06-11/19 五行大義で読む六十九難七十五難 加藤秀郎

六十九難は

經に言う虚は補し実は瀉す。
不虚不実では以って經を取るは、何を謂うか

然るに、虚は其の母を補し、実は其の子を瀉す。
当に先ず補し然る後に瀉す。
不虚不実では以って經を取るとは、是れ正經自生病。
他の邪に中たらざるなり。
當に自ら其の經を取る。故に以って經を取ると言う。

経本には虚は補し実は瀉すとある。
では、虚でも実でもない場合は経絡を取るとは、どう言う意味なのか?

難経の場合は虚実とは五臓から派生した状態を示したものだが、それにはまず、虚が観察されたらその虚したところから、五行で言う「母」に関係した箇所に何らかの形で、補の働きかけをする。
実であればその実したところから、五行で言う「子」に関係した箇所に何らかの形で、瀉の働きかけをする。
虚実の両方が観察された場合には、まず虚が観察されたところから五行で言う「母」に関係した箇所に補の働きかけをして実の観察された箇所の様子を見る。必要であれば実したところから、五行で言う「子」に関係した箇所に、瀉の働きかけをする。
五臓から派生した状態である虚や実が観察されないのに症状を訴えるようなら、その症状に直接関係する経絡に何かの施術をする。
これは正経が自ら病を生んでいるのであって、五臓の損傷はない。
複雑な邪の中り方もしていない。その場合は無理に治療理論などを用いて手を込ませるのではなく、ただ症状に関係がある経に何かの施術をすればよい。だから「以て(これらの理由もしくは諸事情で)経を取る」という。

まずはこの六十九難の「母子」という言葉が何かと言うところで、5月の「五行大義にみる母子」と言う講義がありました。
「母子」の解説として楽器の本来持つ材質からの性質と、その音色や他の楽器からなるアンサンブルを比較した時に、そこに「母子」と「夫婦」と言う関係性がある。干支を引きながら「母子」は相生で「夫婦」は相剋がこの講義の結論でした。
ここから読み解けることは、六十九難には「母子」という言葉で現されているので「相生論で考えなさい」であろうと推察できます。
しかしこの難のテーマは「虚実」に対する「補瀉」の法です。しかも「不虚不実」と言う言葉も出てくる。
難経で言う虚実は五臓の状態だとした時に、不虚不実は五臓は正常動作しているのに病があることと定義し、ではその五臓が母子で言われる様な五行関係とはどうなのかという部分から、6月の「五行大義に観る五臓の五行分類」があり、また5月の引き続きから7月の「五行大義に観る相生論」がありました。
6月の「五行大義に観る五臓の五行分類」は五臓の季節との関係が、文献によって違うことが一つの争点になっています。
結論としては、白虎通や及び素問や(周礼の)醫治の書は、実の行ないを用いて験と爲す。故に其の所にて是れを配するなり。(つまり医学書などにある、木-肝、火-心、土-脾、金-肺、水-腎は実体験による結論なので正しい) またその裏付けとして
白虎通義に又(五行篇)云う、
木が浮く所以(ゆえん)、金が沈む所以(ゆえん)は何か。
子が母に於いて生れるの義。
子が親から生まれるという現象は、外的現象として観察できる。

 

 
   
肝は以って沈み、肺は以って浮くは何か。
知の有る者は、其の母を尊するなり。
子が親を尊ぶ心は内的様相としてその本人が知るのみで、推察によって認識する。

 

 
   
などの例をあげるが、根本的な五行の動作原理は干支で説明される。この例は七十五難につながる。
7月の「五行大義に観る相生論」は数字から五行の発祥を説き、性質分類とその関係性、もしくはそれぞれの働き方の様な事が書かれている。このこともどちらかというと七十五難につながる。また「五行のそれぞれは類性が違うからこそ、性別の違う男女が繁殖する様に相じてものの変化を導いていく。」とある。また親子関係であるという記載もある。

 火   土   金   水 
木は温暖で摩擦
すると火を生む。
木が焼かれ灰に
なったものが土。
金は石の中にあり、
石は山から流れた
雫が集まて出来る。
「少陰の気が潤澤して」
金属に表接した空気が冷やされて結露することで、また金属は熱をかけても液化する。
水を吸い上げて
木が生え伸びること。
と言う循環が、一種の例え話として書かれている。

