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群馬交響楽団の演奏を聴いて('99年度)


◆◆◆ 第364回 ◆◆◆
5月21日(金) <指揮>高関健  <ソプラノ>緑川まり

   ハイドン/交響曲 第104番 ニ長調 Hob.I:104 《ロンドン》
   R.シュトラウス/4つの最後の歌
   R.シュトラウス/交響詩《死と変容》 作品24

 今年度最初の定期演奏会は、ハイドンの最後の交響曲、リヒャルト・シュトラウスの最晩年の歌曲、それに若き日のシュトラウスの名作「死と変容」である。年度始めのプログラムが、最後や死と関わるタイトルになっていることも興味深い。それは、過去を一度葬り去り、新しい境地を開こうという意欲の象徴であろうか。

 ハイドンの演奏は、派手さはないもののリズムを明快に出し、安心して心地よく聴ける演奏であった。作曲家が長い人生の最後に生み出した作品の品位を感じさせてくれた。

 リヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」は、初めて聴く曲である。演奏が始まった瞬間に、その独自の雰囲気が迫ってきた。なんと豊かな音楽であろうか。華やかなオーケストレーション、魅力的な旋律と和声、喜びと諦観がない交ぜになった詞の深みと広がり。それらが渾然一体となって作られる世界に引き込まれた。ソロ一人にかなり大編成のオーケストラで驚いたが、緑川さんの歌唱は自然と心に入ってくるようであった。ただ、やはりホールの問題もあるのだろうが、オケが大きくなる部分では声がかき消されてしまう場面が何度かあった。しかし、それがあまり気にならないほどの、素晴らしい演奏であった。

 今回、異例なこととして、全体の演奏が始まる前に高関氏が舞台に登場した。マイクで次のようなことを聴衆に話しかけた。
「群響の主席トロンボーン奏者でありました、内堀豊明さんがこの13日に病気のため急逝いたしました。内堀さんは、前日の高校音楽教室でも演奏をなさっていて、我々もたいへんショックを受けております。我々としましては、今日の演奏会の『死と変容』を内堀さんに捧げたいと思います。粛々と演奏しますが、どうか我々の心中をお察しくださいますようお願いします。」
 実際に聴いた印象では、曲の性質によるのだろうが、粛々というより密度の濃い凝縮感のある演奏であった。華やかな部分は熱演ともいえるものであった。群響の方々も、それぞれの思いを込めた演奏であったことであろう。

 今年度の定期演奏会も、ヴァラエティーに富んだ曲目が並んでおり、どんな世界が披瀝されるのか楽しみにしている。


◆◆◆ 第365回 ◆◆◆
6月19日(土) <指揮>秋山和慶  <ヴァイオリン>堀米ゆず子

   エルガー/序曲《コケイン》(ロンドンの下町)作品40
   ブルッフ/スコットランド幻想曲 作品46
   エルガー/交響曲 第1番 変イ長調 作品55

 エルガーの序曲を聴いて、5年前に行ったロンドンの情景が思い出された。グロブナー・ハウスという、歴史のあるホテルに泊まった。朝食をとった1階の部屋は素晴らしい雰囲気であった。やわらかな椅子に腰掛け、格調あるインテリアに囲まれ、香りの高いパンやコーヒーのほのかにあがる湯気を前に、朝靄のかかったハイドパークを望む部屋。そこで生まれて初めて真の静謐な時間を実感できた。長い時間積み上げられてきた生活文化の重みが、心を落ち着かせる朝食の空気に凝縮されていたように思う。エルガーの序曲には、そのような格調と落ち着きのある、安心して聴ける雰囲気があった。もちろん、それは秋山氏の緻密な指揮と群響の的確な演奏が優れていたから感じられたことである。

 ブルッフのスコットランド幻想曲は、堀米ゆず子さんのヴァイオリンの深い音色と、紡ぎだされる豊かな情緒に心酔した。堀米さんは、ヴァイオリンを歌わせることに大きな喜びをもって演奏し、ヴァイオリンも歌わせられることに悦びこたえて息づくかのようであった。その音楽を楽しむ姿勢が楽団員や聴者にも伝わり、ホール全体にスコットランドの空気が広がり、居合わせたすべての人が共有できる一体感があった。それはまさしくコンサートの醍醐味であり、CDなどでは決して味わえないものである。ソリストの持つ力の大きさを喜びと共に感じさせてくれた演奏であった。

