル)

 包囲されたサラエヴォで「ゴドーを待ちながら」を上演すること
 「アーミナの縁結び」が描く、戦争で死んだ人々の縁結びをする狂気の女の話

「コラテラル・ダメージ(やむを得ない犠牲)」の一言で人間の死が正当化されるなかで、文学とはまさに戦争の対義語なのである。



山崎正和「歴史の真実と政治の正義」
 政治的正義の本質は社会の秩序と安寧を実現することにあり、法的な真理に依拠する。 法的な真理とは、ある時点での最大多数が納得する真実であり、絶対的な学問的真理とは異なる。したがって、灰色決着や和解もあり得る。
 東京裁判での利益の代償としていまだに決着の見えない外国からの非難を受けている。
 相続法によれば、資産を引き継いだものは負債をも相続しなければならない。



寺沢宏次「子どもの脳に生きる力を」
 脳は不活発型(反応が鈍く集中しない)から興奮型(何でも反応してしまう)を経て不活発型(間違いのない反応)へと成長していくのが理想だが、近年、成長しても活発型にならない傾向が増えた。
 その原因として、運動、祭りなどが減り、人間関係の煩わしさを避け、前頭葉をますます運動不足状態にしてしまったから。感情の浄化、カタルシスが行われなくなったから。



友野典男「行動経済学‐経済は「感情」で動いている」

実験1 100人のグループに対して、各人に1以上100以下の好きな整数を選んでもらい、全員の数値の平均値の2/3に最も近い数字を選んだ人を勝者とするというゲーム。結果 回答平均値は25〜40であった。

合理的に考えれば、平均値は50となり、その2/3は33となる。しかし、皆がそう考えるとすると、全員33を選ぶから、平均値は33となり、その2/3の22が候補になる。しかし、さらに誰もがそう考えれば、その2/3その2/3となって、最終的には1を選ぶことになる。

実験2 四枚のカード、E,K、4,7があり、「母音が書いてあるカードの裏には偶数が書かれていなければならない」という規則がある。それを確かめるためには、どのカードの反対側を確かめる必要があるだろうか。という問題

pならばqであるという命題があるとき、qでないならばpでないという対偶も真であるから、Eと7のカードを確かめればいい。



斉藤環「家屋は家庭を幸福にするか」
 大改造!劇的ビフォーアフター」ではリフォーム後の家屋は、毎回似通ったパターンにおさまっているように思われるのだ。
 視聴者の関心はアフターを見たいのではなく、ビフォーを見たいのではないか。



田島正樹「読む哲学事典」
 エイロネイア(空とぼけ)言葉の表面上のメッセージとは違う裏のメッセージを、その発話態度の中に忍ばせる。
 イロニー(皮肉)は同じ表現内容に対して、正負二重の価値を割り振る。皮肉は第三者を必要とする。



東浩紀「郵便的不安たち#」
ポストモダンとは、複数のモードが混在し、どれもが支配的になることなく並行し続ける文化状況の到来。大きな物語の解体。

人々は各自勝手に世界に「意味」を与えるほかない。記号が意味を剥奪され、消費者の感情移入により満たされるほかない空虚な容器、無意味な「情報」として漂う。
メッセージの意味よりもそれが流通していることの事実性のみが伝わる。



川島武宜「科学としての法律学」
法律学は精緻な技術の学である。秘伝奥伝的な技術の体系だと思われている。
法的価値判断は単に個人の主観的な意欲や感情に依存するのではなくて、原則として当該の社会の中の或範囲の人々の利益の基礎の上に立つところの社会的な価値の体系を反映するものであり、その限りでの客観性をもつ。=実践行動
人は現象の発見と現象の制御・支配・変革という科学の究極の目的を実現するために、諸々の経験的事実によって検証した結論に従い価値判断を下す。



加賀野井秀一「日本語を叱る!」
若者言葉
 今からマヂ、渋谷とか行っとく?
 だよね。マヂ遠すぎて他界しそう!
 マヂ、パないよね!(半端じゃない)
 でも俄然ハイパーで行くっきゃないっしょ!(超特急で)
リズミカルな乗りと仲間内だけで通じる隠語的性格
感性の洗練ばかりであり、論理性の欠如。
自分たちと異質な「他者」が存在しなくなり、同時に内省的にもなれないし、抽象的思想もできなくなる。
タコツボの中で大半を過ごすことになる。



中島義道「悪について」
果てしない負い目が私を窒息させる。
五体満足で、健康で、定職が与えられていることに対する負い目。
カントによれば、人間は「自然の本性からして」悪である。どんな善人も悪である。悪はすべての「善くあろう」という意志の中に溶け込み、社会を「善くしよう」という欲求の中に紛れ込む。このことを全身で受け止めて悩み苦しむこと、それがとりもなおさず「善く生きること」なのだ。



鷲田清一「感覚の幽い風景」
ひとが最も自分の存在を感じるのは、他者の意識の宛先として自分を感じる時である。
近代の都市生活というのは寂しいものだ。
彼/彼女が帰属する社会的なコンテクストから自由な個人として構成される社会。
血縁、地縁という中間世界が消滅して、社会に漂う。
みずからコンテキストを選択しつつ自己を構成する個人。
自分で選択しているつもりでじつは社会の方から選択されている。
社会的なリアリティーがますます親密なものの圏内に縮められていく。



阿部謹也「世間」論序説

世間とは本来サンスクリット語のloka(場所)の漢語訳であり、世の中、世間を表す言葉であった。現在の日常語としての「世間」は「自分たちの活動、交際する場としての社会とそこに住んでいて自分と直接、間接のかかわりを持つ人たちのこと」
しかし、世間には移り変わり、迷いの世界としての衆生をさす「有情世間」と、山や川、大地などの「器(き)世間」の区別があり、人間関係だけではない。
明治以降、学問の世界では個人を単位として構成されている社会という言葉を使うようになった。
個人は自分が世間をつくるのだという意識は全くもっていない。
個人ごとにさまざまな世間があり、常に世間の目を気にして生きている。
世間がもつ排他性や差別的閉鎖性は公共の場に出たときにはっきり現れる。
電車の中で宴会を始めたり、騒いだりする人たちはそこで排他的な世間をつくっている。



中牧弘允「会社のカミ・ホトケ」
日本の会社は主体的にカミと結ばれている。
会社宗教は信念体系、儀礼体系、組織体系をそなえたシステムであるl
会社宗教に聖俗二元論はあてはまらない。
俗なる仕事や組織に聖なる意味を付与すること、それが会社宗教の大きな役割。
イエは純粋な血縁集団ではなく、家族や親族以外にも奉公人などをふくむ社会的な基本単位である。しかも、父系母系にこだわらない双系的な集団であって、ひんぱんに養子縁組をとおしてイエの継承がはかられてきた。
屋敷神は家屋と敷地の神を意味する。三十三回忌や五十回忌のおわった先祖の霊が屋敷神になるという伝承があるように、祖霊信仰が屋敷神の性格に加味されている。
会社信仰の二つのルーツは、屋敷神と先祖祭祀がもっとも重要である。



小原信「孤独と連帯」
孤独がかならずわれわれを訪ねてくるのは、われわれ人間存在の旅人的な性格にも関係がある。われわれは時間のなかで絶えず変貌をとげている。
時間と認識とのずれ−これが孤独の原因なのである。、
われわれの認識は、いつも後手後手にまわって、もはや取り返しのつかなくなったときにはじめて、そのものの値打ちを知るようになる。
孤独は、努力して自己をつかもうとする者が、過去的な自己しかつかみえず、しかもその自己はもはやどうにも変更できない自己として固定しているということに起因している。
〈関係のなかのこわれた関係〉関係をのぞみつつすでにこわれてしまった関係
真に孤独に耐え孤独のうちに自己を形成し、自己の責任を負って生きていくことは、すぐれて高尚な仕事に属する。



鷲田清一「現代おとな考」
大事な「未熟」を守るためにも、ひとはもっと「おとな」にあこがれるべきである。
「おとな」とは生きる上で欠かせない能力(働くこと、調理すること、修繕すること、そのために道具を磨くこと、育てること、教えること、話し合い取り決めること、看病すること、介護すること、看取ること)をもつこと
「未熟」とは、われをわすれて夢中になれること、かちっとした意味の枠にとらわれず、世界の微細な変化に深く感応できる感受性をもつこと



山川方夫「他人の夏」
人間には、他の人間のこと、とくに生きるか死ぬかっていう肝心のことなんかは、決してわかりっこない、人間はだれでもそのことに耐えなくっちゃいけないだ。だから、目の前で人間が死のうとしても、それをとめちゃいけない。その人を好きなように死なせてやるほうが、ずっと親切だし、ほんとうは、ずっと勇気のいることなんだ。
よく見ろ、おれは、こいつに勝ったんだぞ。生きるってことは、こういう手ごたえのことなんだよ。・・あのとき親父は泣いていました。
その親父も自殺した。背骨を打ってもう漁ができなくなって、この沖で銛をからだに結わえ付けてとびこんじゃったんです。



茂木健一郎「「みんないい」という覚悟」
今日に於いて、世界の多様性を握りつぶすことにつながると懸念される契機には、さまざまなものがる。たとえばグローバリズムの動き、ITネットワーク化の拡張による標準化の事態、
世界の多様性の問題と裏腹の関係にあるのが、「差別」と「平等」の問題である。
差別や平等という言い方は、一種の序列構造を前提にしている。
差異は上下関係という関係に写像されるという世界観の下では、できるだけその差異を隠蔽して、均質なものとみなそうという動機付けがうまれる。
「政治的な正しさ」のうさんくささは、「みんなちがってみんないい」という多様さへの賛美ではなく、むしろ本音では単一の価値体系を信じている単純なる世界観、小市民的凡庸さにある。
身長が低い人を「垂直方向に挑戦されている」と言い直す。
近代科学事態に世界観としての原罪がある。差異をどんどん無効化し、消去していく無限運動の始まりである。
おばあちゃんと恋愛する可能性を引き受けて世界について考える覚悟



佐藤健一「歴史と出会い、社会を見いだす」
ひとが「大人になる」ということは、「歴史」と出会うことである。
そして「歴史」に出会うことは、「社会」を見いだすことでもある。
歴史に出会うとは、過去に驚くことである。
過去とは「終わり」の感覚によって区切られた時間の体験である。子どもには過去も未分化なまま現在の内側にある。
大人になるとは、過去がわれわれの現在を支えているという事実に気づくことである。今の社会のありようを、変えることができるという希望のもとで、過去からの経緯に学ぶことこそ、歴史を考えることにほかならない。そのような態度を「史心」という。
しかし、この社会では歴史と出会いにくい。
近代社会が進歩、発展ばかり語り、過去へのこだわりを切断させるからである。
現在中心主義でなく、「史心」から歴史とは何かを考えると、
歴史は過去の事実の足し算ではない。
歴史はむしろ現在とのかけ算である。過去の出来事に現在の意味づけが掛け合わされて歴史が存在しはじめる。
過去の事実は変えられないが、歴史は変えられる。歴史は諸事実を相互につなげる解釈であり、原因と結果をつなぐ説明であり、過去に関する物語だから。
歴史は単語レベルの事実ではなく、「文脈」レベルにおける原因と結果の関連づけの物語であって、正解は一つではなく、解き方すらわからない問題と向き合うことである。



