08-4/20 六十九難の読み 加藤秀郎

六十九難の文面には、“五行”や“五臓”を構成する言葉が一文字も出てきません。
それはこの難に「母子」という言葉があって、この事で‘五行の相生’を意味しています。
その内容は、
‘火’は‘木’の‘子’で‘火’は‘木’から生まれる。もしくは
‘木’は‘火’の‘母’で‘木’により‘火’が生じる、です。
これは‘木’が‘木’の能力を発揮する事で活動し、そのことをそのまま次へと流動した時、送り手である‘木’が‘母’となり受手である‘火’が‘子’となります。そして受けとった‘火’が‘火’として活動し、また次へと受け継がれ、五行の相生の回転を成しています。
この回転は五行全体の関係性を示します。周の時代の末期に鄒衍(すうえんBC305〜240)という人が『五徳終始説』を『主運篇』(『鄒子四十九篇』と『鄒子終始五十六篇』)で発表します。それは初めて陰陽と五行を連結させる事で歴代王朝の盛衰と交代の理由を説いたもので、後に漢王朝へと受け継がれる陰陽五行論の祖型となります。その意味するところは各行の性質とその関係性でした。ところが漢王朝400年を経由するうちこの‘関係性’は薄らいでいき、あらゆる物を五行別けして性質のみを抽出するという偏性になります。
そしてこの難には「虚実」と「補瀉」という言葉が出てきますが、難経はこの‘関係性’に回帰して「虚実」を「母子」関係で「補瀉」するというオリジナルを生み出しました。

六十九難の問文は
六十九難曰.經言虚者補之.實者瀉之.不虚不實以經取之.何謂也.
六十九難に曰く、經に言う虚は補し実は瀉す。不虚不実では以って經を取るは、何を謂うか?
ですが、
これは「虚は補し実は瀉す」と「不虚不実では以って經を取る」の二つの問いかけに別れます。
この問いは「虚実は何かという把握はされている」事が前提になっています。
「把握されている前提の虚実」とは、
‘木’が‘木’の能力を発揮する活動が
必要以上に盛大であれば「実」
必要内容に達しなければ「虚」ということです。
これら虚実を平常に戻すには「補瀉」であると言う事ですが、この問文の文面だけでは
「虚には補を実には瀉をするが、では虚も実もない場合は経絡を取るとはどういう事か」と読めます。
ところがその答えは「不虚不実は経を取る」を後に回して、
然.虚者補其母.實者瀉其子.當先補之.然後瀉之.
然るに、虚は其の母を補し、実は其の子を瀉す。
と、言っています。つまり
‘木’が‘虚’していれば‘母’である‘水’で‘補’をする。
‘木’が‘実’していれば‘子’である‘火’で‘瀉’をする。
となり祖型に回帰して、五行の相生が持つ‘関係性’を使った補瀉論を答えます。
この事で3つの答えをいっぺんに答えた事になります。
1つが、この「補瀉は母子の関係性」で、と言う事。
2つ目が、虚も実もないのに治療をすると言う事。つまり虚実とそうでない病の区別。
3つ目は、‘木’に虚実があれば‘木’に直接補瀉をしていたが、直接施術は虚実がない場合という限定。
このうち2つ目の『虚実とそうでない病の区別』で、さらに「母子関係の補瀉」の限定を示しています。
つまり虚実がある場合は「母子関係の補瀉」で、そうでない病は3つ目の「虚実がない場合は直接施術」。
そうなった場合「母子関係の補瀉」を使う‘虚実’とは何か?と言う事になります。
基本的には五臓が病んだ状態が虚実と考えています。

素問・陰陽應象大論篇第五
故善治者治皮毛, 其次治肌膚, 其次治筋脈, 其次治六府, 其次治五藏. 治五藏者, 半死半生也. 故天之邪氣, 感則害人五藏; 水穀之寒熱, 感則害於六府.
故に善(よろしく=公的に誰もがよい)治するは皮毛を治し、其の次に肌膚(きふ)を治し、其の次に筋脈を治し、其の次に六府を治し、其の次に五藏を治す。五藏を治するは、半死半生なり。故に天の邪氣、感ずれば則ち人の五藏を害す。水穀の寒熱、感ずれば則ち六腑に於いて害す

五臓が邪気を感じ入れ虚実を起こし、それが五臓の病となって半死半生となる。この状態への対応か予防策として「母子関係の補瀉」を使う。それ以前の皮毛や肌膚や筋脈を治すのは直接施術ではないかと、思われる。六腑は病を五臓へと伝達する境目であるため、直接施術を行う場合もあれば、予防策としての「母子関係の補瀉」を行う場合もある。
素問の時代では皮毛〜六腑を未病、六腑〜五臓を已病といしていたようですが、難経では虚実を起こした臓を已病、これからその伝変を受けるであろうという臓を未病としています。

七十七難曰.經言.上工治未病.中工治已病者.何謂也.
七十七難に曰く、経に言う。上工は未病を治し、中工は已病を治すとは何を謂うか。
然.所謂治未病者.見肝之病.則知肝當傳之於脾.故先實其脾氣.無令得受肝之邪.故曰治未病焉.中工治已病者.見肝之病.不暁相傳.但一心治肝.故曰治已病也.
然るに、所謂(いわゆる)未病を治すとは肝の病を見て、則ち肝に当たりしを於いて脾に伝るを知る.故に先ず其の脾気を実して肝の邪を受け得ず。故に曰く未病を治す。
中工は已病を治するとは、肝の病を見て、相い伝わるを不暁(=悟;ふぎょう、さとらず)。但一心(ただいっしん)に肝を治す。故に曰く已病を治すなり。