 エルガーの交響曲の演奏からは、再びロンドンの様々な情景が思いおこされた。石造りの建物からの歴史、市街の賑わい、昼食をとったパブのビジネスマンたちの熱気、12月のロンドンの石畳を踏む靴から伝わってくる深々とした底冷え。ホテルに帰りつくと部屋の中央の皿に山と盛られた温かな色のみかん。英国のサービス精神の神髄を感じると共に、日本への郷愁をよびさまされる瞬間でもあった。
 この曲がイギリス人に絶大な支持を受けたのは、イギリス人の共有している情緒や郷愁を色濃く持っているからではないか。何度も現れる「モットーの主題」も、イギリス人のこころの襞をくすぐるものがあるのでは。
 秋山氏の指揮で、群響の各パートのまとまりは目覚ましく、抑制の効いた演奏の中から深い情緒を生み出すことに成功していたように思う。3曲を通じて、英国の気質を感じさせてくれた楽しく実りある一夜であった。

 演奏の後、1階ロビーで風岡氏・長田氏の両コンサートマスターを囲む会があった。事前には、ロビーに小さな張り紙でアナウンスされた程度なので、そんなに人は集まらないだろうと思っていたら、意外にも百人は越える人数が集まっていたように思う。そこで、コンサートマスターは聴者からの質問に答えていた。「堀米さんとのリハーサルでのエピソードは」「演奏でうまくいったところは」「新人の団員などをミニコンサートなどで紹介してほしい」「ピアノコンチェルトよりヴァイオリンコンチェルトの方が熱心に演奏しているように感じるがなぜか」などの質問に、やや堅い感じはあったが真摯に答えてくださった。また、「演奏者として聴衆に望むことはなんですか」という、立派な質問をされた方がいた。それには「ブラボーを競争するようなことは場合によってはやめて欲しい」といったコンサートマスターの答えもあった。
 このような、聴者と奏者を結ぶ試みはたいへん有意義であり、今後も是非すすめて欲しいと思う。今回の集いを企画した方に敬意を表したい。群響は文化の一部として地域に定着している。その文化は、奏者と聴者が共に育てていくことで、より豊かになるであろうから。


◆◆◆ 第366回 ◆◆◆
7月31日(土) <指揮>小泉和裕  <ピアノ>若林顕

   武満徹/鳥は星形の庭に降りる
   プロコフィエフ/ピアノ協奏曲 第3番 ハ長調 作品26
   ブラームス/交響曲 第4番 ホ短調 作品36

 プログラムからも見てとれるように、今回はたいへんに密度の濃い演奏であった。
 武満徹の音楽では、音色が層をなし、織り交ぜられて様々な形をなす。混ざり合った中には中間色もある。それらの混合と変容により生まれる独特の空気が、独自の空間を作り上げる。スリリングともいえる緊張感が快い。こういった曲を演奏するには、かなりの集中力がいるのではないか。また、アンサンブルの真の力が試される曲でもあろう。群響のメンバーは、このような曲の勘所もよくつかんでいるようで、不思議な陰影をもった世界に引き込んでくれた。

 ピアニストの若林顕氏が、プロコフィエフを弾くと知って、意外な感じがした。この人の演奏は、モーツァルトの協奏曲で聴いたことがあるが、デリケートな表現に優れた人で、モーツァルトの曲を聴く喜びを与えてくれるピアニストだった。弾く音はやや控えめで、小さな音の中に細やかな情感を込めていた印象が強い。今回は激しい表現の多いプロコフィエフである。実際に聴いてみると、オーケストラの音に対して、やはりピアノの音が小さすぎると感じた。これはホールのせいか、自分の聴いている位置のせいか、あるいは曲がそのようになっているためだろうか。オーケストラの音量が大きくなると、まるでピアノの音がかき消されて聞こえなくなる箇所がかなりあった。特に第1楽章では、ピアノは嵐の海で波にもまれる小舟のように感じられた。1992年の第301回群響定期のときには、同じく音楽センターで野島稔氏が超難曲といわれるプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番を演奏して、今回以上に激しいオーケストラの中でも明瞭にピアノの音が聞こえた記憶がある。若林氏は、第2楽章のオーケストラがあまり入らない部分では、優しい音色で美しい演奏を聴かせてくれた。群響も、ロシアの風土が持つ雰囲気と近代の曲想がないまぜになった独特な音楽の魅力を伝えてくれた。