岡ノ谷一夫「動物はしゃべらない」
動物の鳴き声とその脳機能を研究しているので、動物のことばがわかると誤解されるが、動物にはことばはない。あるのはコミュニケーションだけだ。
ことばとは、象徴機能を持つ記号列(単語)を、限定された順番(文法)で結合して、森羅万象と対応づけるシステムのことで、新たな意味を創造することもできる。
コミュニケーションとは発信者が受信者の行動に影響を与えることにより、結果的に利益を得るような動物同士の信号の伝達のことである。
ハダカデバネズミはほ乳類で唯一の「真社会性」動物である。真社会性とは繁殖個体が限定されていて、その他の個体は繁殖を手伝うだけで自分では繁殖しない社会集団をもつことである。
ハダカデバネズミは十七種類の発声を行い、職業階級に特有な鳴き声がある。互いに鳴き交わしてもいるが、ことばではない。



小林秀樹「自分探し」について考える」
探すまでもなく「あなたはあなた」ではないか。
「アイデンティティーの確立」という問題である。
「私は私以外の何者でもない」という素朴な実感は、記憶の連続性・一貫性やそのつどの感覚の固有性・不可疑性にある。
どこかに「ほんとうの私」があるような幻影を追い求めている。
「じぶん探し」の答えは、何らかの他者との関係性のうちに、自らを新たな固有性とともに見いだすことである。



林家木久蔵 落語「子はかすがい」
問 人とのコミュニケーションをとることについて、落語から学べることがいろいろあります。あなたは、落語からどのようなことを学び、自分のコミュニケーションに活用できると思いますか。具体的な状況を想定して、その活用の仕方について説明しなさい。

主聖ならば、臣忠なり=主が英明であるならば、臣下は忠誠を尽くす。



浅沼圭司「読書について」
 芸術とはかけがえのない個性的ないとなみと作品と、それらをすべてつつみこむ自律的な−固有の法則によって完全に統御された−領域という対立する関係のあいだに、多様なレベルの集合(ジャンル)を介在させ、しかもそれぞれのジャンルのあいだに、一定の法則的な関係を設定することによって、ひとつのシステムとしてとらえられたもの。
ジャンルへの所属は、作品の価値の一つの根拠となる。
 現代の特徴として、価値基準のゆらぎ(芸術の日常化)があるが、今なお分類(ジャンル分け)は不可欠である。
 例えば、「近代的な枠組みを超えようとする尖鋭な営み」という分類も可能。
 感覚の領域に従って区分される分類、さらに使用する材料にしたがって区分される分類も可能。
 ジャンルに把握には、厳密な理論的な態度とともに、微妙な変化を識別する鋭敏な歴史的まなざしが要請される。



神林恒道「近代日本「美学」の誕生」
 子規の「写生」とはどのようなものだったか。
 日本絵画は水墨画などで実物からどんどん離れてしまった。その後を受けて、応挙や呉春一派の輪郭的写生が出た。これは理屈的写生に落ちてしまった。そこに油絵が入ってきて、完全な感情的写生ができるようになった。
 あるがままに客観的に描写するだけで、従来の月並風とは異なった魅力ある句が次々と作られたが、実は写生とは客観的な自然を主観的に捉えることなのだと気づく。
 それは、セザンヌの方法と同じだった。セザンヌは自らの感動をカンバスに再構築(実現)すると称した。斎藤茂吉の写生論である「実相観入」も同じ事である。
 芸術とは美の世界の発見であり、モチーフは日常のどこにでもある。
 子規が蕪村を評価したのは、月並風の消極美に厭味を感じたからだが、消極美を代表する芭蕉と積極美を代表する蕪村とそこに優劣を持ち込もうとしたわけではない。現状打破して俳句芸術を革新するために蕪村の積極美を賞賛したのだ。
 そうして、その二面を弟子の碧梧桐と虚子が代表することになる。



小町谷朝生「眼の不思議世界」
 人間の色彩世界は脳が描き出す仮構の世界である。それは人間だけがもつことのできる充実した現実の楽しめる世界である。
 人間の生活は、単なる生存としてではなく、意識し味わうレベルにある。人間は肉体的行動性より心性的行動性が重視されるようになり、心でも見る、特殊な視覚静物となった。 〈心の視覚生物〉にとって、視覚情報は二手に分かれる。一つは外の世界を解読する情報化の途。大脳皮質機能で、言語秩序化の働きをする。もう一つは心身に拡散して情報化する途。これは心的機能で、イメージ化の働きをする。前者は知的な作業であり、後者は感性の仕事である。感性が想像も創造も行うのだが、現代は感性が正当に評価されていない。言葉と感性とイメージの三者がうまく作用して知の構築に向かう。
 眼にも「識」があり、豊かな「識」をもつことによって正しい判断に基づいた行動がとれるようになる。「知行合一」である。眼の感覚による情報収集と行動との間に感性が入り込みバランスのとれた行動がとれる。



坪井秀人「感覚の近代」
 現代は、お寺の鐘や物売りの声など生活の豊かな音の数々が失われた。公的な情報は今や新聞、ラジオ、携帯などの情報技術を通して伝えられ、街中の肉声は公的な情報たりえなくなるという転倒が起こっている。
 ラフカディオ・ハーンが「神々の首都」というエッセイで取り上げている音(ね=声)
「大根やい、蕪や蕪」「あめ−湯(飴売り)」「河内の国、瓢箪山、恋の辻占(辻占売り)」



沼野充義「W文学の世紀へ」
 日本語が「乱れている」といわれる今、強く求められているのは「国際化」である。「国際化」は母語をおろそかにしながら外国語を使いこなせる人間を要求するという転倒がある。
 言葉を持つようになって以来、言葉というものは「乱れ」ていたのであり、「乱れ」は進化していく生き物の証である。ソ連が崩壊した後のモスクワは激しく言葉が「乱れ」ていた。しかし一方で見知らぬ他人どうしが直接言葉をぶつけあい、互いの存在を認識し合っていた。これからの情報化社会で失われていくのはこの「交感機能」であろう。
 だが、言葉はしぶとく生き延びていくだろう。言葉は人間以上の生命力を持ち、人間社会を逆に作っていく働きさえ備えている。言葉を支配する者は、世界を支配することになる。



清水克行「喧嘩両成敗の誕生」
 今から二十年前、大阪で滑稽な、しかし当事者にとっては大まじめな裁判が起きた。
町内会長の選挙をめぐって互いに根拠のない発言をした二人が互いに名誉毀損で訴えた。判決は双方が双方に二万円ずつ支払えというものであった。
 問題は、これを「けんか両成敗」ととらえた社会の反応である。ここから「勝者と敗者をはっきりせず、まるくおさめたほうがいい」という価値観が根強いことがわかる。
 喧嘩両成敗は中世社会の苛烈な騒擾のなかから生まれた紛争解決策のひとつである。
 この名残として、「過失相殺」「保険料の労使折半原則」などが挙げられる。
 この制度は柔軟で衡平な損害分担を図り、何事も丸く収めるという反面、事実が軽視され、必要以上に調和が優先されるという弊害がある。さらに、被害者にも落ち度があったはずだという無根拠な思いこみを持たせることもありうる。
 喧嘩両成敗の眼界を理解し、真摯な討議を尽くすことが大事である。
 「柔和で穏やかな日本人」像は定着しているが、その穏やかさの内に激情的な執念深い気質が隠されているのかもしれない。



鈴木謙介「カーニバル化する社会」
 対人関係のデータベース化はそれ自体が対人関係であるかのようなイメージを与える。 対人関係は今や〈繋がりうること〉へと転換した。「友達」とは〈繋がりうること〉が確保されている対人関係全般を指す。友人関係が、自己とデータベースの中に閉じていく事態が生じうる。
 それはさらに、「個人化」にも通じている。
 「個人化」とは、近代社会の大枠が崩れ、あらゆる出来事が個人的な選択の対象になった事態を指すが、二段階に分けられる。
 第一段階は「リニアなモードの個人化」で、社会関係の中で必要な「役割」を身につけ、その都度変わる「役割」を統一する「主我」をアイデンティティーと呼んだ。
 第二段階は「ノンリニアなモードの個人化」で、他者との関係で自分の「キャラ」を自在に変化させていくもので、「キャラ」を統一する自己イメージに乏しい。その時々で矛盾する自己を無反省に断定する、いわば「脱社会化」した自己である。
 そこでは、もはや「本当のもの(アイデンティティー)」は手に入らない。



中沢新一「対称性人類学」
 幸福という日本語は、「hapiness」や「bonheur」の訳語として生まれた。「hapiness」や「bonheur」には時間性が関与しているが、日本語の「さち」には時間性は含まれていない。「hapiness」や「bonheur」は神の恩寵をめぐる宗教的思考が背景にある。平凡な日常の時間の中に突如として異質な時間が垂直に侵入してくる。「神の恵み」は神のおこなう人間への純粋な贈与である。返済の義務はない。
 日常は、「交換」と「贈与」にもとづく循環のサイクルである。交換は分離し、贈与は結びつける。交換は非対称の原理にもとづき、贈与は対称性の原理に従う。
 「hapiness」や「bonheur」は対称性無意識の働きが深く関与している。
 「さち」は境界を表す「さ」と霊力を意味する「ち」との合成語である。無限に豊かな外の世界からもたらされるのが「さち」である。そこには対称性の思考、贈与論的な思考が働いている。
 漢語の「福」も、生命と死が共存する対称性の原理に貫かれた領域から福神からもたらされるものです。
 つまり、幸福とは限界づけられた世界を壊して、無限の領域に触れるという、日常性の破壊をもたらすような恐ろしい意味を内在させている。資本主義ともつながりがあります。幸福とはすぐれて人類的な現象なのです。



養老孟司「無思想の発見」
 言葉によって人は「ほかの人はこう思っていると思っている」という「同じ」という世界に住む。これには客観的根拠はない。言葉は世界を単純化して最後は唯一絶対の神様に至る。現実から思想へと階層化して順次上に登っていく。これは脳の働きであり、それを外に出して論理的であると言っている。これを放置すると、抽象的な「同じ」世界しか存在しなくなり、多様性が見えなくなる。それを「解毒」するのが感覚世界である。
 科学は感覚の世界を基礎とする。しかし時間が経つとふたたび「同じ」世界に戻る。
 現代人はその「同じ」世界に安住し、「既成の言葉をただ運転している」だけである。既成の言葉を感覚によって捉え直し、差異を見いだすことで新しい言葉を創る作業に悪戦苦闘している人々に支えられているのだ。



浅井了意「堪忍記」
 同じ子どもの中には成功している子もいれば、貧しい子もいる。成功して豊かな生活をしている子が親に贈り物をすると、親はそれを貧しい子に与えていまう、それが親の心の平等というものだ。それを恨んで、恵まれている子が親に不孝をするとしたらおおきな間違いだ。もし、今恵まれている子も貧しくなれば同じように親はいたわることであろう。



