• 気とはこの世の森羅万象を生じさせるエネルギーの源です。
    • 気とはまず作用を生じさせる
    • 作用を受け止める‘形’を生じさせる
    • その作用によって起こる反応‘質’を生じさせる
    • 作用をすれば反応をするという関係性を保つ
    • 作用と反応それぞれの変化を起こす

    という働きをします。

気’は漢方の、特に鍼を運用するための中心になります。

では‘気’とは何かというと

神仙思想から現れた考え方です。

 神仙思想とは

中国古来の生活気分を支える民間思想で、主眼は現世利益という楽園願望です。

    現世利益とは今のまんまを良くするということですが、
    特徴的なことは生活フィールドの仕組みを変えるというのではなく
 
「環境や状況はそのままに捉え方を整理する」という考え方です。
 

ではその〜捉え方を整理する〜とは、

いま自分がいる‘この世’もしくは‘世界’や‘自然’をどうにか把握して、
つまり生活環境の森羅万象の仕組みを知って、円滑に過ごすための利用や予測をしたいわけです。
 
例えば、暖かくなって花が咲く頃から日にちを数えだして、
そうするとだいたい360日前後になると、また同じように暖かくなり同じように花が咲くことを知ります。その間に季節の移り変わりを知り、それが毎年同じように繰り返されていくことを知ります。この一年間の季節の変化を利用したのが農耕です。そうすれば暖かくなることを予想して種も蒔けます。
 
ところが、季節の移ろいは毎年同じでも、その年によって気候が違うのです。
毎年寒暖に差があったり日照りや大雨が続いたり、そのため農作物の出来方が違ったりします。食料どころか一瞬で生命すら脅かす災害さえ、初めは大自然に神をおくことで、お祈りで避けるようにしていました。太古であってもいつしか時代が進むにつれ、何とか気候の違いに対応すべく複雑さを帯びた法則を見つけだします。それが易の起りであり干支の始まりです。突発的な災害は解らなくっても農耕にはある程度有用でした。
 
その年の農作傾向に判断を下すのも、時の王もしくは君主でした。
ところが‘この世’を把握する法則性の探求は、その判断を下す時の王の性質やその能力の精度やコンディションまで知ろうとします。この人の性質を知るという試みの頃には社会もそれなりに複雑さを帯びてきて、多様に織りなす人々の性質さえ、世の森羅万象の一部と観るようになります。
思想哲学の始まりです。
この大自然との対峙からスタートした仕組みを知るという試みの、ついに行き着いた現世利益の結論が、欲もなく興りもなく無為自然に生きる‘仙人’でした。それは自然と向き合う人の心情と、向き合う自然の仕組みや関わりを、
 
‘道(どう/タオ)’という原理と‘徳’という人格で視た理想でした。
 

この‘道’や‘徳’について書かれた歴史的書物に

老子の[道徳経][荘子]があって、
漢の時代には‘老荘思想’として世界観を確立しています。その世界観は当時の知の百科として残された[淮南子]という書物の背景を描きます。[黄帝内経素問]の認識観はこの背景の延長上から生まれました。ただ医学とは離れた一般感覚での‘道’や‘徳’という捉え方は、社会的には‘道家思想’-‘道教’へと繋がって行きます。

様々な歴史的書物にも‘気’という言葉が見えます。

老子の道徳経では、
人は作為を多く持つことで、いよいよ‘道’という原理から外れて生きてしまう。
今でしたら境地とも言うのでしょうか、人格の中に経つ‘徳’によって無知無欲に生きることで、人は‘道’に繋がる。そして森羅万象の全てが道の中にある。それは世の移り変わりの原理に身を置くことで、‘徳’という生き様に近い人の柄とも言え、あるがままの姿こそ望ましいという物です。
荘子は<ものは在るがままに在る>という事への絶対視を、
ある時は壮大にある時はなんだかせせこましく語ります。大小深浅といういわば物の持つ特徴は比較によって解ると言ってくれて、<在るがまま>が眺められるのは一つの物を見た絶対ではなく、全体を眺めて見える相対差によって初めて受け取れる。しかも<定収入を得られる役人も泥亀から見れば不自由な組織人>の例え通り、物事を眺める角度の多様性も必要と説かれています。

私は老荘思想が仙人になりなさいという考え方ではないと解釈しています。少なくとも医学が受け継いだことは、理想とする人の生き様ではなく<人は在るがままの状態が健康>という定義に集約されます。‘道’という原理が描く世界観を‘気’というエネルギー論によって整理し、‘徳’という理想への願望を<在るがままでいて健康>というメッセージに託したところからこの医学が始まりました。‘道’という原理に則った在るがままで在れとは、