 ブラームスの交響曲第4番であるが、この曲は第1楽章の出だしのテンポで随分雰囲気が変わるように思う。小泉氏の指揮は、やや早めのテンポで始まった。割合あっさりと始まったなという印象である。色濃い情緒を強調して、ゆっくり目のテンポで始める演奏もあるが、今回はややせかせかと進んでいくように感じた。しかし、第1楽章の中程から落ち着いたテンポになり、悠然と終えるスタイルだった。それにより、第2楽章のうら寂しい雰囲気と第2主題の美しさが強調されたように思う。全体のバランスを考えた上で出だしを早めのテンポにしたのだろうか。第3楽章も割合にクールだったように思う。最終楽章は、格調の感じられる演奏であった。全体として、情よりも知が勝った演奏のように思えた。

 今回も、風岡・長田両コンサートマスターが、終演後にホールで聴者の質問に答えてくれた。まずはホールのことが話題に出た。群響の演奏が良い割に、ホールが悪すぎるが、何か手だてなり手伝えることはないかという質問であった。コンサートマスターからは立場上のこともあり、現在のホールも大事にしたいというお答えであったが、やはり聴者としてはよきホールで聴きたいのが偽らざる心境である。
 また、小泉氏のリハーサルについてのエピソードはという問いがあり、次に、奏者にとってやりやすい指揮者、やりにくい指揮者についてという、答えにくいのではないかと思う質問もあった。演奏後にお疲れのところ、こういった質問にも丁寧に応対してくださるコンサートマスターには頭が下がった。毎回では答えてくださるコンサートマスターも大変であろうから、他の奏者の方に順番に出ていただいてもよいのではと感じる。
 印象に残ったのは、ブラームスの第4番のように何回か演奏した曲は、過去の指揮者の影響もあるのではという問いに対して、風岡氏が答えた「音楽も人格を持っているので、他の指揮者によって奏者の中に様々な引き出しができる」という言葉であった。群響の音楽が多くの指揮者との出会いの歴史で重ねられ高められてきたことを実感させられる言葉だった。群響の「人格」が今後もさらに円熟味を増していくことを期待している。


◆◆◆ 第367回 ◆◆◆
9月19日(日) <指揮>高関健
           <ソプラノ>片岡啓子  <アルト>永井和子
         <テノール>福井敬   <バス>三原剛
         <合唱>群馬交響楽団合唱団 <合唱指揮>阿部純

    ヴェルディ/レクイエム

 今回の演奏には、自分も合唱団の一員として参加させていただいた。そのため、私的なことが多くなってしまうが、ご容赦いただきたい。
 群響のバックで歌う合唱団員は、普段は音楽センター隣のシンフォニーホールで練習をする。合唱団員の本番の並びが発表になったのは9月になってからであったが、自分の立つ場所を見て驚いた。最前列でソリストの真後ろなのだ。しかも、合唱団員は今回は暗譜で歌うことになっている。それまでは、多少うろ覚えの箇所があってもいざとなればまわりの人に合わせて口パクでもいいかなどと、軽い気持ちで練習に参加していたため、たいへんに焦った。楽譜を手から離して歌うというのは、なかなかできないもので、ましてこれほどの大曲になるとなおさらである。