例えば‘肝’が‘邪’を受けると五行循環の平均化が取れなくなり‘肝’の活動が盛大化すれば‘実’
衰退化すれば‘虚’となります。ではなぜ盛大や衰退が起こるかというと、
五行循環の関係性で言えば五行のそれぞれが能力を発揮して、その活動からの経験や情報を‘子’へと流動していきます。その受けた流れの内容を‘子’が受領できず留めてしまえば「実」。
‘母’が能力を発揮できず活動からの経験や情報が‘子(肝)’に流動しなければ「虚」と考えられます。
五行循環の関係性で「虚実」が発生したと考えた時の「補瀉」の対応は
「実」であれば、流動を留めている‘子’に「瀉」を施し、
「虚」であれば、能力を発揮できていない‘母’に「補」を施すとしたわけです。
これが六十九難で初めて登場した「虚実を母子関係で補瀉する」ということです。
補瀉の違い
素問;離合真邪論篇第二十七
補寫とは何か。
此れ邪への攻なりて血の盛を去り以て疾を出し其の真氣を復す。
調經論篇第六十二
補寫とは何か。
有余は血を寫し出血させず神気を平する。不足は其の虚絡を視、血を出さず気を泄らさず神気を平す。
霊枢:九鍼十二原第一
寫曰く内を出し放つ。陽を排し邪氣を得て泄す。血を得ずして散らし、氣を得ずして出す。
補曰く行くがごとく按ずるがごとく。気は故に止どめ外門を閉じて已む。
難経:七十九難
迎は奪(だつ;うばう)にいたるは其の子を瀉すなり。隨は濟(濟;救済)にいたるは其の母を補すなり。

當先補之.然後瀉之.
当に先ず補し然る後に瀉す。
五行配当された箇所の中に「虚」なところと「実」なところがあるようなら、さきに「補」を施し、それから「瀉」を施す。
五行中に虚実の両方があるパターンで、
は、
実に補を虚に瀉をしてしまうし、
さらに流動という回転から
虚の方向へ進むためあり得ない。
瀉-補
は、
同じ所に補と瀉を施す。
相剋の賊邪は不治か?
七伝の始まりか?

は、
‘母’が‘虚’なため
‘子’を‘実’させる事は
できない。
は逆剋で、
理論的にも治療法則的にもきれいだが、
七十五難に持ち越される。

つまり虚実の両方が確認出来る場合の補瀉は、七十五難となる。

不虚不實.以經取之者.是正經自生病.不中他邪也.當自取其經.故言以經取之.
不虚不実では以って經を取るとは、是れ正經自生病。他の邪に中たらざるなり。
當に自ら其の經を取る。故に以って經を取ると言う。
しかし五行の配当箇所には「虚」も「実」も無い状態で、病となっている場合がある。
その時は病の内容のと同一の五行配当の経に特定の施しを行う。
『正経自生病』とは、正邪によって経が自ら病を生んだと考えられます。
では、経が自ら病を生みそれに虚実はないとはどういう事か?
五臓
正邪
正経自病(四十九難に従う)
中風
恚怒(いど;心に抱えたイライラと発散する怒りの陰陽)により気逆(末端体表血流量の低下、体感頭部深層の蓄血量上昇)し、上がったまま下がらず
傷暑 憂愁(心細く心配する。憂は過労病も意味する。外部情報からの心配と内部のわびしさからの心配の陰陽)思慮(思いを巡らせ心を砕く。一方的な思いと関連事項を推察する思考の陰陽)
飲食
労倦
飲食(水分と固形物の摂取の不手際の陰陽)労倦(仕事や都合などの理由の考慮があっての疲れとその肉体の状態のみを指す陰陽)
傷寒 形寒飲冷(外的寒さに受動的に曝された肉体と内的冷たさを能動的に取り入れた冷えの陰陽)
中湿 (長い時間)(筋力を使わない産熱減衰)湿地(湿っぽい場所、毛穴開放)居たり、(逆に)強力(筋力を強く使いながら)しかも入水(産熱促進)もしているという陰陽
陽邪の陰(中風)(傷暑)は正経自病が恚怒気逆(陽-外に向かう)と憂愁思慮(陰-に籠もる)という感情
陽ー肝ー正邪(陰)ー正経自病(陽)、心ー正邪(陽)ー正経自病(陰)
陰邪の陰(中湿)(傷寒)は正邪と正経自病が同じだが、
 形寒飲冷は環境と行動からの外からの肉体の冷えという気から形質への損傷(陰)
 久坐湿地強力入水は産熱能力の不対応という形から質気への損傷(陽)
陰ー肺ー正邪(陽)ー正経自病(陰)、腎ー正邪(陰)ー正経自病(陽)
飲食労倦は生理と環境対応と心理状態を繋ぐ物質としての肉体状況
邪からの診断結果が、陰陽分離の不明瞭な状態を経が自ら病んだ‘不虚不実’と思われる。

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