西山哲郎「近代スポーツ文化とはなにか」
 「より速く、より高く、より強く」という理想への偏愛は記録へのこだわりとなって現れている。新記録がでなければその大会は失敗だと評価される。
 人間の体の構造上、物理的にもはや競技記録は限界まで達している。これ以上の記録を出すには、人体改造しかありえないだろう。
 記録だけにこだわると、日本の「大矢数」の競技のように、競技自体が衰退してしまうだろう。
 そこで、ジグムント・ローランドの「緩和の技法」が提案された。
 記録ではなく、個別のスポーツの実践そのものに興味の焦点を移し、様々な条件を用意したり、競技をシリーズ化したりして、より人間的な駆け引きや戦術による楽しみの追求を主張した。
 だが、まだ進歩の理想にとらわれていて不徹底である。
 スポーツの本質を「不必要な障害をあえてもうけて、それを克服しようとうする試み」と定義するなら、別に進歩という課題を設定する必要はない。



唐甄(とうけん)「潜書」
 秦王が狩りに出るというので、民は場所を移動しようとしていたところ、韓生という者が秦王の愛児が病気だから狩りは中止になると予想した。根拠を問うと、秦王の愛児は凧を好むが、ここ数日凧が揚がらないからだと言った。
 「天下の物、形を見れば以て微を測るべし。智者は之を決し、拙者は疑う」と。
(形として現れた物を見れば、そのわずかな変化からものごとを予測したり的確な判断を下したりできる。智者はそれを行い、愚かな者にはそれがわからないのだ)



水村美苗「エパテ・ル・ブルジョア」
 過激な言葉で人を驚かすのが「新しい」と思っていること自体が「保守的」なのである。 それは近代小説の歴史さえ知っていればわかることである。
 「自分はそのへんの俗物とは違う」という自意識で書いたものは成功しない。
 「エパテ・ル・ブルジョア」(俗物の度肝を抜く)というフランスの決まり文句があり、過激な言葉で驚かそうとする作者のもくろみ自体がすでに新しくないのである。
 ブルジョアとは、最初は単に町の人という意味だったが、フランス革命のころ、古い貴族と対立する新興町人階級という意味をもつようになり、さらにブルジョアが世を支配した時代に「俗物」という意味をもつようになる。
 それは文学の中心が詩や劇から近代小説へと移行し始めた時代である、芸術家という概念も俗物の対として生まれた。
 「俗物」とは、近代小説の書き手にとって、金がありながら自分の小説だけは買ってくれない無数の人々のことであり、「芸術家」とは、その対極にある人々である。
 近代小説とは一方で「商品」であり、もう一方で「芸術」であるという二つの価値をもち、過激な言葉で驚かし、「商品」として流通しても、「芸術」としては残らない。



山折哲雄「教えること、裏切られること」
 戦後の民主主義、平等思想により、「師弟関係」という人生軸が否定され、会社でも学校でも、個体と個体の「人間関係」が大切だという「人間関係第一主義」が支配して今日に至っている。しかし、このごろそのほころびが目立ち始め、不安や不満が爆発寸前の状態になっている。



火野葦平「月かげ」
 その河童は背中の甲羅のしめりを草のうえをころがることで取り去るのだった。
 河童はたえがたい孤独にとらわれ、空を仰いで悲しみを感じても、「泣く」という行為を禁じられていた。一度泣くと水分をすべて失い死ぬことになるからだ。
 あるとき、かれは茄子を食べに畑に出たところを後ろから鎌で刺される。七度まで鎌を刺された。痛くはないが甲羅のしめりをとるために寝ころぶことができなくなり、深い悲しみをおぼえる。月かげの下でかれは泣けないという悲しみを感じたとき涙が流れた。死にゆくかれのくちばしにはかすかな微笑が浮かんでいた。



西谷敬「関係性による社会倫理学」
 倫理学は、自己自身と他者との関わりにおける規範に関わっている。
 一般倫理学は他者一般との関わりを問題にしている。他者はそこでは私に対峙するだけでなしに、私の行為、意向の客体と見なされる。共感、愛もしくは憎しみの対象なのである。そこでの道徳の拠り所はあくまで主体としての自己であり、自己責任である。これを個人倫理学と呼ぶこともできる。
 社会倫理学は、一般倫理学の特殊部門であり、特定のもしくは条件づけられた人々との関係における倫理を論究する。この場合他者は私の行為の客体であるとともに、それ自身が行為の主体である。上司の命令に従う場合などがあてはまる。ここでは個人を超えた集団が機能するためにはどうあるべきかということが問題になり、他律が評価される。
 集団や制度がいかなるものであるかを知るには、その目的、精神を知ることであると考えられるが、それは困難なので、マックス・ヴェーバーは、国家をその目的ではなしに、それが用いる特有の手段、暴力によって規定しようとした。このように国家に関して様々な意見があり対立があるのは当然である。これは家族についても同様である。
 個人はその関係にしたがって、国家に対する態度を決め、国家に働きかけるとともに、国家は何をなすべきか、いかにあるべきかを考察し指定すればいいと考えられるが、一方、他者との強力、対立があり、組織の影響の下で何をなすべきかが決定される面もある。
 したがって、個人そのものというよりも、個人と個人、個人と集団との関係に注目して社会倫理学を構築する必要がある。



中山元「思考のトポス 現代哲学のアポリア」
 散歩することは、思考にとって思わぬ刺激となる。ギリシャの哲学者にとって散歩は思考を深め自己の鍛錬のために利用された。
 近代にいたっても散歩を思考の習慣とした人物にルソーがいる。ルソーにとって散歩は自己との一体感を味わう重要な方法だった。
 ニーチェは歩きながら考えた。永劫回帰の思想も散歩中に生まれた。
 歩行という営みは、その思念を生み出すための身体のリズムなんであり、外の光景を眺めてはいない。
 旅には二種類ある。外の世界の旅と内面への強度をもった旅である。
 強度をもった旅では、経験は純粋な質のようなものとなる。
 これに対して、ベンヤミンの遊歩者は主に都市の街路を散歩する。一つは都市のパノラマを作り出していく営みであり、その街路の歴史を語り直すことである。そこで都市は風景になる。それだけでなく、都市は室内ともなる。そこでは遊歩者は眺める主体であるとともに、眺められる客体でもある。主体としての遊歩者は商品を観察し、資本家が消費者の動向を調べる手がかりともなる。この遊歩から資本主義の秘密を解明しようとしたベンヤミンの手続きは魅力的である。
 僕たちの精神の秘密は、身体を動かすという単純なところから解きほぐされることもあるのだ。



加藤尚武「環境倫理学のすすめ」
 環境倫理学の第一の特徴は、人間だけでなく、生物の種、生態系、景観などにも生存の権利があることを主張する。第二の特徴は、世代間関係の重視、あるいは未来の人間の生存権の保証という思想である。自由主義の原則に他者危害排除の原則が含まれる以上は、私が他者の権利を侵害しないで石油を使うことができない。これは現代世代の未来世代に対する一種の犯罪である。
 「世代間倫理」が存在しないならば、環境問題は解決しない。
 ところが、近代社会の倫理的決定システムは人格間の「相互性」を特徴としている。これはつねに「現在の同意」、現在の世代間での相互性に帰着する。近代の進歩主義は、自分で未来世代の生存条件を悪くしておいて、未来世代が自分より繁栄すると信じているが、それは虚偽であり、欺瞞である。
 古代から封建主義まではすべて伝統主義という性格をもち、意志決定システムは通時的であった。それが近代によって共時化されてしまった。
 生命倫理学では、痛いか痛くないかという現在の感覚が価値判断の原点であり、環境倫理学では、未来への責任を倫理的な原理に導入する。
 日本資本主義の「成長イデオロギー」がますます力を増すにつれて、生きる意味がますます遠ざかる。成長が減速すると安定度が減少するという危険な体質が定着しつつあるのだ。



恒吉僚子「人間形成の日米比較」
 アメリカの小学校では教師が個人リーダーとして、自ら指示を下して児童を率いていく仕組みであるのに対して、日本では教師が集団による役割分担と児童相互の規制を利用しつつ、直接統治と間接統治とを併用する形になっている。
 どちらが統制が厳しく、どちらが自主性を尊重していると言えるのか。
 集団や他者から独立した「個」を強調し、権力に対する警戒もことさら強いアメリカ人からすると、日本の小学校の小集団活動も、権力を握る人々が背後から操る統制手段のようにみえる。



加藤宏明「聞き間違いはなぜ起こる」
 聞き間違いには、音響レベルと単語選択レベルの二つの原因がある。前者は音響的情報の処理、後者は意味的情報の処理における誤りである。さらに条件として、話し手の意図と異なる単語を聞き取ることである。
 言い間違いは精力的に研究されている。その典型は「音位転倒」であり、「お薬」を「おすくり」としたり「電信柱」を「電信ばらし」という類である。この「音位転倒」を聞き間違いで目にすることは少ない。
 その数少ない例として、「日本音楽協会 聴覚研究会 様」という例がある。これは「日本音響学会 聴覚研究会 様」が正しい。前者の方がなじみ度が高かったのであろう。



田村明「まちづくりと景観」
 「まち」とは共同の空間というハードと、その人々の生活、それを動かすシクミやルールというソフトを含めた全体をいう。
 「まち」は自然にできるものではない。日本の都市は「まち」をつくるという意識がないままにできあがったため、全体にとりとめがなく乱雑で個性を失っている。
 「まち」が美しくないのは、都市計画は国の仕事であり、自治体は決められた計画の執行者にすぎなかったこと、都市計画の責任ある主体としての市民という意識がなく、住民が景観に誇りを持ち、愛情をもって育てるという意識がなかったからだ。
 しかし、「まち」への無関心を法律や役人のせいにしていても始まらない。市民の連帯意識やコミュニティー形式の成立が非常事態のときに生きた例もある。



内田芳明「風景の発見」
 人は日常生活のいたるところで風景という言葉を使う。ここには風景概念の日常化という現象が見られる。人は風景という言葉にある種の愛好、親しみ深い感情を持っている。景色はもともと自然風景について使われ、文化的生活面には使わないし、景観という言葉は狭い部分的、場所的外観をいうのに使われている。
 今日の自然破壊を進行させてきた人間と文化の強大な根源的な諸力を前にして、自然と人間と文化の再生はいかにして可能かという問題には、この風景概念が有効となろう。自然風景に立ち返り、その風景において自然の生命と心を観得する風景感情の覚醒が重要となる。単なる主観でなく風景の他者性への転換が生じなければならない。
 さて、風景という言葉には平和的なるもの、静かなるもの、生活的なるもののたたずまい、一瞬休息しているたたずまいという意味が含まれている。これは戦争などの破壊的な行為、劇的動的な状況とは対極にある世界である。
 風景はこのように無意識に日常化して使われているが、本来は自然風景であるということ、そこに立ち返ることがまず求められている。