 合唱団員がオーケストラ・ソリストと共に音楽センターの舞台に上がるのは本番の2日前である。今回はこの合わせのときにたいへん感動した。最初のヴァイオリンが、極めて弱い音なのだが、たいへん豊かな音色に感じられた。その音に導かれるように展開されていく曲は、ごくごく間近で奏でられるため、美しさがたいへん際だって感じられた。2曲目の"Dies irae"は対照的にすざまじい激しさで、ダイナミックレンジの大きさが舞台の上では直接体感できた。そして、ソリストの歌唱の素晴らしさ。特にメゾソプラノの永井和子さんの歌には、声も表現も深みがあってひたすら聴き惚れた。自分も歌うということを忘れてしまうほどだった。このとき初めてこれが名曲であるということを実感したのだった。
 自分はテノールの福井さんとバスの三原さんの間のすぐ後ろに立ったので、お二人の歌唱もこれ以上ないほど近くで堪能できた。手を伸ばして「ごくろうさま」と肩をたたけるほどの距離である。もっとも、そんなことはとても恐れ多くて実際にはできなかった。これほど間近で聴くバスとテノールの声は、これが自分と同じ人間の出す声かと思うほど迫力があり、巨人の背中を眺めている気分になったからだ。
 この日は、合唱とソリストとの関わりを確認するためにも、楽譜を手にして歌った。シンフォニーホールでの練習の時とはだいぶ響きが違って感じられた。ソプラノ合唱の声などは、ずいぶん遠くから聞こえる印象であった。
 翌日、すなわち本番の前日に、初めて楽譜を手から離して歌ってみた。さんざん練習で歌っているので、体が覚えているはずだと思っていた。が、甘かった。歌詞や音階をあちらこちらで思い違いをしており、音の強弱についても適正でない場所がかなりあった。その日の夜は必死でCDを聴きながら確認をした。正確に覚えるということがいかに努力を要するものか、また、追いつめられなければやらない性格が、いかに危ういものであるかを思い知らされる晩であった。

 本番当日のリハーサルでは、ややリラックスして臨めた。自分の課題であった箇所も、完璧とはいえないまでも、ある程度チェックしてすすめたようだ。ソリストの方々も本番に備えてやや力を抜いてやってらしたが、それでも美しさは変わらぬ歌唱であった。

 本番では、観客がホールをほぼいっぱいに埋めていた。その影響か、響きがリハーサルの時より、ややこもったようになる感じがした。
 演奏に関して言えば、合唱については必死でやっていたのであまり覚えていない。むしろソリストの豊かな歌唱が思い起こされる。メゾソプラノの"Libera scriptus"や"Recordare"、テノールの"Ingemisco"、バスの"Confutatis" などが特に印象深い。オーケストラについては、様々な場面を的確で表情豊かに表現していた。このような芳醇なサウンドの中でカラオケではなくてフルオケで歌うというのは、この上ない贅沢である。特に、今回は指揮者の高関氏が、遮るものもない自分のまっすぐ前で指揮をしているので、ソリストの気分が味わえた。といっても、やはり主役は本物のソリストの皆さんで当然おいしい場所は彼らが歌い、合唱は状況説明の役割を果たしているに過ぎないということも歌ってみてよく分かった。それでも日本を代表するソリストの皆さんと和す機会を与えられたことは例えようがないほど大きな喜びであった。

 この曲はレクイエムであり、死者に捧げる歌である。合唱指導の阿部先生も、本番直前にそのことを確認なさり、捧げる気持ちを持ってうたってくださいということであった。実際に本番では、歌詞をまちがえたり出だしを誤ったりしないかということに気をとられ、捧げるという心情に至れるときは少なかった。だが、静かな演奏の場面では先日亡くなった同僚のことを思い出しながら歌った。
 本番後のお疲れさまセレモニーで、ソリストの方々もお話くだされた。メゾソプラノの永井和子さんが、「山崎豊子の『沈まぬ太陽 第3巻』をちょうど読み終えたところで、この地の近くである御巣鷹の尾根で飛行機事故により亡くなった人々の冥福を祈りながら歌いました」と語られた言葉が印象的であった。捧げる対象があることで、音楽の真価が表れることは様々な場面で経験する。

 この曲は「聖衣をまとったオペラ」と言われることがあるほど、ドラマティックであり、敬虔さとともに人間の力を神に伝えようとするかのような曲である。テノールの福井敬さんは、人間を神に伝えるという気持ちで歌いましたとおっしゃていた。多様な形での天と地を結ぶ曲といえるであろう。
 曲を一旦自分の体に通すことで、聴くだけでは得られないことが実感できる。オーケストラに対しても然りで、舞台に上がり演奏に和すことで自分にとって群響がより身近になったことは間違いない。


