- 理論があって、現象を充てはまるのが科学です。
- つまり論説に対して再現性を持って立証出来たという事を主義としています。すると一つのことを立証するためには膨大な知識と時間と手間が必要になってしまい、各分野の細分化がされていきます。そしてその細分化された分野の中のさらに一つの法則性の中で、確実に同じ事が起こると言うことを良しとするわけです。それぞれの細分化の集大成が一つの分野となり、それぞれの分野の集大成が全体となり、社会の仕組みを考える基盤となるわけです。
- ところが細分化した各専門の分野の知識を全て持たないと、全体統治が出来ないという欠点があります。自然科学主義の現在では専門性は発達するのですが、全体としてながめたときに支離滅裂になる可能性があります。例えば流行の健康法がそうですね。特定の成分がクローズアップされて急に注目されたモノが、ある時には生活習慣病の原因を指摘されて忘れ去られます。医学の中の単に栄養学の分野を見ても、専門が分かれすぎて統治性が低くなり、矛盾的解釈という誤解によって一般に広がったりします。
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- 現象があって、後から理論をあてがうのが漢方です。
- つまり陰陽論がベースになったいるため、いま目の前に起こっている現象をどの角度から考えるか、と言うことから分析や考察がスタ−トします。陰陽論にはいくつかの法則性があるのですが、そのときの対峙した現象の状態に合わせて、最も論説がスムーズに通るようにその法則性を組み合わせて考えます。ところがこの場合、人の主観が入りやすいと言う欠点があります。そのため声高で権威のある人の意見に流される可能性が出てきます。しかし周囲の環境にその論説の正当性をジャジメント出来る能力があれば、単なる主観の介在を回避できるわけです。
- 古代中国では知恵のある人を尊重したという経緯は、こんなところからも推察できます。ところが、単に知っているとか理屈を並べるのがうまいとかでは、権威者の主観にまみれた論説を打破するのに弱くて、そのときの全体気分を推察する能力が必要となってきます。つまり‘社会や世相のその時を知る人’や‘民衆の感情の底辺を知る人’なわけですが、そこに神仙思想の必要性があったのだと思います。
ここに東洋の曖昧さがあるのですが、こと医学だけ取ってみれば、人が生きるということも踏まえて全体把握は、漢方の方がうまいようです。
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