清水哲郎「死に直面した状況において希望はどこにあるか」
 死に直面した状況での希望とはしばしば、「直るかもしれない」という希望的観測のことだと思われている。
 だが、それでは最後まで希望をもって生きることはできないだろう。そもそも「告知」の正当性は、患者が自分の置かれた状況を適切に把握することが今後の生き方を主体的に選択するために必須の条件であると考えたところにある。
 終わりのある道行きを歩むこと、今私は歩んでいるのだということ、そのことを積極的に引き受けるときに、終わりに向かって歩んでいるという自覚が希望の根拠となる。「希望を最後まで持つ」とは、「現実への肯定的な姿勢を最後まで保つ」ということである。つまり、自己の肯定、これまでの人生を肯定し、今の生を前方の向かって踏み出す姿勢が希望である。
 その肯定的な姿勢の源は、人間の生のあり方にある。生は独りで歩むものではなく、誰かと悲しみを共にしつつ歩むところにある。



中野好夫「多すぎる自己没入型」
 日本では、他人の危険を目の前にして、キャッとかアレッとか同情の叫びを上げるのが好まれ、ヘッ、ころびやがったという反応は心が冷たいと批判される。しかし、私はころびやがったに心惹かれる。
 キャッというのは対象への自己没入であり、ころびやがったは対象と自分との距離感の余裕から生まれる。日本人は自己没入型が多すぎるからユーモアがないと言われる。
 ウィリアム・ジェームスは心の型を二つに分けて「硬い心(タフマインド)」と「軟らかい心(テンダーマインド)」とに分けた。「軟らかい心」は自己没入型であり、主観的、感傷的、悲観的である。「硬い心」は客観的、理性的、楽観的である。
 そうした「軟らかい心」の伝統の中で、川柳文学の「硬い心」を珍重したい。
 「行水のすてどころなし虫の声」に対して、「鬼貫は夜中タライを持ちまわり」と茶化し、「起きてみつ寝てみつかやの広さかな」に対して、「お千代さんかやが広けりゃ入ろうか」とやる。
 ギリシャの「オデュッセイア」で作者は、命からがら逃げてきた主人公はたらふく食べた後ではじめて不幸な仲間たちの運命を悲しんで泣いたと書いている。空腹を忘れて悲しんだとは書いてない。



橋本治「浮上せよと活字は言う」
 「若者の活字離れ」とは「大学生の活字離れ」に過ぎない。「今の若者は、私たちが読んだような思想書は読まずに、別の思想書を読んでいる」ということだ。本を読むやつはいつだって読む。読まない人間はいつの時代にもいる。
 近代の日本は怠惰になりがちな若者たちに強制力にも似た声で絶えず本を読めと言い続けてきた。それが思考力を養い自由を得るためだと。今、活字の側は「活字離れ」などというレッテルを貼って、啓蒙の努力をしていない。
 今の活字文化の側は自分たちとは系統の違う文化、例えば視覚文化などの読み取りを拒絶し続けてきた。
 活字離れというのは、活字文化という閉鎖的な社会に起こった過疎化現象だ。若者たちは活字文化の閉鎖性を嫌い、新しい文化に移ったのだ。
 活字文化の側の責任は想像を絶して重いのだ。



関根清三「本の真贋」
 本の真贋、テキストの真実と虚偽の問題について考えることがある。
 味わいながら行間に入り込んで読む本の数を指折ってみるとあと千冊程度になるから、なるべく効率的にホンモノと出会いたいのだ。
 ふつう本を選ぶ際、面白いか否か、心の琴線に触れるか否かで判断する。これは主観的な基準である。自分以外の客観的な基準もある。
 ホンモノに出会ってもさらに問題がある。一つは読み手の消化力の問題。もう一つは古典にもニセモノが混じっているという問題である。同じ著者でも書き直された複数のテキストがあった場合そこに広い意味の真贋問題が生じる。
 真贋の見分け方は結局、知への愛、何らかの価値への熱い思いがあるが有るかどうかである。また、我々自身、知への愛をもって、熱を持って読み解いていけば、そこにホンモノが生まれることもある。「鑑賞も一種の創作だ」ということだ。



小林秀雄「考えるヒント」
 批評とはいつも私にとって実際問題であった。自分の仕事のささえとなった具体的な確実の条件は、自分の批評家的気質と生活経験のほかには何も見つかりはしない。じょうずに書こうとする努力は払ってきた。
 批評とは人をほめる特殊な技術だ。皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文を成したものはない。してみると、クリチックという外来語に、批評、批判の字を当てたのはちとまずかった。
 ある対象を批評するとは、それを正しく評価する事であり、その在るがままの性質を、積極的に肯定することであり、そのためには分析あるいは限定という手段は必至のものだ。 批評精神は自己主張はおろか、どんな立場からの主張も、極度に抑制する精神であるはずである。
 美的な印象批評をしている時期はもはや過ぎ去った。学問的知識に無関心で批評活動なぞもうだれにも出来はしない。
 批評は非難でも主張でもないが、また決して学問でも研究でもないだろう。むしろ生活的教養に属するものだ。生きた教養に属するものだ。観念論ではない。批評家各自が、自分のうちに、批評の具体的な動機を捜し求め、これを明瞭化しようと努力するということにほかならない。


落合洋文「生態的社会論・序説」
人間も動物としての本性は利己主義を基本としている。ただ人間は言葉をもったおかげで、粗野な欲求を上品な外皮でくるむことをおぼえたのだ。
 一方、全ての生物はまわりの環境に適応している。適応とはまわりの環境にうまく合わせることをいう。人間もたとえば強い紫外線を浴びる赤道付近では黒い肌が、逆に紫外線の不足する高緯度地方では白い肌が進化して、皮下に達する紫外線量を調節している。
 このように人間は生物学的な存在であると同時に社会的・文化的な存在でもあるから、文化に適応していることが重要だ。文化とは社会的遺伝子ということもできよう。
 集団主義的な文化では、摩擦や衝突をさけるためのさまざまな智恵が生まれた。
 文化には利己主義をコントロールしたり、またそうすることで社会に柔軟性を与えたり、軌道修正を促したりするような調整作用が備わっている。文化は人間における適応戦略のグランドプランといえるだろう。



梅原猛「伝統と創造」
 アイヌの世界観において驚くべきことは、動物も植物も天の世界ではすべて人間の形をして、家族生活を営んでいると考えられていることである。アイヌにとって、熊も木もすべて人間と同じものであるが、彼らはその身をわれわれに提供するためにこの世に仮装をつけて出現するとうわけである。その返礼としてわれわれはこの客人を礼儀正しく迎え、その魂を無事天の国に送り届けねばならないのである。
 キリスト教による世界観では、人間はすべての動植物を支配する権利を持つという思想で、人間と動物の差別の上にたつ世界観だが、アイヌの世界観は人間と動物を本来同一と見る世界観であり、前者よりはるかに勝手な考え方ではない。
 アイヌ語で「ありがとう」は、「ヤイライゲ」というが、これは私を殺してくれという意味である。
 もう一つ、アイヌの世界観は、霊の循環という考え方である。死者を天に無事できるだけ早く送るということは、その死者の霊の再生を可能にすることである。
 太陽は毎日死んで再び生き返るのである。
 アイヌの世界観は、人間から世界を見る世界観ではなく、世界から人間を見る世界観なのである。



歐陽脩「非非堂記」
 心静かなれば則ち智識明らかなり、是を是とし、非を非とし、施して中らざる所無し。是是はおもねるに近し。非非はそしるに近し。不幸にして過たば、寧ろそしるもおもねることなからん。是は君子の常なれば、これを是として何をか加えん。未だ非を非とするの正しきと為すに若かざるなり。
 目を閉ざし心を澄まして、今を覧(み)、古を照らす、思慮所として至らざる無し。故にその堂に非非を以て名と為すなり。



大浦康介「フィクション」
 文学をいかにとらえるか。
 ひとつには文学の根幹に虚構性をみる立場がある。これは文学に対するテーマ的なアプローチである。歴史書が個別性を志向するのに対して文学作品は普遍性を目指すということである。
 もうひとつは文学の本質を日常言語に対比される文学言語の美的性格(自己目的性)に求める立場である。
 フィクションとは何か。
 フィクションはつねに言説であるか、言説的構造をもっている。フィクションが成立するためには意味を発する者とそれを受け取る者とが必要だということである。
 フィクションとウソとの区別は話し手の発話に対する心的態度によって決まる。フィクションもウソも現実との呼応関係の欠如(指示対象を持たない)という意味で同じだが、ウソはホントウであることを主張するが、フィクションは真偽をもともと問題にせず、一種の抽象化された真実、ひとつの叡智としての真実を提示する。アリストテレスのいうフィクティブ(可能である)という語に由来する。



茂木健一郎「生と死の不良設定問題」
 「尊厳死」や「安楽死」を巡る問題は、半永久的に落ち着きどころが見つかりそうもない。死は、人間にとって最も直視するのが難しい問題である。人間の致死率は100%である。死に至るプロセスについて考えること自体が、人間にとっては強烈なタブーである。死はそもそもの出発点からして、「不良設定問題」である。
 カミュの「シーシュポスの神話」で、男はこの上なく不自由にも思える境遇の中にこそ無限の自由があると感じるのだ。どんなに苦しい思いをしていたとしても、それが自分の人生の宿命であり、引き受けるしかないと思い詰める。そのような「覚悟」から、私たちは困難を生きる力を引き出してきたのではないか。
 生きることは、人間にとってあらゆる価値の上に立つ「メタ」な意義を持つ。「安楽死」がどこか割り切れない思いが残るのは、とにかく一秒でも長く「生きる」ということが、いずれ死んでいくしかない人間にとっての至上命令だからだろう。
 どんな場合でも、カミュの覚悟をもって生きるしかない。尊厳死や安楽死など想定したくない。



安野光雅・藤原正彦「世にも美しい日本語入門」
 文語体入門に最適なのは、「初恋」(島崎藤村)です。他に北原白秋「からまつ」。森鴎外「即興詩人」。
 文学は「舞台の上」です。文語体は、歌舞伎みたいに様式の整った舞台。表現は舞台の上にのせる仕事といえそうです。文語は口語より段違いに格調がある。



西垣通「個人とは何か」
 「テレビとネットの融合」が実現すれば人間観や社会観がかなり変化していくことは間違いないだろう。
 まず、個人の自律(自立)性の強調である。戦後の日本人の多くは消費共同体と会社共同体の中で生きてきたが、インターネットによって「個人」という存在がクローズアップされてくる。
 しかし、「個人」とは果たして自明な存在なのだろうか。欧米では「個人」とは神の理性を分有する分割できない存在であり、自由意思に基づいて思惟し行動する主体とされている。
 では、具体的に「個人」とは何を指すのだろうか。近代の認知科学は、心が決して首尾一貫した単一体ではなく、むしろ複数の心的モジュールの集合体とみなすべきだという事実を明らかにした。心が一種の「社会」を形成していると主張する。自己の多元性。
人間とは、六十兆個の細胞の共生体とも言える。ミツバチは女王を中心とした群れ全体を一つの「個体」とみなすほうが適切かも知れない。
 だが、このことが、法制度や経済制度における「主体的個人」の否定にはつながらない。「個人」という虚構を社会的に認めることが生存にとってきわめて重要である。それは「自律システム」として心を眺める視点を確保することである。
 生命や心や社会などの複数にからみあった位相において、どこに自律性を見届けていくかを、システム論的に探求していく努力が大切なのだ。



伊集院静「雨あがり」
 手本は手本の域を出ない。教えられたものは教えられた域を出ない。目に見えるものには限界があるということだ。人が人に教えられるのは精神しかないんだよ。君たちの仕事なら、姿勢と言いかえてもいいかもしれない。