◆◆◆ 第368回 ◆◆◆
10月22日(金) <指揮>パスカル・ヴェロ  <ピアノ>田部京子

   プーランク/バレエ組曲《牝鹿》
   モーツァルト/ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調 K.467
   チャイコフスキー/交響曲 第4番 ヘ短調 作品36

 「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し …」と萩原朔太郎が歌った時代からはずいぶんと経ったが、フランスに対してあこがれを持つ気持ちは、いまでも日本人の心にあるように思う。特に、どんな事でも軽妙洒脱にしてしまうそのオシャレなフィーリング。日本人が苦手とするだけにあこがれるのかもしれない。映画にしても音楽にしても、たとえ深刻なテーマを含んでいても美の形に昇華してしまう術は、この国独特の文化のように思う。プーランクの音楽は、まさしくそのフランスの香を存分に含んだ曲である。今回の<牝鹿>の演奏でも、それを堪能させていただいた。指揮者は、リヨンで生まれ、パリで音楽を学んだパスカロ・ヴェロ氏。その大きな振りに群響は的確に応え、本当に生き生きとしていた。変化に富んだおかしみのある曲で、日常と違う世界に誘ってくれるすてきな演奏であった。

 モーツァルトのピアノ協奏曲第21番は、自分が好きな曲のひとつである。典雅さと微妙な憂愁がよく和しており、全体としては簡素な感じもするが、実際はたいへんに芳醇なものを含んだ完成度の高い曲であると思う。今回の演奏では、その曲の新たな魅力を教えられた。
 第1楽章出だしの弦による導入は控えめで、いくぶんはにかんだ表情があって良かった。オーケストラの誘いに乗るように静かに入ってくるピアノは、あまりの音の美しさに息をのんだ。秋の陽光をうけて輝き落ちる滴のようであり、一音一音が際だっていた。オーケストラとのバランスも絶妙で、お互いが舞踊を楽しんでいるかのような、みごとに息のあった演奏であった。ソリストの個性が発揮されるカデンツの部分で、田部さんは玄妙な雰囲気を出していて、意外なモーツァルトであったが、味わいがあった。
 第2楽章は、最も美しく有名な旋律であり、本来ならばリラックスして聴ける部分である。CDで聴くときは確かにゆったりとした気分になる。しかし、生で聴いた今回は、緊張をしたのである。それは、オーケストラとピアノの掛け合いがスリリングな魅力にあふれていたからだ。決して不安定だという意味ではなく、純粋に楽しめるスリリングさがあった。それはジャズのもつスリリングさに似たものであろうか。ピアノが音をならすタイミングにオーケストラが緊密に応えているのがよく伝わってきた。それがあまりに繊細かつ精妙であるため、その雰囲気に聴き手も緊張したのである。これは、群響の感受性がいかに高いかを示している。
 第3楽章は、喜ばしい終楽章をのびやかに表現しており、2楽章の緊張とは逆に素直に楽しめる演奏であった。
 田部さんのピアノは、美しい音の中に陰影を含んでいてそれがモーツァルトの曲をよく体現しているようで、味わい深い演奏であった。オーケストラもピアノを引き立てる術をよく知った頼もしいパートナーとしての役割を見事に果たしていた。両者の技量が拮抗しているがゆえに、モーツァルトをより深く聴かせていただけたのだろう。