つまり<人も自然の一部>であるということです。

それは天人合一という言葉であって、
‘天’=自然現象と‘人’=社会現象には対応一致があるという、古来の‘天’もしくは‘日’への土着信仰が起源する、天と人が織りなす相関関係をいいます。<天人相関>ともいいます。<大自然の営みの中で人は生きる>から始まって、<人の行為の善悪に応じて天が災異を示す>いわゆる‘天罰’を経由し‘易’という法則性から社会学へと発展します。<人の行為の善悪>とは時の君主の所為をいって、民間から権力へと向けた抑止力を含み思想の定着を意味します。
この普及性の高い考え方が医学へと転用され、‘天・地・人’三才が持つそれぞれの機能性の医学的解釈と、‘気・形・質’という自然界の法則から見た人の捉えである‘精・気・神’という概念を産みます。

ここで重要になることが、その自然とは何なのかと言うことです。

辞書によるところの“自然”とは、
手を加えないありのままの状態。むりがないようす。ひとりでにそうなるようす。
老子の道徳経には<万物将自化>「万物マサニ自ラ化セントス」とあります。
自然を把握するという探求は、なにも古代中国独自の行為ではなく、例えばアリストテレス(BC384~322)は「自然とはそれ自らのうちの運動の原理を持つもの」と言っています。歴史的に洋の東西を問わず思想起源の段階で自然観形成がなされ、その内容はどちらもあまり変わらないようです。つまり、

自然とは、人の意図とは別に<勝手に変化するもの>といえます。

その<勝手に変化するもの>との何とか対峙を試みようと言う行為が、文明の起りであり思想の始まりといえます。それが後に来て一方では風習を育て、また別に‘易’や‘医’や‘農耕’を生み一つの分野として確立していきます。ただ展用過程においてあまりにも多様な変化を見せる大自然の複雑さには、相応した解析方法が必要となって行きます。

そのため区切りをつけて整理しやすくしました。

その区切りを‘宇宙’と呼びます。

宇宙という言葉が出てくる文献は、

例えば荘子の斉物(さいぶつ)論篇に
奚旁月日,挟宇宙
「月日に旁(そ)ひて宇宙を挟(さしはさ)む」とあります。
聖人の雄大さを例えた一節ですが、
‘月日’とは単なる天体の大きさを言っただけではなく、時間の運行や自然の移ろいの変化も含め、‘月’と‘日’で陰陽を示して次節の‘宇宙’を明確化します。
‘月’はその満ち欠けで空間、つまり大きさの変化を示して‘陰’で‘宇’を空間と意味し、‘日’はその運行と輝きで時間と作用を示して‘陽’で‘宙’を時間と意味します。
 
もう少し時代が進むと、
     
淮南子の斉俗(さいぞく)訓に
故天之員也不中規、地之方也不中矩。往古來今、謂之宙。四方上下、謂之于(宇)。
    「故に天の員(丸さ)(コンパス?)中てられず、地の広さ矩(定規)中てられず。
    往古來今(時間)、これを宙といふ。四方上下(空間)、これを于といふ。」とあります。
     
‘道’という原理の位置を解いた部分ですが、ここでははっきりと‘宙’を時間‘宇’を空間といっています。
       
ここに時間と空間で宇宙と知る手だてが書かれています。
       

変化の観点を、

時間という尺度と空間(大きさ)という尺度に求めました。

この二つの区切りで捉えられた認識を‘宇宙’といい、その変化の内容をそれぞれの‘陰陽’といいます。

 
    宇の祖字は“(う)”。于とはで‘曲がった形を作るための添え木’や‘刃の長い曲刀’。
    宇はで、屋屋の義が古く、後に拡大解釈で領有・支配の及ぶところを[帝宇][守宇]、また事業に施して[業宇]、人の性情に及ぼして[眉宇][姿宇]のようにもいわれ、認識空間を意味したようです。
    宙の祖字は“由(ゆう)”。由とはで実が熟して中が油化する意味。初形はで瓠(ひさご)の類です。
    宙はで、油化の引伸義、中が空虚となるモノ。外郭があって内実がないとなり、時間の進行を意識した空間の起りを意味できると思います。
    宇も宙もともに(べん)に従い建物の象であり、どちらも空間を示す語でしたが、分別して空間を宇、時間を宙としたようです。
 