小楓一夜天酒を偸み、却って孤松を傭ひて酔客を掩ふ=小さな楓がある夜、天の酒を盗み飲んで酔ったために赤く染まり紅葉し、かえって、一本の松を傭って酔った楓の木(自分)を隠している。



イ・ヨンスク「言語という装置」
 日常生活でことばをそれとして意識することはめったにない。「ことば」が流暢に流れるためには、「ことば」を意識してはならない。しかし、「ことばの」自然さは幻想にすぎない」。ことばは「社会集団ごとに無限に変異する人間的活動」なのである。言語能力の生得説を唱える生成文法の立場からは反論があろうが、個々の言語の「文化的側面」はかなり違う。
 ことばと意識との関係は、身体と道具との関係にたとえられる。ことばが身体の延長であるかぎり、それは外的物体としても内的心理としても意識されない。そもそもことばを話すようになるのは、ことばを身体化(内面化ではない)しているからである。
 身体の延長としての道具としてのことば」と「装置としてのことば」との違いは、身体性の介在があるかどうかによって区別できる。道具はわたしたちを解放するが、装置はわたしたちを拘束する。



守田志郎「むらの生活誌」
 頂上まで杉を植えてあるところは土が崩れて杉が流されたところが多いという。嶺のあたりは土が痩せているのと広葉樹は根をしっかり張るので、水も土もよく保つからだという。山の民の長老はそれらの理屈を説こうとせず、ただ杉の植え方をしっかり教えるだけである。植え方、その伝授の仕方のなかだけに理屈が凝集しているのかもしれない。
 一方、文明の理屈は建物をつくるように「造林」ということばで頂上まで杉を植えることを要求する。
 杉山は造るのではなく育つのだ。
 山の民は文明の要求にこたえるために余儀なく造林している。



小浜逸郎「人はなぜ働かなくてはならないか」
 人間の意識は、もともと個体超越的にできあがっており、自分の身体の「いま・ここ」に直接かかわりのないことにまでその視野を無限に広げ、そのようにして獲得された知覚情報を、自分の身体の問題として引き寄せようとする特性を持っている。
 「情報インフレ」は個人の統覚を混乱させ、いったい自分とはどういう力と限界をもった存在であり、どのような信念において生きればよいのかという価値判断をぐらつかせてしまう。いたずらに観念的・空想的な夢を追いかけさせたりする弊害も大きい。
 また、「情報インフレ」は世界を動かしている見えない巨大な力と「自分」の卑小さとの落差の感覚を増大させる。
 「本当の自分」とは自分をこれまでにかたち作ってきた「由来」と、いまおかれている「他者関係性」を土台として求められるべきである。
 人間のとって他者から承認されることは、ほとんど本能といってもよいくらい根源的な欲求である。この被承認欲求を満たす第一の条件はエロス的な他者との関係がうまく保たれること、第二の条件は社会的な評価空間にに投げ入れた自分の行為が確実によい報いを得ていると実感できることである。この二つの条件を満たせば、「本当の自分」はおのずからあらわれるのである。



柳田国男「涕泣史談」
 言葉さえあれば、人生のすべての用は足りるという過信がゆきわたり、人は一般に口達者になった。もとは百語と続けた話を、一生涯せずに終わった人間が総国民の九割以上もいた。
 人が泣かなくなった事実は文化が進み、言語の利用が完備した結果というよりも、中世以後、泣くことが悪徳のごとく無反省で自己抑制のきかないことのように思われたことと、泣くことが濫用されて効果がなくなったことと、学問が発達し、「カナシ」という古語に「悲」という漢語を宛てたため、ともかく泣くことをことごとく人間の不幸の表示として忌み嫌ったからである。
 もともと「カナシ」は悲しみだけでなく一般に身にしみ透るような強い感覚のことであり、いろいろの激情の、はっきりと名付ける言葉がない場合に「泣く」という表現方法は実は調法なのである。
 泣くことをむやみに抑圧せず、ただ濫用を防ぐように教育すればよかったのである。



養老孟司「無思想の発見」
 人間社会は「同じ」を繰り返すことで「進歩」してきた。その典型が言葉である。皆が同じ言葉を話し出すと、その反動で、個性、個性とわめき出す。
 個性というなら、多様性というべきだろう。同じを強制する世界では多様性は失われていく。
 「違い」は感覚世界に由来する。意識は出来るだけ「同じ」に変えていく。例えば十億人の人たちがただの「中国人」になり、「本日の交通事故、死者一名」となる。
 日本は無思想といわれるが、「違う」感覚の世界と「同じ」概念の世界を往復することで多様性を維持する利点を持ってきた。
 日本の思想は「自然という実体」を基礎としている。これ以上自然を破壊すべきではない。自然を大切にしろというのは田舎で暮らせと言うのではなく、自分の身体感覚を十分に利用せよということである。



赤瀬川原平「選択肢という言葉が嫌な理由」
 選択肢、という言葉がどうも嫌なのである。
「癒し」「勇気をもらった」なども公的で評論家的で嫌だ。
 選択肢という言葉が嫌なのは運命というものを埒外に置いた言葉だから嫌なのだ。これはデジカメに通じている。デジカメは選択肢が豊富で仕事上有能だが、常時選択しないと進めない世の中は自由どころか地獄である。選択肢とか自由な表現が辛いのは、自分という位置の束縛が出てくるからである。自分の思い通りにできるというのは、逆にいうと自分の思い通りにしかできないこと、自分の思いだけに閉じこめられるということである。
 自分にとって一番面白いのは、思いもしないものに出合うことだ。自分の思いを超えたものにめぐり合うことである。なぜそれが面白いかといえば、そのことで自分が広がっていく快感があるからである。



辻清明「責任と自由」
 「クリーンハンドの原則」というのがある。権利の救済を求めるものは、汚れない手をもって訴えねばならないという意味である。「イカサマとばくで金をまきあげられても、相手を訴えられない」のだ。
 私たちが通常用いている責任ということばにも、二つの意味が存することがわかる。責任とは「みずから引き受けた任務をおこなうにあたって、その行為または不行為の結果が自己に帰すること」である。ところが、引き受けた任務の限界を定める基準の如何によって、責任の範囲もおのずから異なってくる。その一は法的責任であり、その二は倫理的責任である。
 例えば、たばこが値上がりした翌日、「このたばこは安い値段のときに仕入れたから、元の値段で売ってあげる」という店があったが、そこに倫理的基準があったということだ。
 正しい責任には常にある種の自由が伴っていなければならない。法を犯してたばこを安く売ることになるからである。逆に法を守って自己の倫理的責任を麻痺させる場合もある。
 「クリーンハンドの原則」が普及していないところでは、とかく責任のなすり合いが行われる。



阿部潔「彷徨えるナショナリズム」
 「自己」はどのようにして成立するのだろうか。私たちはこの世に生を授かった瞬間から「自己」をもっているわけではない。ハーバート・ミードによれば、「他者の態度取得」を通じて、私たちは自我を形成し相手とコミュニケーションを図ることが可能になる。相互に期待/予期の交わしあいができるからこそ、私たちは社会的な規範を作り上げ、互いにそれを内面化し、さらに具体的な場面で実践していける。
 チャールズ・クーリーの指摘する「鏡に映った自己」という考え方も同様である。「他者という鏡」に映すことではじめて私たちは「自己」を知りえるのだ。
 つまり、最初に存在するのはアイデンティティー(自己同一性)ではなく、他者との関係におけるアイデンティフィケーション(同一化)だということだ。曖昧模糊とした「わたし」は、他者への同一化作用を通じてはじめて、「自分らしさ」=自己同一性を手に入れる。
 日常生活を考えてみても、「他者による承認」は「自己」が成立するうえで不可欠である。フロイドの「エディプス・コンプレックス」に典型的なように、[望まれる同一化の対象」である他者と「求められる承認の担い手」としての他者は、多くの場合同一人物である。
 自己アイデンティティーが成立する上で、「他者からの承認」は「他者への同一化」と同様に根源的な条件をなしている。



本多和子「変貌する子ども世界」
 現代の子ども−大人関係の不安定さの原因を、情報文化の急激な変化にもとめたのは、ニール・ポストマンであった。
 文字メディアの時代は大人が圧倒的に優位であったが、視聴覚メディアの時代にはその優位性を保持することが難しくなる。
 画期的だったのは、玉音放送であった。それは難解な文字言語によって作成されたもので、子どもには理解不能であった。
 ところが、戦後の進駐軍の外来語に適応したのは子どもたちであった。それは異質なものへの適応力と非文字記号に対する適応力が優れていたからである。
 テレビ時代が到来した。そこでは提示された刺激に対する、直感的で一瞬の対応が要求される。ここでも子どもたちが圧倒的に優位に立つ。
 「メディア社会の変貌は、子どもを消滅させる」と言える。
 大人の説明と指導なしに社会に対応し得なかった子どもはもういなくなったのである。



中島義道「観念的生活」
 我々は「梅雨入り」という言葉で季節感を呼び起こされる。「鬱陶しい」という言葉も個々人の快不快の描写する言葉ではなく、コミュニケーション可能な共通観念を形成する言葉である。私固有の快不快を表現する言葉は言語の条件を満たさない。
 分析哲学系哲学は「言語論的転回」を成し遂げたという。すなわち、真理の規準が心の内なる確信や明証性から、公共の言語による明証性への転回である。
 だが、観念を世界認識の基本要素と見なす観念論はそれなりの理由をもっていた。
 観念は概念ではない。概念は言語によって捉えられる。言語は普遍言語であり、その代表格が幾何学の言語である。だが、概念としての円は普遍であって個物ではない。何より丸くない。個物であり完全に丸く透明な円は観念としてしか存在しないのだ。
 哲学的思索の核心はこの「観念としての円とは何か」というような、単純な即物的な問にこそある。観念論はいまだに有効である。



 
内田隆三「国土と近代」
 都市というのは、山と里のあいだを神や死者が象徴的に循環する物深い空間ではなく、死者から一方的に分離された生者たちの平板な空間である。
 日本近代はこうした生活空間の変換を国民国家という政治的な枠組みの中で行ったといえよう。



饗庭孝男「経験と超越−日本「近代」の思考」
 漱石の「則天去私」とは、西洋からの「外発」によって促された「個」のあり方を相対化し、日本の風土の中に自覚的にあらためてそれを定位させようとした試みである。



山本雅男「ヨーロッパ「近代」の終焉」
 デカルトは、精神を真理へと導くひとつの「方法」を提示している。有名な四つの規則というのがそれだ。
 第一に、明晰判明なものだけを真として受け入れること。
 第二に、問題の分析を十分に行うこと。
 第三に、分析に達した単純な真理から順を追って複雑なものにいたること。
 第四に、問題にしようとしてしなかった点、つまり見落とした点がないか調べること。
 この「方法」はきわめて民主主義的な原理に立って構想されているものである。
 そこでは多数者がつねに無名化してゆく宿命が負わされている。
 正しい「方法」にしたがえば、だれでもが確実に知識、真理に到達しうると宣言したということだ。