 チャイコフスキーは、群響の得意とするレパートリーで、この曲にもオーケストラはよく馴染んでいるはずである。にもかかわらず、今回の第1楽章では、いつもと様子が違うように感じられた。高関健音楽監督が振るようなチャイコフスキーの切れの良さを期待していたためであろうか。どうもリズムに乗り切れていないように感じた。フランスの方がチャイコフスキーを表現するとこうなるのかとも思った。演奏を聴きながら、なぜか頭に高野豆腐が思い浮かんだ。
 やはりこれは文化の違いなのかもしれない。日本人はチャイコフスキーの持つ憂愁やドラマチックさに引かれる部分があると思う。彼は祖国ロシアの音楽に西洋音楽を積極的に取り入れた。カラー版作曲家の生涯「チャイコフスキイ」(新潮文庫)に高関氏が「西の方を向いたチャイコフスキイ」という味わい深いエッセイを書いている(この方はほんとうに文章もお話もうまいなあと思う)が、そのタイトルに象徴されるように、チャイコフスキーは西洋にあこがれや模範を持ったという点では日本人と共通する部分があり、そのため曲を演奏したり聴いたりする場面でも琴線に触れるものがあって共感的になるように思う。ところが、フランスからみれば”東方”の音楽である。共感というより、エキゾチックな捉え方のほうが強いのではないか。今日のフランス人指揮者の振るチャイコフスキーを聴きながら、そんなことを思った。  第1楽章がややとまどいのあるような演奏に感じたのは、リズムのせいだろうか、それとも奏者の心情のせいだろうか。いずれにせよ独特のチャイコフスキーであった。第2楽章は、これも「寂寥感」の溢れる曲を期待したのだが、その方向よりも、各楽器の音色や旋律を強めに浮き上がらせて、深刻さから逃れるような感じがしたのだが。第3楽章はピッチカートのせわしなさを持った曲だが、これは指揮者があまり重きをおいていないのか、あっさりと演奏していたように感じた。終楽章も華やかなものの、やはりテンポやリズムが自分の体にはいっているものと違う部分があったが、最後は爽快に仕上げて、聴衆の多くは満足したようだった。しかし自分はどうも、今回は第1楽章を聴いて「フランス人のチャイコフスキー」という先入観が勝ってしまったせいで、カタルシスが味わえなかった。
 フランスの文化は、表面的に情報や物が溢れても、朔太郎の時代と本質的にはそれほど変わっていず「あまりに遠し」なのかもしれない。


◆◆◆ 第369回 ◆◆◆
11月20日(土) <指揮>マルティン・トゥルノフスキー  <チェロ>向山佳絵子

   モーツァルト/交響曲 第35番 ニ長調 K.385《ハフナー》
   チャイコフスキー/ロココ風の主題による変奏曲 イ長調 作品33
   ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲
   ラヴェル/《ダスニフとクロエ》第2組曲

 群響主席客演指揮者のトゥルノフスキー氏をチェコから迎えての演奏会。昨年度と同様に、ホールの中は始まる前からいつもよりにぎやかであった。世界的に著名な指揮者の演奏を聴くために東京など遠方からこられる方もいるようだ。
 モーツァルトは、出だしからいい雰囲気であった。ごはんがうまい具合に炊けると、湯気の中で米が輝きながらそれぞれの粒が立っているが、そのように群響の音も立っている感じがしたのだ。各パートのまとまりも素晴らしく、しかも微妙な指揮者の指示に実に的確に応えており、特に各フレーズの最後の処理が見事で感心した。たいへん品性のあるモーツァルトであり、とても楽しめた。群響とトゥルノフスキー氏の相性の良さを実感させてくれる演奏であった。

 ロココ風の主題による変奏曲は、チェロがいかに表現力のある楽器であるかを教えてくれた。ただ、今回の演奏ではもう少し陰影が欲しいような気がした。

 牧神の午後への前奏曲は、これも指揮者のコントロールが見事で、独特のニュアンスがよく出ていたと思う。トゥルノフスキー氏が演奏後の集いで指摘していたように、ホールの響きがもっと良ければ、この曲のカラーをより的確に出していけたであろう。曖昧模糊とした中に醸される雰囲気は、弱音をどこまでクリアに伝えられるかにかかっており、また演奏する側も他のパートの微妙なニュアンスが伝わることが不可欠であろうから、この曲の演奏がホールに依存する部分は無視できないほど大きいと思う。
 演奏後の集いには、群響理事長ということもあって小寺知事も参加していらした。挨拶の中で「専用ホールも作りたいと思っています。」という知事の発言があった。リップサービスの部分もあるかもしれないが、少しでも本気でお考えであれば、是非実現に向けて動いていただきたい。多くの群響ファンが最も切望していることである。