〜宇宙とは時間の進行と、空間内での大きさの変化で把握する自然観です〜

把握する自然観とは、

自然は<勝手に変化するもの>という認識なわけです。

 荘子の則陽篇に

随序之相理、橋運之相使、窮則反、終則始。

随序の相理(おさ)むる、橋運の相使(せ)しむる、窮(きわ)まれば則ち反し、終れば則ち始まる。」とあって、

      [随序の相理]とはーーーーー昼夜や四季が移ろうこと。
      [橋運の相使]とはーーーーー板バネの反復運動にという例えです。
       
この解釈はそれぞれに規則性があって、行き着けばまた元に戻り、終わればまた始まりに帰るいうことの、
 
つまり<陰極まれば陽となり,陽極まれば陰となる>
陰陽論の基本理論のひとつです。
この2つの例えを、それぞれ陰と陽として考えます。
  
    [随序]
    [天の変化]を言っているわけですから‘陽’で、
    そうすると[橋運]
    ‘陰’で対となる天に対応する[地]の例えとなります。
 
[橋運の相使]つまり板バネの反復運動は、
一度手を加えて反り返らせることで、始めてその反復運動の働きを興します。
 
形あるモノが<一度手を加えて>という作用を受けて、何かしらの働き〜つまり反応をする〜わけです。
 
そしてその板バネは、使われ方や力のかけ具合やそもそものバネの性能差などで、その時の条件や特性に応じた特徴的な働き〜つまり反応をする〜の例えでこの話を意味づけます。
 

もう一つ荘子の則陽篇に

天地者形之大者也.陰陽者氣之大者也..

「天地は形の大なり、陰陽は気の大なり。」

天地は、

万物が示す形状の、最も根元でいて総括しうるもの。

その`形状`への対応として

‘気’の存在をあげ、

それは形状の根元で総括しうる天地の対応として

陰陽’の概念を言っています。

陰陽’の概念はこの時期すでに常識化していますから、これは‘気’の説明といえます。

陰陽’とはある条件下での比較による差を言うわけで、

その条件下の設定が

‘上とか下’や‘前とか後’のように場所を示す比較であれば‘空間’という尺度で、

温度のような‘高い低い’もしくは‘上へ下へ’や

光のように‘明るい暗い’もしくは‘強い弱い’といった、作用もしくはエネルギーの方向性であれば

‘時間’という尺度で把握し、

‘陰’か‘陽’という‘性質’を分析するわけです。

 

どこがどうなったか?

春に
どこ?ー‘南’の方から
どうした?ー‘暖かく’なっていき
秋に
どこ?ー‘北’の方から
どうした?ー‘涼しく’なっていく
 
 

場所が大いなる自然の仕組みから何らかの`作用`を受けて、

例えば四季の移ろいから`春`という作用を受ければ、

`南の方から暖かく`なるという反応をします。

そして四季の変化によって`移ろいに乗じた反応`も変化していきます。

       まず受ける‘作用’も陰陽で、
     作用を受け止めた‘場’も陰陽で、
そして受け止めた場が示す‘反応’も陰陽で、

そしてそれは‘時間’と‘空間’という尺度によって把握が可能です。

そもそも大いなる自然の仕組みからの作用で、‘時間’と‘空間’という尺度で知る

宇宙における‘陰陽’が生じるわけです。

ただ人知では壮大すぎて、仕組みは観察できても原理の根元の見通しは不可能です。

そこで自然の仕組みの源泉を仮定しました。

それが‘気’です。

    まず[作用]があってそれに対して[反応]をするという万物の森羅万象で、
    その駆動源に‘気’というエネルギー論を置いて、
    とらえ易くしたわけです。

ところで一般的なエネルギーとして、

エネルギーという概念は、
史的にはレオナル・ド・ダビンチ(Leonardo da Vinciイタリア:フィレンツェ:1452〜1519)がその端緒を掴むところからはじまります。それは「仕事の保存」という発見からで、てこや歯車などの器具に加えた力は、結果的に増えも減りもしないということです。
例えば変速機の付いた自転車のギアを重い方にシフトすれば、ペダルを同じだけ回転させても早く進み、軽い方へシフトすれば同じ回転でも遅く進みます。つまり結局は、同じ疲労度で進んだ距離も同じと仮定できます。もし力が増えていれば軽いギアでも早く進むし、極端に減れば重いギアでも早くは進まなくなるわけです。
 
同じ事をガリレオ(Galileo Galileiイタリア:ピサ:1564〜1642)
振子運動の実験で見いだしました。つまり振子をつり上げて離した高さは、逆則にふり上がった高さと同じということです。
 