中屋敷宏「経済人時代の終焉」
 現代の危機の特質は、市場経済の極限的な展開と科学技術の高度な発達が結合した所kら生まれたものであることにある。
 市場経済は、多面的な存在であり、多様な価値を持つものを、経済的存在に限定し、経済的価値に一元化していく。一つの全体である自然が、こまぎれに分断され私有され売られていく。自然は死ぬのである。つまり、市場経済は本質的に自然を破壊していくのである。



福田和也「「内なる近代」の超克」
 近代という時代は、ブルジョワジィの台頭や、市民革命、宗教改革、科学の発展、個人主義の誕生、自我の誕生といった、社会的文明的発展、進歩の如何によって規定される。
 日本には、厳密な意味でのブルジョワも、市民も、自我も存在しない。そのため、日本の「近代」が、西欧の「近代」と異なることに悩んだ。
 私にとって「近代」とは、西欧の圧倒的な力に直面させられ、自身の独立と尊厳を守ることを選択し、その苦闘の過程で、様々な自己と出会う経験である。



関根政美「多文化主義社会の到来」
 文化は人が生きるために発明された道具である。
 民族自決原則を基礎とする国民国家制度の世界システムの中に生きているために、民族文化あるいはエスニック文化の純粋性や不変性を強調しているに過ぎない。
 純粋文化ははじめからなかった。
 したがって、自文化中心主義にこだわらず、何らかの基本的な社会的価値や秩序が必要だとしても、マジョリティのルールを一方的に前提とすることを避け、諸マイノリティ集団と対等な交渉を通して作成していく必要がある。



竹内啓「近代合理主義の光と陰」
 西欧の「近代合理主義」は合理主義一般と区別される。その特徴は、能動的、積極的、徹底的性格にある。宇宙の体系的理解、人間社会の組織化、人間による自然の征服において、論理的一貫性をあくまで押し通そうとする。理性の限界を容認しない。
 このような態度は、必ずしもつねに真に「合理的」な結果を生むとは限らない。



坂本賢三「先端技術のゆくえ」
 科学の実験は、いわばブラックボックスに対して、インプットを変えてやったときにアウトプットがどう変わるかを調べることである。理論はつねに実験に先立つ。
 しかし、実験は、つねに人為的なものであって、「ありのまま」の自然ではなく、人工的な一定の条件の元での自然である。
 十九世紀には、理論の樹立こそが科学の目的であったが、二十世紀には、理論は実験のための仮説にすぎず、科学とは実験における操作とその効果の間の関係を見いだす仕事になる。解釈を捨てた科学とは、客観的自然の真理の認識というより操作に関する工学に他ならない。



一ノ瀬正樹「原因と理由の迷宮」
 迷うこと、それは人間として生きて活動していることの証である。意識的な振る舞いだけでなく、習慣的な行動も迷いとそれへの対処のプロセスを経過している。
 人間の意識的な振る舞いは可能な選択肢の中で迷うという「自由」を前提にしている。
 「意識的振る舞い」とは現代哲学の文脈では「意図的行為」と呼ばれ、「迷い」から選択というプロセスは「意思決定」と呼ばれる。だが、この二つは別々なものではなく、「迷い」から意図が発生し、意図から行為へと続く流れは相補的な一連のプロセスをなす。
 この「迷いから意思決定というプロセス」は振る舞いや行為だけに当てはまるのではなく、単なる認識や認知にもあてはまる。例えば知覚した風景を俳句に表現するときにの言葉や語彙の選択にそのプロセスが顕在化する。
 迷った上で選択するとき、そうした選択はそれぞれの選択肢の欲求・願望を実現させる「確からしさ」に基づいて行われるしかない。



本田和子「挑発する子どもたち」
 雪とけて 村一杯の 子どもかな 一茶
 この句は陽気な早春の情景をのどかに詠じているように見えて、その実、得体の知れない相貌を隠し持っている。それは孵化したばかりの蜘蛛の子を見たときのような不気味な「何か」である。
これは子どもと大人の関係性を焦点化する喩となり得る。
子どもらの「意味不明」な無秩序の蠢動に対して大人たちは身体レベルで密かに応答する。
絶えず溢れ出し、形を変えて、文化の体系に組み込まれることを拒否する子どもらのありようこそが最も挑発的であり、それに反応することで大人たちが挑発者のまなざしを持たされるのだ。



石川英輔氏の文章より
 現代文明が化石燃料に依存して成り立っているのに対して、江戸文化は太陽エネルギーだけを使って成り立っていた。
 当時は、それぞれの土地柄にあった作物を育て、季節の海産物を利用するしかなかった。
 江戸時代の産業は、人力が全てであり、能率が悪く生産性も低い。しかし、決して現代より劣っているわけではない。
 手仕事では生産過剰になる心配がない。
 手仕事はエネルギー効率がすぐれている。
 ただし、それぞれの自然環境の制約を強く受ける。
 しかし、それを前向きに利用して各地に特産品が生まれた。
 江戸時代は停滞の時代だと言われているが、実は人も物も多様性に富んだ時代だった。
 明治維新を成し遂げたのはその多様な人材がいたからである。
 今もわれわれが江戸時代から学ぶことは多い。


「子どもと学校」河合隼雄
 教育は「教」と「育」から成っている。現代においては「教」が重視され、親も子どもを社会的に優位な地位につけるために、知識を詰め込むことに熱心になるが、それは個性を破壊することになる。自ら「育つ」ことのよさを体験することが必要だ。科学としての教育研究も大切だが、多様な個に対応するにはそれだけでは足りない。
 自ら「育つ」ことが大事だといっても、放任ではいけない。じっと見守る大人が必要なのだ。
 教育とは教えることと育つことが相補的に行われなければならない。


齋藤孝「子どもに「退屈力」をつけよ」
 現代は退屈が極端にいやがられる時代だ。退屈を紛らわせるために刺激が満ちている。例えば、テレビ、インターネットやゲーム。
 私は、外からの強烈な刺激で脳を興奮させるのではなく、刺激の少ない状況でも自分の脳を満足させる能力をつけるべきだと思う。すなわち退屈の中から、何か満足感を自分で生み出す力、「退屈力」をつけようということだ。
 藤子不二雄Aのエピソードは、退屈を創造の原動力にした格好の例だ。退屈とは、精神の「ため」を作る時間だ。
 いまの子どもたちは他人と身体的な関わりを持つことに慣れていないし、粘り強さに欠けている。たとえばすぐに会社を辞める。退屈な時間が、じつは精神的な「ため」を養う時間であることに気づいていない。
 かつての日本は、「ため」という技術を会得するためのプログラムとして「型」を用意していた。「型」は基本的に退屈なものである。しかし、同じ動作を繰り返すことで、「耐える力」と「とぎすます心」の二つを培ってくれる。
 初心者には「型」の効用などわからない。しかし、この「わからなさ」に耐える能力こそが、知性なのだ。身体的な技も、クリエイティブな思考力も、知性がもたらすものであり、それは、「退屈力」によって養われる。
 肉体的精神的自由を手に入れるには、「退屈力」が必要だ。
 「退屈力」を養うにはどうしたらいいか。
 それは勉強だ。退屈な計算問題をやる過程で、仕事の段取りに自然と組んでいる。
 次に読書だ。退屈に耐えて初めて作品の全体の価値が見えてくる。
 次に書くことだ。日記は日常の中の小さな差違を大事にする意識を培ってくれる。時間を支配できる。
 結局、退屈力を鍛える方法は、「読み書きそろばん」という日本の伝統的教育だった。これはまとまった量をやらせなければ効果がない。
 幼児には退屈力がもともと備わっている。それを阻害するのは、親だ。不安になって、次々に新しい刺激を与えてしまうからだ。
 低刺激で、単調な日々の繰り返しこそが人生の本質であり、その退屈の中で自分に向き合う時間こそが大切だという認識を取り戻そう。
 外部からの刺激を一方的に受けるのではなく、それをコントロールしつつ自分の中で徐々に培われる感性は、ますます重要になってくるだろう。
青森公立大学

竹内整一「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか

「やまとことばの人類学」には次のようにある。
「さらば」=「そうであるならば」という意味の言い方を使ってきたのは、日本人が古い「こと」から新しい「こと」に移って行く場合に、必ず一旦立ち止まり、古い「こと」と訣別しながら、新しい「こと」に立ち向かう強い傾向を保持してきたから。

しかし、別の理解もある。
「さようなら」=「そうならなければならないならば」という意味あいでとらえれば、その別れの状況をそうたらしめた、何かしら不可避の定め、巡り合わせのようなものを想定している。それは、再会の希望によって別れを紛らわそうとしていないし、「farewell」のように、別離の苦い味わいを避けてもいない。事実をありのままに受け入れている。

farewell=うまくやってください。
goog-by=神様が必ず見守っているでしょう。


中村光夫「青春と知性」
「独り灯の下に書を広げて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなれ。・・」ここには書物が読者に与えてくれる楽しみの極致が、はっきりと語られている。ラスキンの「胡麻と百合」も同じ事を述べている。
 彼らが一致していうのは、書物は生き物だということである。読書とは、現実の人間の生きる社会よりずっと人間的な精神の社会に身を以て生きることなのである。
 そこにはあらゆる者がいる。しかしそのなかで彼らの地位を厳しく決定するのは、常に純粋な人間的価値である。より良くより美しいもには必ず高い席が設けられる。そこで最も尊敬を払われるのは、いつも人間に最高の生きる道を教えた賢者であり、一番同情を得るのは、誰よりも無垢な心を傷つけ破った者である。いわばこの世界は人間が獣の領域を離れて神に近づこうとする積年の願いの結晶であるといってよりのである。
 だからこの世界の存在を知ることは、それによって初めて人間として完全に近づくのである。

河野哲也「善悪は存在するか」
動物裁判とは、人間に害を与えた動物や昆虫などをその地方の慣習法によって裁判にかけることである。十二世紀から十八世紀まで、ヨーロッパで行われた。
 十三世紀の法学者ボーマノワールは、動物裁判を「無意味なこと」と断じ、動物の犯罪の責任を負うべきは所有者であると主張する。トマス・アクィナスも、理性分別のない動物は罪を犯すことも罰せられることもできないと論じた。
 動物を裁判にかけることがナンセンスなら、なぜ人間を裁判にかけることはナンセンスではないのだろうか。
 現代社会では、「刑罰の目的は、罪を犯した人の処罰によって、世人一般に、また受刑者本人に、犯罪が引き合わないことを知らせて、犯罪を未然に予防するという点に求められるのが普通である。」と言われる。
 古代ギリシャでは、人に倒れかかってその人を殺した側柱や、殺人の道具になった刀までも裁判にかけ、国外に追放した。
 裁判はもともと犯罪の抑止や予防を目的としたものではないことになる。
 法の下で人間も動物も事物も等しく裁かれる、ということの意味は、処罰だけでは説明がつかない。
 進化心理学者のハンフリーは無法状態、無秩序への恐れだ、と指摘する。裁判所の仕事は、犯罪の予防や抑止ではなく、また単なる処罰でもなく、「混沌を飼い慣らし、偶然の世界に秩序を導入すること」にあった、ということになる。