 ダフニスとクロエ第2組曲は、「夜明け」の精妙なオーケストレーションが素晴らしく、大編成が一糸乱れず見事なアンサンブルをなしていた。「パントマイム」の部分も変化に富んだ曲調を楽しませてくれた。フィナーレでは、強弱が瞬間に変わるキレのよさと曲全体を見通した構成力の確かさにより、最後まで恐ろしいまでの牽引力をもって進んでいた。指揮者の音楽性に群響のメンバーが共感しており、また指揮者も群響に魅力を感じている関係があるからこそ実現された名演であろう。

 国際的に活躍しているトゥルノフスキー氏は様々な国の言葉を話されるようで、群響との練習でも、フランス語、ドイツ語、チェコ語、英語が入り乱れて指示が行くようである。刺激があって楽しいという声も群響の団員から聴かれた。様々な文化的な刺激を得ることで、群響の演奏する音楽がより豊になっていくことは、聴者にとっても幸せなことである。


◆◆◆ 第370回 ◆◆◆
 1月22日(土) <指揮>尾高忠明  <ピアノ>迫昭嘉

   ラフマニノフ/ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18
   ショスタコーヴィチ/交響曲 第5番 ニ短調 作品47

 2000年代最初の群響定演はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ピアノが徐々に大きく打鍵され、弦が入ってくる冒頭から、ロマンの香り立つ曲である。群響の合奏能力の高まりを感じる出だしであった。この曲はピアノの技巧による聴かせどころも多いが、オーケストラもたいへん華やかである。どちらも自己主張ができ、お互いに盛り上がるので奏者も気持ちよいのではないか。
 また、歌謡曲で言えば「サビ」にあたる部分がとても多い。各楽章とも印象的な美しい旋律が繰り返し現れ、聴き手を否応なく引き込む。全体はロシアの大地を泰然と流れる大河を思わせる。しかも目をこらすと陽光のきらめきや魚の息吹がそこここで感じられる豊さに溢れた河のようだ。
 迫氏の演奏は、難曲をそうと感じさせないほど華麗に弾いていた。群響のオケも自然にロマンを感じさせる演奏であった。各楽器の音量バランスがよくとれているせいか、奥行きのある演奏に聞こえた。特に低弦と打楽器の効果がよく出ていたように感じた。尾高氏の指揮も、曲全体を見据えた計算がよくなされた指揮のように感じた。知のコントロールがあってこそ情への働きかけが増すことを実感させてくれた演奏であった。2000年の幕開けにふさわしい華やかな名演であった。

 ショスターコヴィチについては、個人的にまだどうもなじめないでいる。ロシア革命の影響がある音楽という、先入観があるためかもしれない。わかってはいても、一度固定観念ができるとなかなか純粋になれず困る。第1楽章も随分抑圧された感じを受ける。第2楽章は無理やり明るくしようとしているのだろうか。なんともわざとらしい感じがする。第3楽章は、パンフレットには「ショスタコーヴィチの作った最も美しい音楽」と書いてあるが、確かに部分的にきれいなフレーズもあるのだが、どうも全体として鬱々とした感じが拭えずひたれない。第4楽章の冒頭は勇壮で、これはいけるかなと思ったが、最後に盛り上がるところで、気分がなぜかのらない。
 同じロシアの作曲家で、ラフマニノフに入り込めるのに、ショスターコヴィッチを拒絶してしまうのはどうしてなのか?マーラー交響曲第9番第2楽章のわざとらしい舞踏と今回のショスタコーヴィチ第5番第2楽章は似た雰囲気がないではない。また、マーラーの同曲第4楽章とショスタコーヴィチ同曲第3楽章もある種の諦観と清澄さを持っている点で類似を感じる。しかしマーラーが理解できてショスタコヴィチがすっと入ってこないのは、なぜなのだろうか?曲に馴染む回数が少ないためなのだろうか?政治的な圧力といったことが自らの人生経験でまだないためなのだろうか?それとも感覚的なものなのだろうか?単に個人的な趣味の問題なのだろうか?いつかはショスタコーヴィチが好きになれるのだろうか?これらの疑問に解決は訪れるのだろうか? と、いろいろ考えさせられるのも、曲の力ゆえかもしれない。本当につまらない曲であれば、2度と聴きたいとは思わないが、やけに引っかかりを残す曲なのだ。