この事実を体系的に説明しようとしたのが
デカルト(Rene Descartesフランス:トゥーレーヌ州:1596〜1650)でした。体系的な説明とは、光や熱などは粒子と捉え、全ての運動は物質の空間移動と考えました。運動の大きさは物質の重さと移動の速度で表すとしました。
 
この、エネルギーは物質の運動で表すという法則性を、
具体的に掲げたのがニュートン(Issac Newtonイギリス:イングランド:1642〜1727)でした。この法則性をニュートンの運動の法則といいその内容を現代で言う古典力学(=ニュートン力学)といいます。

ニュートンの運動の法則

1.慣性の法則
外部から作用をうけない物体は、静止または等速直線運動を持続する。
2.運動の方程式
物体が外部から力を受けると、物体は力の方向に加速度を生じ、
その大きさは力の大きさに比例し、物体の重量に反比例する。
3.作用反作用の法則
物体が他の物体から力(作用)を受けるとき、力を受けた物体は作用を及ぼした物体に、
その力と大きさが等しく逆向きの力(反作用)を及ぼす。

古典とは言っても生活範囲では必要にして充分な法則です。

このニュートンの法則で、
ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibnizドイツ:ライプチヒ:1646〜1716)は落下する物体の速度から、仕事の大きさにのちの力積と呼ばれる要素を用いれました。これはデカルトとはまっこうから対立する考え方でしたが、ダランベール(Jean-Baptiste Le Rond d`Alembertフランス:パリ:1717〜1783)は「仕事」と「力積」は力学的に分けることを示唆しました。そしてヤング(Thomas Youngイギリス:サマーセットシャー:1773〜1829)によってニュートン力学ではライブニッツの考えが一般的とされました。この時初めてヤングによってエネルギーという言葉が使われます。それはギリシャ語の『仕事』という意味からの言葉でした。

力積とは

ある物体に力を加えたときに、加えた力の大きさだけでなく、力を加え続けた時間の長さも重要です。
この加え続けた時の時間の長さと、加え初めてから終わるまでかける力の大きさの平均をかけ算した物を‘力積’といいます。力が積み重なるという意味だと思います。

以上が15〜19世紀初頭にかけて出来上がった、力学の範囲内での体系です。

現代的な意味でのエネルギー原理は、

1840年代、ドイツの船医マイヤー(Julius Robert von Mayerドイツ:ハイルブロン:1814〜1878)が、
ジャワ島で見た患者の血液の色に関する観察から、摩擦で消失した力学的エネルギーは熱に転化することを掴んだことから始まりました。マイヤーと一緒に航海していた船員の静脈血が、熱帯でははるかに赤いことを発見し、この現象はラボアジエ(Antoine Laurent Lavoisier:1743〜1794)の動物熱の化学理論を確証すると考え、そこから現代エネルギー原理である‘エネルギー保存の法則’を発見する契機になったといわれています。
 
20世紀初頭、アインシュタイン(Albert Einsteinドイツ:ウルム:1879〜1955)
特殊相対性理論の中の一つに‘静止エネルギー’という考え方をもちいました。粒子は止まっていてもその質量によって内部に固有のエネルギーを持ち、爆発すれば外部に放出され、放出された分だけ質量は欠損すると予言しました。それはのちに原子核反応によって検証されました。
 
エネルギーの特徴の一つとして、
物質に何かの形で働かないと、エネルギーがあるというのが解りません。
それは作用という形で確認できます。
例えばボールを100メートル投げられるという人の能力はエネルギーですが、実際にボールを投げないとその能力はエネルギーとして確認できないわけです。
遠投能力という力がボールに作用したためボールは飛んでいき、ボールが飛んでいくことで遠投能力が確認されたわけです。

        この<作用をおこす>エネルギーがあって、
   作用を受ける<物質を形成する>エネルギーがあって、
作用を受けた物質が<反応する>というエネルギーがあって、
         そういった‘気’というエネルギーがおこす状態には

それぞれ名前が付いています。

それがこの、理論のページの巻頭にある項目です。

例えばこの医学は人が健康を維持するという目的を、‘気’というエネルギー論によって観察し分析して達成するためのプロセスを導き出します。実はそれが本来の東洋医学の姿だと思います。

気=エネルギー

この観点で東洋医学の概念を現代認識に近づける事によって、
結果的には現代人の認識が東洋医学に近づけることを目指してこの理論のページを書いていきます。