水村美苗「世界中から『国語』がなくなる日」

 英語が世界の共通言語(普遍語)として、史上例を見ないほどの力を持ってきた。そして、そのことによって「国語」としての日本語は危機に晒されている。
 私は「国語」というものを、国民国家の成立時に、翻訳という行為を通じて生まれたものだと考えています。日常生活で使う「現地語」が、古くはラテン語や漢語、そして今は英語が代表する「普遍語」からの翻訳を通じて磨かれてゆき、やがて「普遍語」と同じように、人類の叡智を刻む機能を負うようになる。それが「国語」です。
 「現地語」としての日本語は日本がある限り消えないと思います。
 私が危惧しているのは、人がその言葉を真剣に読もうという、「国語」としての日本語が生き残れるかどうかです。
 今書かれているものの中に優れたものがあるかどうかは、この際、本質的な問題ではないのです。非西洋語を母語とする人たちは、バイリンガルになるのが困難なので、いったん英語にいってしまうと帰ってこない。
 古典とは、定義上、時を越えて残ったものであり、再読するに堪えるものだということです。実際、漱石ほど何度も読みたいと思う作家はいません。
 今こそ、日本語で読み書きするとはどういうことか、日本の頭脳が英語に流出するのを食い止めるためにはどうすべきかを真剣に考えなくてはならないと思います。
 短期的な国益を考えたら日本語など捨ててしまった方が良いのではないかという内なる思いと戦いながら書きました。
 最終的には、日本語を守るのは、フランス語を守る以上に意味があるという結論に達しています。英語の世紀に入ったとは、これから世界中の読書人が、英語という「書き言葉」を介して世界を理解していくということです。
 言葉は過去の言葉の宝庫を喚起できればできるほど、たんにそこに並んでいる文字を越えた豊かさを得ることができるのです。たくさんの文章を読んできた読者だけが、その豊かさを分かってくれます。
 最終的に問題にしているのは、広義の「文学」です。「聖書」も含んだ、すべての優れた書物を論じているつもりです。ダーウィンの「種の起源」や、フロイトの「モーセと一神教」などもすばらしい文学だと思います。福沢諭吉の「文明論之概略」も文学だと思っています。
 最近出版される本は、完全に「現地語」で書かれたものが増えているように思います。 文章は読むべきものであり、自己表現の道具ではないという認識が失われてしまった。その結果、密度の高い文章を読まなくなってしまいました。
 私は学校で「近代文学」を読むのを勧めています。
 現代文学しか読んでいないと、近代文学が読めないんです。国民文学の古典としての近代文学を読み継ぐことで、読む訓練をする。日本語が「亡び」ないですむ道を辿るのに、正統的でも効果的でもある方法だと考えています。 

池内了「疑似科学入門」
 多くの人々が現代科学の粋を満喫し、科学のおかげで安楽な生活を送っているにもかかわらず、反科学の気分が強くなっている。
 自分を安全な立場において一方的に科学批判だけする態度は、社会と科学の関係を危ういものにする懸念がある。
 科学主義への失望を放置しておくと重大な過誤を招きかねない。口当たりの良い疑似科学が科学の代用になってしまう恐れがあるからだ。
 私たちは「お任せ」の体質がしみこんでしまった。
 情報を得るにしても「お任せ」の態度ではないだろうか。
 複数のメディアを比較したり、メディアで報じられない事実を探ったりする努力が必要なのである。
 人々も観客民主主義に陥り、自分は参加せず、他人のパフォーマンスを観覧して無責任な批判をすることのみに終始する。つまり「お任せ」し続けていると、自分で考えることを忘れ、見かけの姿だけで判断するようになってしまうのだ。
 家庭ですべき躾や日常生活で獲得すべき知恵も、全て学校で教えることを要求する親が増えているようなのだ。教育の「お任せ」化である。
 「自己責任」の時代と言われながら、実際は逆の事態が進行しているのである。

清水良典「文学の未来」
 「文章読本」の中で、谷崎は口語文を改良しようと試みた。
 近代の口語文の欠点として、谷崎が指摘しているのは、「表現法の自由に釣られて長たらしくなり、放漫に陥りやすいこと」である。
 故有島武郎は最初英文で書いて、それを日本文に直したという。それと同じ方法で文体改革をおこなった現代作家が、村上春樹である。それは、旧態依然とした日本語(文)以上に異物であるような人工物の文章を自分の手で生み出すことであった。
 日本の近代文学者はみんな多かれ少なかれ、それぞれのフィールドで新文章の創出に血道を上げたのであり、彼らの日本文の異化の競争によって近代文学は形成されてきたのである。
 谷崎は、ほとんど終生にわたって、文章が「自然」化する誘惑と闘い続けた。文章という「不自然」で「有害」な異物を、あくまで異物として創出しつづけた。一種の永久変革宣言ともいうべき意志を、この書で明らかにしているのである。
 二十世紀の日本語文章を追い抜いて、谷崎文学は行く手に新たな発見を待ち受けて聳えている。

笹原宏之氏の文章「訓読みとは何か」
 訓読みとは何か。
 漢字の「山」には、mountainの意味が含まれている。この「山」(古代の中国での発音はsanに近かった)が他の漢字とともに日本に伝わったとき、もともと日本語にあったmountainにほぼ相当することば、すなわち日本語にもともと存在した固有語である大和言葉(和語)の「やま」と結びつけられた。
 そうした事物や観念の違いをも超えて、「山」という漢字は、もともとの音の「サン」の他に、さらに「やま」とも読み慣わされるようになった。こうして「訓読み」は発生したのである。
 訓読みは、漢字を本来の漢語ではない語で読むことであり、また漢字に当てられたその個々の読み方のことである。
 文字を持たなかった当時の日本人には、漢字は呪符と見なされ、意味は理解されずにその形だけが写されていたようである。
 古墳時代から推古朝にかけて、漢字を、ことばを表記する文字として充分に認識できる人たちが現れ始めた。「薬師像作」は「やくしぞうをつくる」と訓読されていた。
 「万葉集」に至っては、歌を記すための種々の方法の中で、多数の訓読みが使用されている。「なつかし(懐かし)」という和語を二字で「夏樫」と読む訓読の応用も見られる。
 訓仮名(訓の発音を利用した万葉仮名)も見られる。
 こうした万葉仮名の中から、一字で一音を表すものが、字画が少ないなどの理由で選ばれて種類が次第に固定していき、平仮名と片仮名が生まれた。
 字義を解しつつその語順を日本語に近づけながら漢文を読み下す、訓読みも生まれる。
 中国製漢字の持つ字義を、引き伸ばし、派生させたり転化させて用いた、いわゆる国訓も現れる。これは日本製の字義といえる。
 少し時代が下ると、日本独自の新たな漢字、すなわち「国字」が造り出されるようになる。
 中国では、「形声文字」が九割近くを占めるが、日本では、漢語とは音節の類似性の少ない固有語を、字訓として漢字に積極的に当てていこうとする意識が醸成され、国字として会意文字をみずから造り出していった。


幸田文「ちぎれ雲」
 ちいさいものにとって不在は死にひとしいというが、読みふける父は不在とまでは行かずとも幾分それに似たものを感じさせる。
 ごく幼い記憶に、本を読んでいるおとうさんはだめだという、なんとも云えないつまらなさがおぼろに、そのくせ忘れられないで遺っている。
 少し大きくなると、本の部屋へ行くと圧迫を受けて、それが感覚的にいやだった。
 すべての本には著者の幅が畳み込まれている。本一冊はひとりの人である。十冊の本は十人の、百冊の本は百人の優秀な人がらなり知識なりであるはずだ。
 「おまえがばかなのは本を読まないからだ」とも云われたし、「ちっとは私の書いておいたものも読んでくれないか」ともたびたび云われた。
 なかなか本が読めそうには思えないが、縁がないのではなく、ただ縁に遠くいるのだなと自ら劬(いたわ)っているのである。


姜尚中「悩む力」
 自我が肥大していくほど、自分と他者との折り合いがつかなくなるのです。
 自我というのは自尊心でもあり、エゴでもありますから、自分を主張したい、守りたい、あるいは否定されたくないという気持ちが強く起こります。しかし、他者のほうにも同じような自我があって、やはり、主張したい、守りたい、あるいは否定されたくないのです。そう考えると、手も足も出なくなってしまいます。
 こうした自我の問題は、百年前はいわゆる「知識人」特有の病とされていますが、いまは誰にでも起こりうる万人の病と言ってもいいと思います。
 「self-consxiousnessの結果は神経衰弱を生ず」
 では、肥大していく自我を止めたいとき、どうしたらいいのでしょうか。
 「自我の城」を築こうとする者は必ず破滅する(ヤスパース)
 自我というものは他者との関係の中でしか成立しないからです。
 そして、「吃音」という状態に陥ってしまいました。
 自我に目覚めてからは内省的で人見知りをする人間になってしまいました。
 結局、私にとって何が耐え難かったのかというと、自分が家族以外の誰からも承認されていないという事実だったのです。
 私は、自我というものは他者との「相互承認」の産物だと言いたいのです。そして、もっと重要なことは、承認してもらうためには、自分を他者に対して投げ出す必要があるということです。

石母田正「中世的世界の形成」
 法には時代によって異なるところの理念が必要である。この理念的なものが中世において「道理」といわれた。武家法の道理の思想は、その成立をまず農村の歴史に求めなければならない。法は神そのものの意志であり啓示であった。
 国造が神々の祭祀をその重要な機能としていることが、人民に対する裁判権と密接に関連していることはいうまでもない。
 「法治国」としての律令体制はその一面にすぎない。
 裁判は神判に外ならないという思想は伝統と慣習の支配する村落世界の必然的一面であった。
 農村社会における道理の観念はその思想の発生において神判思想に対立して成長してきたものと考えられる。
 このことは普遍的理念的なものが神々の世界から人間の世界のものとして理解されるにいたったことを示している。
 中世武家社会法において法が如何に現実的なものと考えられていたかは、知行の効力としていわゆる時効の制が存在したことからも理解される。
 武士が自己の一族や村落を越えようとする努力、動乱の中から新しい関係を獲得しようとする冒険的精神が中世的なものをつくりだす一つの力であり、かかる政治的態度の進歩こそ神判と神託を中世在地武士の不可分の慣習として強めた原因である。
 それ故中世武士においては神意は道理と離れ得ないものであった。泰時上洛の根拠は「天下の助けとなりて人民を安んぜん」とする道理に置かれていた。
 「貞永式目」は道理が式目の根本理念であることを説いている。