七十五難は
経にいう東方実し西方虚せば南方を瀉し北方を補うとは何か。

しかるなり金木水火土まさにこもごも相平らぐべし。
東方は木なり。西方は金なり。木実せんと欲せば金まさにこれを平らぐべし。
火実せんと欲せば水まさにこれを平らぐべし。土実せんと欲せば木まさにこれを平らぐべし。
金実せんと欲せば火まさにこれを平らぐべし。水実せんと欲せば土まさにこれを平らぐべし。
東方は肝なり。すなわち肝実するを知る。西方は肺なり。すなわち肺虚するを知る。
南方の火を瀉し北方の水を補う。南方は火。火は木の子なり。北方は水。水は木の母なり。
水は火に剋。子よく母をして実せしめ母よく子をして虚せしむ。
故に火を瀉し水を補い金をして木を平らぐることを得ざらしめんと欲す。
経にいうその虚を治することあたわざれ(不能)ば何ぞその余を問わん。此れこの謂うなり。

経本には「東方が実して西方が虚していれば、南方を瀉して北方を補す」とある。どういうことか?
金モ木、水モ火、それに土と、
五行は互いを平均化する様に働き合う。
そして東方とは木であり西方とは金である。
‘木’が実になろうとすれば、
‘金’が剋して抑え全体が平均化する。
‘火’が実になろうとすれば、
‘水’が剋して抑え全体が平均化する。
‘土’が実になろうとすれば、
‘木’が剋して抑え全体が平均化する。
‘金’が実になろうとすれば、
‘火’が剋して抑え全体が平均化する。
‘水’が実になろうとすれば、
‘土’が剋して抑え全体が平均化する。

東方とは木であるから肝であり、東方が実するとは肝実である。西方は金であるから肺であり、西方が虚するとは肺虚である。
そうすると南方である火を瀉して、北方である水を補うことを行えと言う意味である。
細かく説明すると、
南方が火とは木の子ということになり、
北方が水とは木の母ということになる。
水は火を剋する。
子は母を実にさせることをする。
母は子を虚にさせることをする。
六十九難は実の時は子を瀉、虚の時は母を補。
これは五行の循環に行われるエネルギー推移という生理を利用した治療法則である。
しかし七十五難は子は母を実に、母は子を虚にさせるという。
この場合は五行の循環に何らかの支障をきたしてエネルギー推移が停止するに近い状態をいういわば病因論である。
だから火を瀉して水を補うことで、
金による相剋の作用で木の平均化が
得られる事を期待する。

治療法則は六十九難を用いながら、相剋の作用で平均化を図るのが七十五難の特徴といえる。そしてもう一つの七十五難の特徴が、木実肺虚という相剋の方向が逆になる病証状態である。
これが10月の五行大義のなかの相剋論にある。

経本にある、その病証の虚を治療することが不可能であれば、そのて追求していくと言うこと。というのがこの「金による相剋作用の平均化」を謂うのである。

この木実肺虚という相剋の逆方向での肺虚を、人智が直接治療するのは不可能なので、その「余ったものが何かを考えよう」となります。その余ったものから‘金が、木を剋せるほどの、虚からの回復’を導き出せると考えられます。

相剋関係というのはこの五行というものが、どこも出っ張ったり引っ込んだりしない様にしている力関係を意味している。ところが剋される側が、剋す側より強いという状態もある。相剋はバランスを取る働きであり、変化発展をさせるものでもある。左の図にある様に、相剋とは逆の力関係になった場合、変化発展が為されない。生体がこの状態にあるときの治療法則が七十五難といえる。肝実肺虚とは、肺の虚がほとんど取り返しのつかない程で、その虚をなんとかしなければならないため「余ったものが何か」を考えなければならない。その余ったものとは、肝実肺虚、火瀉水補。に加わっていない五行として‘土’であろうと考えている。土が、もしくは脾が、ほとんど取り返しのつかない肺の虚にどのように関係するのかから導き出した治療法で、丹念に何度も何度も治療しながら、肝実肺虚の肺の虚を回復に向けていくのではないかと思います。