 演奏後、ホールで行われるコンサートマスターお二人との集いも、大分お慣れになって、聴者との間に和やかな雰囲気がでたいへんき好ましい。ただ、毎回コンサートマスターが出られるのはお疲れのところ申し訳ないので、他の団員の方に出ていただく場面があっても良いのではないか。様々な奏者の観点を聞かせていただくのも参考になると思う。


◆◆◆ 第371回 ◆◆◆
 2月19日(土) <指揮>高関健

   ベートーヴェン/交響曲 第6番 ヘ長調 作品68《田園》
   バーンスタイン/《ウエスト・サイド・ストーリー》より<シンフォニック・ダンス>
   バーンスタイン/オーケストラのためのディベルティメント

(今回は所用で聴きにゆけませんでした。残念です。)


◆◆◆ 第372回 ◆◆◆
 3月18日(土) <指揮>高関健  <ヴァイオリン>渡辺玲子

   J.S.バッハ=マーラー/J.S.バッハの管弦楽作品による組曲
   ヴァイル/ヴァイオリンと管楽のための協奏曲 作品12
   コープランド/アパラチアの春
   ストラヴィンスキー/3楽章の交響曲


 今年度最後の定演は、ヴァラエティに富んだ4つの曲目が並ぶ。これらの共通点はいったいなんだろうか?この疑問には、演奏前に高関健音楽監督がステージに現れて答えてくれた。
 「今回が一番変なプログラムです。曲を選ぶにあたって縦糸と横糸を考えたのですが、縦糸は、バッハの没後250年、ヴァイルの生誕100年、没後50年、コープランドの生誕100年、没後10年という節目の年にあたることで、横糸は、アメリカに関わりがあるということです。最初の曲の編曲者マーラーは晩年ニューヨークで活躍し、ヴァイルは「三文オペラ」など、アメリカの演劇にも関わり、コープランドはまさしくアメリカの作曲家、ストラヴィンスキーの作品はニューヨーク・フィルの委嘱作品です。アメリカ、特にニューヨークとの関わりが横糸です。」おおよそ、このような内容を指揮者が流麗に語ってくれた。

 バッハの管弦楽組曲をマーラーがアレンジした曲は、たいへん楽しめた。小編成のアンサンブルによるバッハも良いが、大編成のオケで鳴り響くバッハも魅力がある。マーラーは原曲を生かしながら、通低音としてオルガンを導入し、ピアノで独特のフレーズを挿入している。音が厚くなるが、決して原曲が損なわれることはなく、群響は実にみずみずしい演奏を生み出してくれた。これほど活き活きとしたバッハを聴くのは久しぶりであった。「G線上のアリア」の旋律も、切々とした演奏とは違った表現で、これも新鮮であった。マーラーの交響曲第5番のアダージョは、この演奏と実によく雰囲気が似ている。
 マーラーが晩年創作に励んだ作曲小屋に置かれたものは、ピアノ1台とゲーテとカントの全集、それにバッハの楽譜だけだったという。複雑で多彩な管弦楽を駆使した交響曲を10曲残した近代の作曲家マーラーが手本にしたものは、まさしくバッハであった。バッハの曲は単純な形をもとにしながら,組み上げられた構築物は極めて精緻でありなおかつ力強さを有している。それゆえに、どのようなアレンジをおこなっても魅力的になるのであろう。
 群響の表情豊かな演奏は、パブロ・カザロス指揮、マールボロ音楽祭管弦楽団を彷彿させる貴重な演奏であった。

 最初の曲を真剣に聴きすぎたせいか、年度末の慌ただしさや花粉の受難、寝不足などによる疲れが一気にでたようで、集中力が途切れてしまったようだ。それ以降の3曲については、プログラムは魅力的なのだが、ボーっとした頭の上を音が通り過ぎていく感じになってしまった。より体調がよければ楽しめたのではと思う。群響のメンバーも、これだけ中身のある4曲を仕上げるのはたいへんだったのではと思った。
 今年度最後の定演、ご苦労様でした。


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