内山節「挫折と危機のなかで」
 十七世紀の経済学者、ウィリアム・ペティは、当時のアイルランド農民のことを次のように記述している。
「現在の様式にしたがえば、かれらは金・銀貨幣を使用することなしに生活し、また生存してゆくことができ、一日当たり二時間とは労働せずに上述の必需品を自給することができる」
 そして、「彼らにお金を儲ける楽しさをおしえなければいけない」と述べた。
 トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」にも書かれているように、伝統社会で暮らした人々は自分の労働への誇りや、その労働が人々から尊敬を受けることに喜びを感じて日々の営みを続けていた。楽しみは労働や暮らしそれ自体にあったのである。
 だが、近代人たちはペティのめざしたように、次第に金儲けの楽しさを覚えていく。
 労働や生活それ自体が楽しみであった時代が終わり、労働は手段に、生活は疲れをとるための消費の場所に変わっていった。
 一番の問題は金儲けに縁遠い人たちもたま、この構造に巻き込まれたことである。こうして賃金を得るために働き、消費によって生活を成り立たせる多くの人々がつくりだされた。
 現代社会ではすべてのものが市場の手段、道具にされて使い捨てられていく。その教訓は、労働と生産の乖離である。
 何か有用なものをつくり、その有用性を提供していく行為が労働であったが、商品の生産過程にとっては、労働は剰余価値をつくりだす手段であり、人々は自分の労働力を商品として販売し、その代価で、つまり賃金で生活するようになった。
 こうして労働は使い捨ての対象となった。
 資本主義の原理は簡単で、投資によって得られる利益を最大化していくことだけである。だから賃金は安い方がいいし、労働者の使い捨ても容易な方がいい。ところがこの原理で突っ走ってしまうとふたつの問題が顕在化してしまう。ひとつは、労働者の貧困化がすすむと市場が縮小し自らの首を絞めてしまうことであり、もうひとつは、労働者の労働意欲が低下すると、経営基盤が崩れてしまうという問題である。
 おそらく私たちは、資本主義を根本から問い直さなければならない時代にたたされているのである。人間労働の危機と資本主義の危機が同時に進行する時代の中で、この課題が私たちの前に提出されている。

広重徹「近代科学再考」
 万有引力とは、ニュートンがそれを唱えた十七世紀にはなにものだったのだろうか。
 彼は万有引力を物体に内在する固有の力と考えるべきではないと注意している。ニュートンはそれを神の働きに帰している。
 空間とは神の感覚中枢にほかならない。神はこの感覚中枢において物体の運動を感知し、それが法則どおりに行われるようにガイドする。この働きが重力なのである。
 宇宙がある理論体系によって支配されているとは、やはり背後に神を想定しなければ了解しえないことであったろう。
 全宇宙を支配する自然学の体系をうちたてるというプログラムを、はじめてえがいてみせたのはデカルトであった。神は物質とともに運動を創造し、その総量を一定に保持するとのべて、運動量の保存を自然学の基本原理においたのである。
 神の創りたもうた自然の秩序は、そのままの形では人間に見えない。しかし、われわれは努力して自然研究にはげむなら、それを知り、神の御業にあずかることができると考えたのである。

森岡正芳「語りと騙りの間を活かす」
 体験をひとつの事実として述べることと、思い出として語ることとは違いがある。
 体験された対象の秩序と体験の秩序は等値ではない。
 物語は体験の秩序に接近しようとするものである。それによって事実に新たな意味を付与していく。語ればその昔が現在として現れる。
 物語心理学の方法は現実との関係において特徴をもつ。とくに何者かが突発的に現実になるという生起性、創造性に注目し、そこをできるだけ活かそうとする。
 仮構作用(fabulation)を私たちは生得的にもっている。ままならぬ現実からくるとらえがたき不安に抗するためであるし、内的な衝動本能につきあうために必要な仕組みである。
 物語が現実を生む。それは強い現実感、実在感をもつ。そして事実の世界をも人はドラマや物語として、あるいは小説のようにストーリーを読もうとする。
 出来事をつづり、それらをつなげ筋立てる。
 個人の歴史は生まれたときから現在に至る主な出来事を年代順に書き示すことができる。このような外的生活史に対して、対話によってはじめて成立し、聞き手の参加によって共同的につづられていく生活史、聞き手が異なれば異なった生活史が生まれる可能性のあるものを内的生活史という。
 自己語りは想起と歴史化という問題につながる。
 記憶と想起の問題こそ、語りと騙りの間に関わって、本質的な問題を提示する。
 自己語りが自己欺瞞を生むことはよくある。偽りの自己は生きるために必要な場合があって、不安に対して対処する力ともなり得るが、一方でそれを維持するために力を奪われることも出てくる。
 とくにおさえておくべきことは、隠蔽記憶(screen memory)の問題であろう。想起された記憶は真に重要な意味のある記憶を隠すための遮幕(スクリーン)の働きをする。
 想起された記憶断片は、主体の欲望を隠している。抑圧され、主体に隠された記憶内容は、精神分析の自由連想と転移の作業によって真実をあらわにする。

橋本治「増補 浮上せよと活字は言う」
 権威が形骸化した権力と成り下がっていることを察知した若者は、そんな権威に随順して、それをさらに不毛な権力として強化するよりも、その権威を見捨てるという道を選んだ。「若者の活字離れ」はそんな動きの後にある。
 「言葉こそが権力の根源であって、言葉を流通させることこそが悪だ」という錯覚に至り、量だけが膨大にあって、通交することを忘れた無意味なモノローグだけが氾濫した。 活字以外にも文化は存在し、それを整理統合発展させるために活字という思考の根源があるというだけなのだ。
 「若者の活字離れ」とは「かつて本を読んでいた若者の活字離れ」で、「大学生の活字離れ」というものでしかない。本を読むやつはいつだって読む。本を読まない人間は、いつの時代にもいる。近代は、「本を読むべきだ。本を読むということが自身の思考力を身につけることなのだ。人は言葉で思考し、その思考を言葉によって整理する。人にとって思考と認識とは、人である限り続く義務であり権利であるはずのもので、そのことの結果によって得るものが、”自由”と呼ばれるものだ」と、知性なるものが言い続けてきた。
その強制力によってかろうじて若者達は本を読み続けたのだ。
 すべての文化には、それが文化であるような構造が隠されている−だから、読み取りという作業が必須になる。
 活字離れというのは、活字文化という閉鎖的なムラ社会に起こった過疎化現象だ。退廃の元凶はどこにあるのかと言われたら、私には「ムラにある」としか言えない。

竹内好「中国の近代と日本の近代」
 ヨオロッパがヨオロッパであるために、かれは東洋へ侵入しなければならなかった。結果として東洋は資本主義化の現象を起こしたが、ヨオロッパにとっては、世界史の進歩、あるいは理性の勝利と観念された。
 西洋への抵抗を通じて、東洋は自己を近代化した。
 日本では、観念が現実と不調和になると、以前の原理を捨てて別の原理をさがすことからやりなおす。日本のイデオロギーんは失敗がない。
 転向という現象も、特殊な日本的性格の産物だろう。転向は抵抗のないところにおこる。つまり、自己自身であろうとする欲求の欠如からおこる。自己を固執するものは、方向を変えることができない。我が道を歩くしかない。しかし、歩くことは自己が変わることである。自己を固執することで自己は変わる。変わらないものは自己ではない。
 回心は、見かけは転向に似ているが、方向は逆である。
 私は、日本文化は型としては転向文化であり、中国文化は回心文化であるように思う。日本文化は、革命という歴史の断絶を経過しなかった。だから新しい人間がいない。日本文化は構造的に生産的でない。それは生から死へはゆくが、死から再生へはゆかない。

溝口雄三「〈中国の近代〉をみる視点」
 竹内氏の「中国の近代と日本の近代」によると、中国近代は、後進性そのものとの自己対決とその対決の内的深化の結果、かえってアジア的に人民的な社会革命・思想革命を徹底拡充させ、その人民的徹底においてヨーロッパのブルジョア的近代の不徹底さを超えようとさえしている。と読み取れる。
 これは、一見中国のいわゆる後進性を否定するかにみえて、実はそれを前提としている。
 そもそも、ヨーロッパを基準にしてアジアがヨーロッパ的であるのかないのかと問うアジア自身の自問自答は、なんとも奇妙で、いらだたしくも不毛なものというべきである。先進−後進の縦列的構図はまして問題にもならぬ。

今福龍太「音の襞、ことばの隈」
 音の永遠の広がりの海の中に、聴こえる音とおなじだけの聴こえない音が棲息する。
 聴こえない音、というかわりに、聴こうとしない音、といいかえてみる。インディオの元素的な沈黙は、聴こえない音となってあっさりと沈黙の砂漠へと追いやられてしまった。
 音はみずから求めて聴きとってゆく繊細なリアリティーであることをやめ、一方的に耳に飛び込んでくる騒がしい日常業務(ルーティーン)の一部となった。
 沈黙それじたい、世界のざわめきをすっかり明らかにするものであることをはじめて理論的に示したのは作曲家ジョン・ケージであった。全員が耳を澄ましているという状態があれば、そうしたこと自体が音楽であってくれたらいい・・ケージはよくこう繰り返していた。
 「沈黙などというものはない。無響室に赴き、汝の神経系統が作用し、血液が循環している音を聞かれよ。」(ケージ)
 彼が聴いた高い音とは彼自身の体内の神経系統があげる音であり、低い音とは、鼓動のリズムがささえる血液の音だったのである。
 彼は沈黙という音の持続の創造性を活用しながら、私たちの音をめぐる思想にまったく新しいヴィジョンをもたらしていったのである。

坂口安吾の文章
 日本には傑れた道化芝居が殆ど公演されたためしがない。
 笑いは不合理を母胎にする。ところが何事も合理化せずにはいられぬ人々が存在して、笑いも亦合理的でなければならぬと考える。そうして、喜劇には諷刺がなければならないという考えを持つ。
 然し、諷刺は、笑いの豪華さに比べれば、極めて貧困なものである。諷刺は対象への否定から出発する。これは道化の邪道である。
 正しい道化は人間存在自体が孕んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる。笑いの高さ深さとは、笑いの直前まで、合理精神が不合理を合理化しようとしてどこまで努力してきたか、そうして、到頭、どの点で兜を脱いで投げ出してしまったかという程度による。
 道化芝居のあいだだけは、笑いのほかには何物もない。人性の矛盾撞着がそっくりそのまま肯定されているばかり。どこまでいっても、ただ肯定があるばかり。

今道友信「美について」
 現代芸術は全般的に難解である。社会の変貌や技術の発達が、主として芸術の享受体験を知的に変貌させたからである。
 たとえば印刷技術の発達、建築工学技術の発達等による。これらの芸術は、その描写能力や表現能力の豊かさゆえに、今までの芸術よりも一層人間の内面性を彫塑することに成功している。芸術は今や感覚の問題ではなく、思想の問題と変わりつつある。ここからしても、芸術体験としての芸術解釈の必然性は出てくるであろう。
 ここで注意しておかなければならないのは、意味論的解析と価値論的解釈の違いである。意味論的解析は作品を要素還元することに過ぎない。それで果たして作品の価値は輝き出てくるであろうか。
 解釈の原義は通訳とか翻訳なのである。作品の真の意味とは、作品が意味論的に何を意味しているかということではなく、その作品のもっている芸術的価値のことではないか。
解釈とは、先ず第一に作品の持っている可能性としての価値を、この世に輝き出す操作でなければならない。したがって、解釈とはそれ自身一つの美的体験であって、限りなく深められてゆく開かれた体験でなければならない。その意味で、解釈とは、同一の作品に対して反復して試みられるものであり、しかも、そのたびに新しい喜びが湧き出てくるような体験なのである。いわば遊びのように、いつも始原に返って繰り返される楽しい運動である。
 解釈は発明の体験、精神が価値に向かって進む道を切り拓いて行く体験である。